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漂流編
未来から来たという男のこと
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林檎箱の蓋が閉められ、外部との接触を絶たれるようになってから、どれ程の時間が経過したのだろうか。男は確認のため右腕に付けていた大きな腕時計の右脇にあるボタンを押す。時計から出てきた電光によって構成された先進的な時計の針は林檎箱の蓋が閉められてから数時間が経過していたことを示すものであった。
多くの林檎の下に体を隠して、全身を林檎に覆いながらの潜伏であったが困ることはない。腕時計に内蔵されているサーモーグラフティーを用いれば周辺に誰がいるのかということくらいは把握できる上にこの時計は高級品。時間を潰す手法などいくらでも内蔵されている。暇に押し殺される心配は無用であった。
男が腕時計の真上の位置で人差し指をスライドさせていくのと同時に男の目の前に数々の画面が表示されていく。多くの文字が記された光状の掲示板や商標ポスター。そして小さな画面の中で動く人々の姿。
どれも竜歴一千年の時代であれば間違いなく実現不可能なものばかりである。
男は棺のように広い林檎の木箱の中で足を伸ばし、半ば惰性的に情報を覗き込む。
どれも全て竜歴一千年の時代であれば知らないものばかり。一体、どこからこの情報が現れたのだろうか。少なくとも竜歴一千年を生きる人からすれば理解できないことではあった。
時計にしろ、時計から現れた未知の情報にしろ、もし、先ほど彼を庇ったヒルダがこの状況を見たとするのであれば足をすくませるまではいかないが、自身の魔法を準備させて戦闘に備えていたことには間違いない。
それ程までに男が記していた時計は竜歴一千年における科学技術では再現不可能なものであったのだ。仮に、マナエ党の科学陣を総動員したとしても男の腕時計を再現することは不可能だろう。地面の上に溢れた水をもう一度バケツの中へと戻すことができないように。
だが、男はこの腕時計があればなんでもできるのだ。映画が観たければ時計で映像を眺めることができるし、音楽を聴きたければ時計の目の前に人差し指をかざし、好きな音楽が載った板を人差し指で撫でていくだけでいいのだから。男にとってそれは地面の下に溢れた水をバケツの中へと戻すことでも吐いた唾を呑み込むようなことでもない。水や空気があるのと同じようにあって当たり前のことなのだ。
肝心な問題は食料。だが、これに関しても問題はない。時計で補充できるのだ。時計の右端を押すだけで、男の自宅にあるものであればなんでも運ばれてくる。この時代の人々が相手の家に電話を掛けて呼び出すように。
男が腕時計から映像を作り出し、そこに映る群像劇を眺めていた時のこと。
扉が乱暴に開かれる音が聞こえてきた。同時に雑踏の音までも響き渡る。どうやらヒルダの話にあった親衛隊やら警察やらが雪崩れ込んできたのだろう。
男は腕時計の映像を切り、再び林檎の奥底へと潜り込む。窮屈な箱の中において更に体を丸めることになって負担も大きくなるのだが、見つかるよりはマシだと考えたのがその理由である。
林檎箱の近くに目眩し用の古ぼけた冷蔵庫は置いているため、そこまで不安に思う必要もないだろうが、『念には念を入れて』という古い言葉がある。先人の知恵に従って損はない。
男はそう自身に言い聞かせながら必死に林檎の中に埋もれて息を殺していた。警官や軍人が履く革靴の音が男の耳を騒がせていたが、やがてその足音は男が潜んでいる林檎箱の前で止まった。足並みを揃えたかのようにピタリと。
男は驚きの声を両手で押さえ込み、必死に耳を立てる。同時にそれまで閉ざされていたはずの林檎の箱が勢いよく開かれていったが、声は若い男のもの。
声の主がまだ若いことからマナエ党の親衛隊かもしくはボルジアの警察の新入りが勢いで開けたに違いない。
