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国境より悪魔来たる

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カリプス王国においてエレクトラの即位が正式に決まったのは皇帝暗殺事件から一週間が経った後の事であった。カリプス王家を残す代償としてブリギルド帝国が求めた譲位を受け入れてものであった。これにより、ケルスはエレクトラ女王の王弟の身分が与えられ、以後は殿下と呼称される様になったのだ。

だが、王族としての地位を保てたとはいえ、弟のマルスを入れてしまい皇帝を殺させてしまった咎は簡単には消えないらしい。彼は姉にして王であるエレクトラの命によって王宮の一室にて謹慎を言い渡されて謹慎していたのである。
自室にいるケルスは未だに自身が置かれたこの状況を受け入れられずにいた。何より少し前まで部下として扱っていた女性を仕えるべき王としてもそうであるし、何より唐突にエレクトラが告げた自身の実の姉であるという事実が信じられずにいた。

未だにエレクトラが出生を捏造して父王を脅したのではないのかという疑惑さえ持っていた。謹慎中の身であるので暇だけは腐る程ある。考える時間は無限にあったといってもいい。
そんな疑問を浮かべながら彼が寝台の上で本を読んでいた時だ。
部屋の扉を叩く音が聞こえた。入室を許可すると、そこには勝ち誇った様な笑みを浮かべたエレクトラが立っていた。

「こんにちは。愛しの弟ぎみ」

エレクトラは皮肉たっぷりに言った。

「……陛下、どの様な御用で?」

疑惑はあれども一応は自身の王であり姉である。ケルスは寝台の上から立ち上がって突然現れた姉を出迎えた。エレクトラはそれに対してニヤニヤと笑う。
彼女からすればかつて地震に対して命令を下す立場にあった弟が立ち上がって自分を出迎えた事に対して愉快でたまらなかったのだろう。
ケルスが拳を震わせている事も彼女は知っていてその無礼を咎めないのだろう。
エレクトラは悔しそうに頭を下げるケルスの顎を人差し指でクイと動かして強制的に目線を合わさせるのである。

「いやぁねぇ、可愛い弟に会うのに理由なんているかしら?」

「……陛下、いいや弟の私を求められておられるのならばこちらの方が的確かな?姉上、国王たるものが用もなく玉座を立ち歩くのはいかがなものかと思いますが」

「職務なら済ませたわよ。王だって一日の余った時間は好き勝手に使う権利があるわ。そうでしょ?」

エレクトラの目には絶対の自信があった。本当かどうかは後で大臣に確認すればわかるのだからこの場は黙っておこう。ケルスは黙って口を紡ぐ事にした。
エレクトラは悔しそうな表情を浮かべると楽しげな表情を浮かべながら部屋の中を探っていく。そして彼が読んでいた本を取り上げると揶揄う様な口調で言った。

「『大衆の心理』?フフッ、扇動家のあなたに相応しい本じゃない」

「……その本を返していただけますか?」

「ダメよ、あたしも興味を持ったんだもの。少し借りるわ」

ここに来て両手で睨む弟を見てエレクトラはまたしても揶揄う様な笑みを浮かべて言った。

「クスクス、そんな顔しないでよ。本当に借りるだけなんだから」

そして、エレクトラは本を抱えて部屋を出て行った。扉が閉まるまで、いや閉まってからもケルスは目の前を睨み続けていた。

(冗談ではない。あんな悪女に王の仕事が務まるものか……覚えていろ、必ず玉座に戻ってやるさ)

ケルスはこの場で誓いを立てた。いつか再び王国の玉座に座るという到底実現が難しそうな誓いを。














ケルスが自室にて叶わぬであろう誓いを立ててから早くも五年の月日が過ぎた。
その間、マルスは自身の組織を立ち上げて世界各国に対して暗躍を働いていた。
全ての指示は魔王の号令の名の下に行なわれる形となる闇の組織である。
また、マルスは『魔王の代理人』という制度を設定した。この『魔王の代理人』というのは世界各国にいる各国の現地人であり、その国で反乱を引き起こす、もしくはお家騒動を引き起こすのが役目である。
当然、世界各国の指導者は『魔王の代理人』と呼ばれる混沌と破壊の招致者を恐れていた。
『魔王の代理人』による反乱の扇動と誘発が相次いで発生し、各国で絶対的な王権を誇る国王や皇帝に対しての反乱が行われた。これは人々が長年、味合わされてきた貴族たちへの不満が露わになった例であるといってもいい。
勿論、善良な統治が行われ、幾ら扇動を行なっても人々の不満が起こらない国もある。そんな場所にこそお家騒動が起きるのだ。お家騒動は不満を持つ王家の人間を見つけて、唆しさえすればいい。後はその人物がゆっくりと『魔王の代理人』となるのを待てばよいのである。

反乱が成功した国もしくはお家騒動で王の首がすげ替わった国においては『魔王の代理人』が王や皇帝に即位して国を支配し、一年に一度は魔王に対して上納金を納めていたのだった。
肝心の魔王はかつてのカリプス王国の宗主国、ブリギルド帝国の皇帝のみが座れる玉座の上に座っていた。真横に構えているのはブリギルド帝国の皇帝の弟。
彼は『魔王の代理人』に選ばれて反乱を起こして皇太子を殺して新たに皇帝となった男である。
だが、その代理人は魔王マルスの姿が見えると、すぐにでもその地位を明け渡し、自身は国の宰相に留まったのであった。皇族である彼をあっさりと皇位から引き下ろしたのはマルスの持つカリスマ性にあった。
彼がブリギルド帝国の皇帝となるには皇帝の弟にたった一言「下りろ」と言うだけで済むだけでよかったのだ。
皇帝のみが座る心地の良い椅子の上に腰を掛けるマルスにまたしても吉報がもたらされた。

