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救世主神話と魔王神話

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世界各地には闇に葬られた神話がある。それはいずれ世界が光の救世主と闇の魔王とに分かれて最終戦争を行うというものである。
無論、これだけならば単なる神話に留まっているだろう。だが世界各地に封じられている神話だけはあり、この神話には続きがあるのだ。
そう絶対に人類が辿るべきではない結末が……。
それは光の救世主が闇の魔王との戦いに敗北し、結果として世界が新たなものへと書き換えられるという結末にある。
当然、この神話を世界各地の人々は種族、身分の垣根を乗り越えて恐れた。そのためにこの人類敗北の神話は深い深い闇の中へと葬り去られていく事となったのだ。

「……聞いた事がないのも無理はないな。その様に歴史の闇の中に封じられていたのでは後世の我々は知る術もないのだから」

フロリアはその神話を聞いて自分の剣を握る手が震えている事に気がつく。
当たり前だろう。なにせ人類が滅亡し、自分たちの文明が滅んでしまうという救いのない神話を聞かされてしまったのだから。
一方でマルスの方は神話の事など耳にも届いていなかった。
先程、パウロが放った一言が耳にこびりついて離れなかったのだ。
兄が自分を殺そうとしている。彼にとっては神話など大した意味もなかった。この一点だけが彼にとって大事な事であった。
パウロは茫然自失としているマルスを神話の意味を知って気を失っていると解釈したらしい。
彼は剣を突き付けながらマルスに向かって言った。

「そういう事だッ!あんたには恨みがないがここで死んでもらうぞ!」

「……兄上が?兄上がそう言われたのか!?弟のおれに!?」

「まぁ、そうなるだろうな」

パウロの一言は何気ないものであった。それでもマルスの兄に対する信頼を打ち砕くには十分すぎたといえるだろう。
この際にマルスは吹っ切れた思いであった。全てがどうでもよくなったというべきかもしれない。
それでもマルスは頭を抱えた。悲鳴さえ上げたかもしれない。
実の兄に命を狙われたという事はそれ程までに彼の心を打ったのである。

勿論、それはパウロにとってはどうでもいい事であった。
パウロは剣を構えてマルスの首を落としに向かう。
それを途中で阻止するのはフロリア。彼女はパウロの剣を跳ね除けただけではなく、パウロの腹部に向かって強烈な一撃を喰らわせていく。
一応は鎖帷子で防いでいるとはいえおおきく振りかぶった剣が直撃すれば多少のダメージは喰らう。今回の場合においてはそれが幸いであったらしい。
彼が腹部を抑えている隙を狙って、フロリアはマルスの手を握り地下牢からの脱出を図った。

だが、真上には武装した騎士たちの姿。
そこにいるのは全てフロリアの部下の騎士たちである。
なので、フロリアは上司として毅然とした態度で退却を命じた。
だが、部下たちは頑として首を縦には動かさない。
それだけでは飽き足らずに部下の一人が矢を放っていく。
矢はマルスの頬を掠り、地下牢の階段の上に落ちていくばかりである。
その時、フロリアの堪忍袋の尾が切れた。気付けば部下の一人に向かって切り掛かっていた。
怯えた部下たちは次々と弓矢を放っていくが、恐怖のために弓の弦を引く手が震えており、狙いは外れていくばかりである。
なのでフロリアが部下へと近付くのは容易であった。試しに一番地下牢へと続く道の近くに立っていた部下を左斜め下から斬り上げようとした時だ。
不意にマルスがフロリアを大きな声で止めた。

「待て!フロリア!そ奴らに聞くのだ。なぜ、そ奴らがおれの命を狙ったのかとな!」

「何を仰られます!確かに此奴らは私と共にあなた様に仕えておりましたが、恐らくは魔女の誘惑に負けて、我らを狙ったのでございましょう!この期に及んで見逃す必要などありませぬ!」

「ち、違います!」

震えた声で反論の言葉を放ったのは若い兵士の方である。

「わ、我らは世界の滅亡を食い止めるため、涙を呑んでマルス様を手に掛けようと考えました。恐れながらフロレス様……あなた様はお考えになられた事がございますか!?ご自身の親が、兄弟が犠牲となられる日の事を!」

「それでも自身が仕えるべき主君を蔑ろにして良い理由などあろうはずがないッ!」

フロレスが怒りのまま兵士へと斬りかかろうとした時だ。フロレスの手は他ならぬマルスの手によって止められてしまう。

「やめぬか、此奴は曲がりなりにもお主の部下であったのであろう?怒りの感情のままに手を下すのが本来の騎士といえるのか!?」

「なれど!」

フロレスが反論の言葉を叫ぼうとした時だ。それは背後より迫りし怪物によって遮られてしまう。
フロレスは慌ててマルスの元へと飛び掛かり、体を伏せる。そして、伏せの姿勢で剣を握り締めながら背後から迫ってきたパウロの両足に向かって剣を喰らわせていく。
無論、フロレスの件が読めないパウロではない。すぐさま背後に飛び下がり、もう一度剣を構えていく。
マルスはこの際改めて両者を見つめ直すが、やはり有利なのは虎の顔をした怪物である。というのもフロレスの方はこれまでの戦いでの傷跡もさることながら精神的な疲労が体を押しているからだ。
今も剣を構えながら息を切らしているのがその証拠といえるだろう。
これに比べてパウロは落ち着いた様子を見せている。
この時マルスはパウロが密かに舌なめずりをした姿を目撃した。
獲物を狙う肉食獣というのは今の彼の様な姿をして指していうのかもしれない。
このままでは彼女が危うい。