引き続き男は林檎の下で息を潜めていた。
しばらく蛍光灯の薄暗い光が自身を照らしていたが、やがてここに男が居ないと判断したのだろう。再び林檎箱の蓋が閉められ、男の世界は闇の中に包み込まれていく。闇がこんなに有難いものであったとは初めて知った。
だが、油断はできない。マナエ党の親衛隊や警察がその場から出ていくことを願いながら震えていた時のこと。
「待て、この冷蔵庫。怪しいぞ」
と、外から男の声が聞こえてきた。どうやらヒルダが用意した囮の冷蔵庫に引っ掛かったらしい。
「……なるほど、こちらにある林檎の箱は囮で、本命はこちらというわけか」
本来はその逆なのだが、敢えて訂正する必要もない。そもそも訂正などすれば今度はこちらがマナエ党もしくはボルジアの警察に捕まって処分を受ける羽目になってしまうだろう。なにせ、ガレリアの魔女を狙ったのだ。銃殺刑どころか、四股を引き裂かれたとしても文句は言えない。
今の時代は竜歴一千年。既に文明というものが確立された時代であるが、ガレリアの魔女に関しては例外ではなかっただろうか。
かつて読んだ記事のことを思い返し、男が全身を震わせていると、隣にある冷蔵庫が乱暴に開けられる音が聞こえた。その後にドシンと大きな音が鳴り響く。
どうやら苛立ち紛れに親衛隊か警察官の誰かが冷蔵庫を蹴り飛ばしたらしい。宝くじが外れたことを確認してから売り場の近くにある壁に怒りをぶつけるかのように。
なんとも幼稚な精神だ。男は親衛隊や警察たちの八つ当たりに苛立ちを覚えつつ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
結果として親衛隊やボルジアの警察たちは食糧庫の罪のない箱や加工肉たちに当たり散らしてからその場を立ち去っていった。
多くの食料が無駄になり、廃棄へと追い込まれたことは親衛隊や警官たちが立ち去った後に、入ってきたホテルの従業員たちの台詞から理解できた。彼らからすれば台風が立ち去ったというべき心境であるに違いない。幼児に頭を悩まされる保育士の心境と同じであったといってもいいかもしれない。
しかし台風と違って予想ができないからそれ以上に厄介な相手であったというべきだろう。
結局、ヒルダが林檎箱の蓋を開けに来たのはホテルの従業員たちの姿が消え、荒れていたであろう食料品が全て片付けられてからのことであった。
「お待たせしました」
彼女は申し訳なさ気に頭を下げたが、そんなに大したことだとは思っていないことは薄々伝わってくる。注文が遅れた時と同じような態度を取っているのが証明だというべきではないだろうか。
男は少し不満気であった。というのも長い間閉じ込められ、常に生死の境にあったのに眉間に皺を寄せ、両目を剣のように尖らせながらヒルダを睨んでいた。
だが、いくら睨んでも彼女が気にするそぶりは見せない。なんてことはないとでも言わんばかりに。
ヒルダは男の腕を引っ張り上げ、そのままホテルの裏口へと連れて行く。
大勢の人間が利用するホテルだとはいえ、裏口は裏口。扉を活用して移動しようとする人は少数であった。そのため脱出経路としてこれ以上最適な場所はない。
夜も遅く街灯の光が少ないことを利用して、ヒルダはそのまま男を自身の下宿へと半ば強引に引っ張り込む。
男は年頃の女性に引っ張り込まれたことで少し胸を弾ませていた。男の脳裏にはその後で想像できる甘い生活さえ思い浮かんでいたに違いない。
だが、予想とは裏腹にヒルダの下宿には男が想像だにしていなかった存在がいた。すなわち二人の男たちが待ち構えていたのである。二枚目の男と三枚目の男だった。
二枚目の方はは料理に、三枚目の方は洗濯に精を出していたが、ヒルダが戻るのと同時に和かな笑顔を向けていく。
ヒルダも彼らに対して天使のような笑みを浮かべて、
「ただいま、戻りました。お兄様方」
と、頭を下げて帰還の報告を行う。
「おう、お帰り。洗濯終わってるぜ」
「来てくれ、今回作ったトマトスープなんだが、味見してくれ。上手くできてるか、不安でさ」