その吉報をもたらしたのはとある国のお家騒動において代理人側の加勢に向かっていた自身の忠臣、フロレスがもたらした報告であった。二人きりであった時とは異なり、銀色の立派な鎧に身を包んだ女騎士は魔王の前に跪き、戦勝を報告していく。
彼女の報告を聞いてマルスは満足気に頬を緩ませると、フロレスに下がる様に指示を出す。
フロレスがそれに従ってその場から立ち去ろうとした時だ。気が変わったのか、彼は急にフロレスを呼び止めた。

「フロレス、お前はどうだ?ここまで魔王となったおれに何を思う?あの時、助けなければよかったと後悔しておるか?」

その問い掛けに対して、彼女は考える素振りも見せずに、いつも通りの凛とした顔を浮かべてはっきりとした口調で答えた。
「私はあなた様の騎士にございます。例えあなた様が何者であろうとも変わらぬ忠誠を尽くす所存であります。それがあの日から私が心に抱いている思いです」

「成る程、後悔はせぬという事か……流石はおれの騎士よ。よい今日のところは下がれ」

フロレスはもう一度頭を下げて玉座の間から立ち去っていく。
マルスは玉座に戻ると、側に立っていた弟を呼び寄せて耳打ちした。

「近いうちに新皇帝に対して挨拶に来ない無礼なカリプス王国の国王を討伐しようと思っていてな、その際あの女を大将軍に任じようと思うのだが、どうだ?」

「陛下はまさか、その事を念頭に置かれて先程の質問をなされたのですか?」

「あぁ、その通りだ」

どうやら先程、腹心のフロレスを呼び止めたのは自身に対する忠誠がまだ残っているのかを試すためであったらしい。
試した結果は彼にとって上出来であったといってもいいだろう。なにせ多少の迷いもなく自身に変わらぬ忠誠を誓ったのだから。重要な大役を彼女に任せたいという心を固める事ができたのもそのためだろう。
宰相の男が感心していると、マルスはクックッと笑いながら、

「今度の戦は前とは違うぞ、おれ自身の雪辱を晴らすための戦だ。必ずやこの戦に勝利し、悪女を処刑台に送り、おれを裏切った兄を八つ裂きにしてくれよう」

と、心底から心地の良さそうな調子で言った。














ブリギルド帝国がカリプス王国国王が新たな皇帝に対して挨拶を行わなかったという事を口実に戦端を開いたのは魔王が宰相にフロレスを将軍にするという事を提案した日の夜から二週間後の午後の事であった。その日、多くの人々は休日で昼食後の一服やお茶を楽しんでいた時の事であった。
世界の多くの国々が戦禍に巻き込まれてはいるが、カリプス王国だけはエレクトラとケルスの両名による安定した統治が行われており、国が安定していたのだ。肝心の反乱の火種がなければ、いくら『代理人』が反乱を呼び掛けても反乱そのものが発生しなかったのである。ならばお家騒動といきたいところであるが、カリプス王国の場合は肝心の王家の人間が二人しかいない上にそのうちの一人は幾ら不満を持っていたとしても魔王の言葉には絶対に耳を貸さないであろう人物なのだ。

であるのならば、残る手段はたった一つ。こちらから攻めるより他にない。幸いな事に隣接するブリギルド帝国を手に入れている。手に入れるためにはその広大な力を用いて攻め寄ればよかったのだ。ブリギルド帝国の皇室の紋章が刻まれた旗を持った騎兵隊が国境付近の街に攻め込んだ際、人々はそれを冗談と信じて疑わなかった。
だが、騎兵隊たちが異常を感じて出動した国境警備隊たちに向かって攻撃を繰り出した時、人々はようやくブリギルド帝国が攻めてきたという事を理解したのである。
フロレスは無抵抗の人々に対して襲い掛かる事やその人々が金品や穀物などを強奪する事を禁ずる厳命を下しており、市民の命や財産が脅かされる事はこの時点ではなかったといってもいい。
それでも、多くの人々はこの異常事態に恐怖を隠せなかった。多くの人々が慌てて家に戻り、その家の中で自分たちの街が行進する様子を眺めていたのである。
この報告を受けて動揺したのはケルスである。

「魔王本人ではないとはいえ、魔王の直々の部下が攻め込んでくるとは考えられん」

「我が国には隙がないからでしょう。火種も見つからない。お家騒動を起こす不穏分子もいない。だから直接軍を率いてきたのよ」

エレクトラは玉座の上で鉛の様な重い溜息を吐きながら言った。

「……だからといって、弟がその様な愚挙に出ようとは考えられなかった」

「考えられなかった?どのみち世界各国が魔王の傘下になれば、同じ事をやっていたわよ。それが早くなったか、遅くなったか……その程度の差でしかないと思うわ」

「成る程」

ケルスは無感動を露わにしながら答えた。

「ええ、だからあなたに命じるわ。国境付近で暴れる無礼者どもを討伐してきなさい」
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