気が付けばマルスはフロレスの前に立ち塞がり、彼女の手から剣を抜いて、パウロに向かって切り掛かっていく。
剣の刃同士が重なり合い、幾度も激しい打ち合いが続くので、両者の剣からは火花が生じていく。
パウロは剣を離したかと思うと、今度は突きを喰らわせてマルスを突き殺そうと試みるが、マルスは自らの剣を盾にして防ぐ。
パウロの剣が押し返され、パウロはバランスを崩した。その隙をマルスは逃さない。パウロの体に向かって強力な蹴りを食らわせてパウロを蹴飛ばす。
狭い階段の上で戦っていた事も手伝いパウロはなす術もなく階段の上から転がり落ちていく。

悲鳴を上げるパウロを見てそれまで二人の戦いを見守っていた兵士たちは恐怖に駆られた。今この場にいる兵士たちには武人としての誇りも、国を守るべき兵士としての義務もなかった。
ただ子供の様な悲鳴を上げて本能のままに逃げていくばかりである。
マルスは黙ってその哀れな兵士たちを見守っていた。
やがて全ての兵士たちが去っていくのと同時に自身と同様にその姿を見守っていたフロレスに向かって手を伸ばす。

「ま、マルス様……」

「……おれの力が世界を滅ぼすとしても、おれはみすみす殺される理由などない。おれが生きるためおれに力を貸してくれないか?フロレス」

「仰せのままに我が王よ」

フロレスは階段の上に跪き、廃嫡されし王国の王子に永遠の忠誠を誓った。
それからマルスの手を取ると、その手の甲へと口付けを落としその上に頭を下げて言った。

「カリプス王国が騎士フロレス・エル。これよりマルス王子に生涯の忠誠を誓う事を約束致しまする。あなた様がどの様な目に遭われても、私はあなた様の剣に或いは盾となりあなた様をお助け致す所存にございまする」

マルスはその姿を黙って見つめていた。この時のマルスは気品と威厳とを身に纏っていた。それでいて誰も逆らえない荘厳ささえも持ち合わせていた。
それはどんな大国の王でさえも備えられない生まれついてのマルスの気高さ或いは王としての器であったと称してもいいだろう。
こうしてたった二人の家臣団は地下牢を脱し、王宮を抜け出そうとしたその時だ。
王宮から街へと続く大きな門が頑丈な柵で閉ざされてしまう。
警戒する二人の前に現れるのは魔女エレクトラ。
彼女はどこからともなく二人の前に降りてきたかと思うと、そのまま樫の木の杖の先端を突き付けて言った。

「……マルス王子、大人しく首を斬られませ」

「嫌だと申したら?」

マルスはフロレスから借りた剣を突き付けながらエレクトラに尋ねた。

「この私があなた様の首を撃ちましょう」

エレクトラの口調にはためらいなどは見えない。それどころか嬉々とした口調で告げている。
恐らく真の目的はマルスを殺して自身が慕うケルスを王太子の地位のうちに安定させる事にあるのだろう。
そうはいくまい。フロレスがマルスを背後に下げて再びマルスの手から剣を下げようとした時だ。
背後から呼び掛ける声が聞こえた。振り向くと、そこにはマルスの父にしてこの王国の最高の権威と権力とを司る国王ガレスの姿があった。

「マルス、頼むから死んでくれ」

「拒否致しまする」

マルスは低い声で両肩を落とす父に向かって告げた。

「私からも拒否しよう。ガレス、何故なにゆえに実の息子の命を狙う?国王という地位への執着か?はたまた安っぽい救世主願望からか?」

フロレスの対等とも言える言葉遣いに気を悪くしたのは使われた当の本人ではなく、その息子でありフロレスの現在の主人であるマルスの方である。
彼は眉を顰めたかと思うと、その言葉遣いを嗜めた。
そして非礼を詫びたのだ。ガレスは息子の配慮に対して丁寧に礼の言葉を述べた後で先程のフロレスの質問に答えた。

「……強いて言えば後者の方であろう。私が気にするのは世界。この世界が滅びぬために力を尽くしたいという一心からなのだ」

「世界のためだとッ!なるかもしれぬ魔王のために実の息子を殺す事のどこが世界のためぞ!ふざけるな!」

フロレスは国王の発する馬鹿げた理由に耐えきれずに激昂した。

「主が怒るのも尤もだな。だが、国王としてカリプス王国を司る者としてお主らを生かせるわけにはいかぬ」

ガレスはフロレスに対して頷いた後に自ら剣を抜いて二人と対峙していく。
フロレスが同じ様に剣を構えてガレスと対峙していた時だ。
マルス自らがフロレスから剣を取り、自らの父と対峙していく。

「……マルス」

「父上、あなた様が私をお許しにならぬというのならば私自身の手でお相手つかまつりましょう。もっとも私には未来がございますので、例え相手が父上といえども負けるつもりはありませぬが」

と、構えるマルスの目に躊躇いはなかった。
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