初めから目線の中に入っていないのか、二人はなんてことない口調でヒルダを出迎えた。
が、男は注目されていないにも関わらず、警戒の目を向けた。ヒルダが兄と呼ぶ二人の男たちはどちらもヒルダには似ていない。両者ともに頑強な体付きをしていて、会う人に対して圧を加えてしまうような性質の人間だ。
しかし顔の観点といえば対照的である。二枚目と三枚目のコンビだ。二枚目の方はモデルや映画スターといっても過言ではないほどの端正な顔立ちであり、目鼻立ちもはっきりとして、ピンク色の綺麗な唇で婦人たちから羨望の眼差しを受けているような人物であるのに対し、もう片方は小太りで団子鼻という恵まれない容姿だった。
顔の形や様子から考えても本当の兄妹だとは思えない。確実に血は繋がっていないだろう。
この時に男にとって面白かったのは小太りの男の方が選択を担当していて、二枚目の男の方が料理を担当している点である。
小太りの男は太っているから料理が得意なのかと思ったし、反対に二枚目の端正な顔立ちの男は二枚目だからこそ手先が器用で洗濯物を任されているのかと思われたが、意外なことにそうでもないらしい。
玄関先で呆然としている男を放って、ヒルダは洗濯と料理の確認に向かう。
洗濯に関してはヒルダも気に入っていたのか、小太りの男が洗った洗濯物を撫でて、その腕を賞賛いたし、二枚目の男の料理にも「美味しい」と年頃の娘らしい感想を寄せていた。
二人の兄は妹の喜ぶ顔を見て、ニヤニヤと笑っていたが、玄関先に立っていた男の存在を確認するのと同時に戦闘態勢を構えた。
ヒルダの兄たちが用いる魔法は電気魔法。両者の体から放たれる強力な電流である。これを用いれば男に向かって電流を浴びせることなど容易であるに違いない。
ましてや彼は二人にとって見たこともない人物。警察やマナエ党の出先だと思い込むのも無理はなかった。
両者から放たれる殺意を前にして立ちすくむ男。思わず腰を抜かしてしまうが、二人は容赦などしない。
バチバチと全身から電流を放ちながら男の元へと向かっていく。その電流で二人は男を焼き殺す算段でいた。
と、ここでヒルダが慌てて兄たちの前に割り込む。
「お待ちください。お兄様方、このお方は私がお客様として招いたお方なのです。お兄様方もご存知でしょう? 先の狙撃未遂事件のことを」
そのことを聞いた二人が顔を見合わせる。ヒルダは兄の意見が止まったことをいいことに自身が招いた理由を語っていく。
「次のエルダー・リッジウェイの暗殺計画に活かせるかと考えたのでご意見を拝聴致したいと考えて、こちらにお招きさせていただきました」
ヒルダの言葉を聞いてようやく二人は全身から流れる電気を止めた。未だに全身震わせる男に対して舌を打った後で下宿の食卓の上へと招き入れた。
といっても用意されている椅子はヒルダのものを含めてたったの三脚。やむを得ずにヒルダが使用するドレッサーを貸させて男を机の前に座らせた。ただ、来客を招くときのような丁寧さはない。どちらかといえば捕虜を座らせる座らせ方というべきだろう。
机の上には二枚目の男が作ったと思われるトマトスープ、煮込みキャベツ、ハッシュドポテトなどの家庭料理が並んでいた。
それに加えて男の前には紅茶が置かれた。ヒルダが淹れた日がいない。
男が紅茶へと手を伸ばそうとした時のこと。
「待ちな」
と、三枚目の男が男を制止させる。
「テメェの名前はなんていうんだ? いくら共通の敵を持つ間柄とはいえ、名前くらいは教えてもらわねぇとおれたちは信用できねぇ」
「……失礼した。私の名前はララミー・ドリスコレル。アクロニアの物理学者だ」
「ドリスコレル? そんな名前の物理学者は聞いたことがないが」
と、二枚目の男が口を濁らせる。意外にも彼は多少の学というものを持っているらしい。こういった事情に詳しい者がいないと考えていただけにドリスコレルの衝撃は大きかったはずだ。
だが、二枚目はドリスコレルの考えになど構うことなく話を続けていく。
「当然だ。私はこの時代にはまだ産まれていないのだから」
その言葉を聞いたヒルダを含めた男たちが顔を見合わせる。だが、男はヒルダたちになど配慮することもなく淡々と言い放つ。
「私は今よりあとの時代からここに訪れた。エルダー・リッジウェイをこの世から消すためにな」
多くの林檎の下に体を隠して、全身を林檎に覆いながらの潜伏であったが困ることはない。腕時計に内蔵されているサーモーグラフティーを用いれば周辺に誰がいるのかということくらいは把握できる上にこの時計は高級品。時間を潰す手法などいくらでも内蔵されている。暇に押し殺される心配は無用であった。
男が腕時計の真上の位置で人差し指をスライドさせていくのと同時に男の目の前に数々の画面が表示されていく。多くの文字が記された光状の掲示板や商標ポスター。そして小さな画面の中で動く人々の姿。
どれも竜歴一千年の時代であれば間違いなく実現不可能なものばかりである。
男は棺のように広い林檎の木箱の中で足を伸ばし、半ば惰性的に情報を覗き込む。
どれも全て竜歴一千年の時代であれば知らないものばかり。一体、どこからこの情報が現れたのだろうか。少なくとも竜歴一千年を生きる人からすれば理解できないことではあった。
時計にしろ、時計から現れた未知の情報にしろ、もし、先ほど彼を庇ったヒルダがこの状況を見たとするのであれば足をすくませるまではいかないが、自身の魔法を準備させて戦闘に備えていたことには間違いない。
それ程までに男が記していた時計は竜歴一千年における科学技術では再現不可能なものであったのだ。仮に、マナエ党の科学陣を総動員したとしても男の腕時計を再現することは不可能だろう。地面の上に溢れた水をもう一度バケツの中へと戻すことができないように。
だが、男はこの腕時計があればなんでもできるのだ。映画が観たければ時計で映像を眺めることができるし、音楽を聴きたければ時計の目の前に人差し指をかざし、好きな音楽が載った板を人差し指で撫でていくだけでいいのだから。男にとってそれは地面の下に溢れた水をバケツの中へと戻すことでも吐いた唾を呑み込むようなことでもない。水や空気があるのと同じようにあって当たり前のことなのだ。
肝心な問題は食料。だが、これに関しても問題はない。時計で補充できるのだ。時計の右端を押すだけで、男の自宅にあるものであればなんでも運ばれてくる。この時代の人々が相手の家に電話を掛けて呼び出すように。
男が腕時計から映像を作り出し、そこに映る群像劇を眺めていた時のこと。
扉が乱暴に開かれる音が聞こえてきた。同時に雑踏の音までも響き渡る。どうやらヒルダの話にあった親衛隊やら警察やらが雪崩れ込んできたのだろう。
男は腕時計の映像を切り、再び林檎の奥底へと潜り込む。窮屈な箱の中において更に体を丸めることになって負担も大きくなるのだが、見つかるよりはマシだと考えたのがその理由である。
林檎箱の近くに目眩し用の古ぼけた冷蔵庫は置いているため、そこまで不安に思う必要もないだろうが、『念には念を入れて』という古い言葉がある。先人の知恵に従って損はない。
男はそう自身に言い聞かせながら必死に林檎の中に埋もれて息を殺していた。警官や軍人が履く革靴の音が男の耳を騒がせていたが、やがてその足音は男が潜んでいる林檎箱の前で止まった。足並みを揃えたかのようにピタリと。
男は驚きの声を両手で押さえ込み、必死に耳を立てる。同時にそれまで閉ざされていたはずの林檎の箱が勢いよく開かれていったが、声は若い男のもの。
声の主がまだ若いことからマナエ党の親衛隊かもしくはボルジアの警察の新入りが勢いで開けたに違いない。
引き続き男は林檎の下で息を潜めていた。
しばらく蛍光灯の薄暗い光が自身を照らしていたが、やがてここに男が居ないと判断したのだろう。再び林檎箱の蓋が閉められ、男の世界は闇の中に包み込まれていく。闇がこんなに有難いものであったとは初めて知った。
だが、油断はできない。マナエ党の親衛隊や警察がその場から出ていくことを願いながら震えていた時のこと。
「待て、この冷蔵庫。怪しいぞ」
と、外から男の声が聞こえてきた。どうやらヒルダが用意した囮の冷蔵庫に引っ掛かったらしい。
「……なるほど、こちらにある林檎の箱は囮で、本命はこちらというわけか」
本来はその逆なのだが、敢えて訂正する必要もない。そもそも訂正などすれば今度はこちらがマナエ党もしくはボルジアの警察に捕まって処分を受ける羽目になってしまうだろう。なにせ、ガレリアの魔女を狙ったのだ。銃殺刑どころか、四股を引き裂かれたとしても文句は言えない。
今の時代は竜歴一千年。既に文明というものが確立された時代であるが、ガレリアの魔女に関しては例外ではなかっただろうか。
かつて読んだ記事のことを思い返し、男が全身を震わせていると、隣にある冷蔵庫が乱暴に開けられる音が聞こえた。その後にドシンと大きな音が鳴り響く。
どうやら苛立ち紛れに親衛隊か警察官の誰かが冷蔵庫を蹴り飛ばしたらしい。宝くじが外れたことを確認してから売り場の近くにある壁に怒りをぶつけるかのように。
なんとも幼稚な精神だ。男は親衛隊や警察たちの八つ当たりに苛立ちを覚えつつ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
結果として親衛隊やボルジアの警察たちは食糧庫の罪のない箱や加工肉たちに当たり散らしてからその場を立ち去っていった。
多くの食料が無駄になり、廃棄へと追い込まれたことは親衛隊や警官たちが立ち去った後に、入ってきたホテルの従業員たちの台詞から理解できた。彼らからすれば台風が立ち去ったというべき心境であるに違いない。幼児に頭を悩まされる保育士の心境と同じであったといってもいいかもしれない。
しかし台風と違って予想ができないからそれ以上に厄介な相手であったというべきだろう。
結局、ヒルダが林檎箱の蓋を開けに来たのはホテルの従業員たちの姿が消え、荒れていたであろう食料品が全て片付けられてからのことであった。
「お待たせしました」
彼女は申し訳なさ気に頭を下げたが、そんなに大したことだとは思っていないことは薄々伝わってくる。注文が遅れた時と同じような態度を取っているのが証明だというべきではないだろうか。
男は少し不満気であった。というのも長い間閉じ込められ、常に生死の境にあったのに眉間に皺を寄せ、両目を剣のように尖らせながらヒルダを睨んでいた。
だが、いくら睨んでも彼女が気にするそぶりは見せない。なんてことはないとでも言わんばかりに。
ヒルダは男の腕を引っ張り上げ、そのままホテルの裏口へと連れて行く。
大勢の人間が利用するホテルだとはいえ、裏口は裏口。扉を活用して移動しようとする人は少数であった。そのため脱出経路としてこれ以上最適な場所はない。
夜も遅く街灯の光が少ないことを利用して、ヒルダはそのまま男を自身の下宿へと半ば強引に引っ張り込む。
男は年頃の女性に引っ張り込まれたことで少し胸を弾ませていた。男の脳裏にはその後で想像できる甘い生活さえ思い浮かんでいたに違いない。
だが、予想とは裏腹にヒルダの下宿には男が想像だにしていなかった存在がいた。すなわち二人の男たちが待ち構えていたのである。二枚目の男と三枚目の男だった。
二枚目の方はは料理に、三枚目の方は洗濯に精を出していたが、ヒルダが戻るのと同時に和かな笑顔を向けていく。
ヒルダも彼らに対して天使のような笑みを浮かべて、
「ただいま、戻りました。お兄様方」
と、頭を下げて帰還の報告を行う。
「おう、お帰り。洗濯終わってるぜ」
「来てくれ、今回作ったトマトスープなんだが、味見してくれ。上手くできてるか、不安でさ」
初めから目線の中に入っていないのか、二人はなんてことない口調でヒルダを出迎えた。
が、男は注目されていないにも関わらず、警戒の目を向けた。ヒルダが兄と呼ぶ二人の男たちはどちらもヒルダには似ていない。両者ともに頑強な体付きをしていて、会う人に対して圧を加えてしまうような性質の人間だ。
しかし顔の観点といえば対照的である。二枚目と三枚目のコンビだ。二枚目の方はモデルや映画スターといっても過言ではないほどの端正な顔立ちであり、目鼻立ちもはっきりとして、ピンク色の綺麗な唇で婦人たちから羨望の眼差しを受けているような人物であるのに対し、もう片方は小太りで団子鼻という恵まれない容姿だった。
顔の形や様子から考えても本当の兄妹だとは思えない。確実に血は繋がっていないだろう。
この時に男にとって面白かったのは小太りの男の方が選択を担当していて、二枚目の男の方が料理を担当している点である。
小太りの男は太っているから料理が得意なのかと思ったし、反対に二枚目の端正な顔立ちの男は二枚目だからこそ手先が器用で洗濯物を任されているのかと思われたが、意外なことにそうでもないらしい。
玄関先で呆然としている男を放って、ヒルダは洗濯と料理の確認に向かう。
洗濯に関してはヒルダも気に入っていたのか、小太りの男が洗った洗濯物を撫でて、その腕を賞賛いたし、二枚目の男の料理にも「美味しい」と年頃の娘らしい感想を寄せていた。
二人の兄は妹の喜ぶ顔を見て、ニヤニヤと笑っていたが、玄関先に立っていた男の存在を確認するのと同時に戦闘態勢を構えた。
ヒルダの兄たちが用いる魔法は電気魔法。両者の体から放たれる強力な電流である。これを用いれば男に向かって電流を浴びせることなど容易であるに違いない。
ましてや彼は二人にとって見たこともない人物。警察やマナエ党の出先だと思い込むのも無理はなかった。
両者から放たれる殺意を前にして立ちすくむ男。思わず腰を抜かしてしまうが、二人は容赦などしない。
バチバチと全身から電流を放ちながら男の元へと向かっていく。その電流で二人は男を焼き殺す算段でいた。
と、ここでヒルダが慌てて兄たちの前に割り込む。
「お待ちください。お兄様方、このお方は私がお客様として招いたお方なのです。お兄様方もご存知でしょう? 先の狙撃未遂事件のことを」
そのことを聞いた二人が顔を見合わせる。ヒルダは兄の意見が止まったことをいいことに自身が招いた理由を語っていく。
「次のエルダー・リッジウェイの暗殺計画に活かせるかと考えたのでご意見を拝聴致したいと考えて、こちらにお招きさせていただきました」
ヒルダの言葉を聞いてようやく二人は全身から流れる電気を止めた。未だに全身震わせる男に対して舌を打った後で下宿の食卓の上へと招き入れた。
といっても用意されている椅子はヒルダのものを含めてたったの三脚。やむを得ずにヒルダが使用するドレッサーを貸させて男を机の前に座らせた。ただ、来客を招くときのような丁寧さはない。どちらかといえば捕虜を座らせる座らせ方というべきだろう。
机の上には二枚目の男が作ったと思われるトマトスープ、煮込みキャベツ、ハッシュドポテトなどの家庭料理が並んでいた。
それに加えて男の前には紅茶が置かれた。ヒルダが淹れた日がいない。
男が紅茶へと手を伸ばそうとした時のこと。
「待ちな」
と、三枚目の男が男を制止させる。
「テメェの名前はなんていうんだ? いくら共通の敵を持つ間柄とはいえ、名前くらいは教えてもらわねぇとおれたちは信用できねぇ」
「……失礼した。私の名前はララミー・ドリスコレル。アクロニアの物理学者だ」
「ドリスコレル? そんな名前の物理学者は聞いたことがないが」
と、二枚目の男が口を濁らせる。意外にも彼は多少の学というものを持っているらしい。こういった事情に詳しい者がいないと考えていただけにドリスコレルの衝撃は大きかったはずだ。
だが、二枚目はドリスコレルの考えになど構うことなく話を続けていく。
「当然だ。私はこの時代にはまだ産まれていないのだから」
その言葉を聞いたヒルダを含めた男たちが顔を見合わせる。だが、男はヒルダたちになど配慮することもなく淡々と言い放つ。
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