ドルススタッドの鐘を鳴らして

ぜじあお

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2章 無垢な黒

神秘とエンバーと 【エイラス】

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 扉がノックされた。トニーが立ちあげって扉を開けると、そこにはエイラスがいた。
 エイラスはエンバーの半歩前に立ち、自身の肘を握らせている。扉を開けたトニーに微笑みかけてから、エンバーにこれから入室することを告げた。
「ドアをくぐりますから頭に気をつけてください。五歩歩く間は屈んでいきましょうか」
 エンバーは大人しく体を小さくしてドアをくぐり抜け、無事に入室できた。
 その後は二人で誘導し、エンバーをベッドに腰掛けさせる。

「エイラスは介助に慣れてるな。お前にそういう心得があるとは思わなかった」
 トニーが意外そうな口ぶりで話しかける。
「そんな。付け焼き刃ですよ。本を読んで勉強しただけです」
 エイラスの答えにトニーは小さく頷いた。大仰ではないが、わずかに上がった口角はエイラスを好意的に捉えているようだ。

 実際、エンバーをトニーの部屋に送るまでには猶予があったので、エイラスは生活棟にある図書室に寄っていた。視力障害者に対する介助を学ぶためーーというのは表向きの理由で、神秘や神秘の女神教の成り立ちをまとめた本に目を通していた。

 この頃、エイラスは不穏な流れを感じていた。実家からは騎士団を辞めて執政に加われとしつこく手紙が来ていたし、手紙の中で、国が今まで大司教を輩出したこともない辺境のコーソム修道院に騎士団が多額の寄付を送っているのも知っていた。
 コーソム修道院といえば、孤児のトニーが育った場所だ。寄付の時期は彼が騎士団に入る直前。何もないとは思いがたい。
 だが何よりも不気味だったのはルガーの動きだった。武骨で傲慢、そして冷徹なルガーは、その実、有能な政治家だ。文句のつけようのない実績とカリスマ性で、労働を主とする第三騎士団をここまで大きくしてきた。そんな彼はジブとトニーを従わせることに執心している。これまで通りに時間をかけて細胞の一つに至るまで恐怖かカリスマで染めればいいものを、かなり急性に動いているように感じていた。

 ーー新たに現れた神秘の力の所有者に従わせたいのだろうか? だとしたら態度が横柄でお粗末すぎる。
 何にせよ、エイラスは上手く立ち回らなければならないと感じていた。神秘持ちを利用するには彼の『意思』を引き出さなければならない。時勢は本人の意思を尊重することを美としている。それは国も、騎士団も、修道院もーーエイラスも同じことだった。

 とん、と小さな衝撃があった。エイラスの思考は図書室の埃っぽい空間から一気に引き戻される。思考を止めて衝撃の元を辿ると、エンバーがエイラスの制服の袖を摘んでいた。
 ーー見えていないのに器用だな。
 声や足音から状況を把握しているのか、エンバーは正確に袖だけを摘まみ、トニーの準備が終わったことをエンバーに知らせたようだった。
「ありがとうございます」
 礼を告げると長い黒髪が上下に小さく動いた。エイラスはベッドに腰掛けたエンバーの真向かい、幹のような長く大きな足の間に立ったトニーに声をかけた。
「トニー。何かあれば言ってください。神秘の力には反動があると聞いています」
 トニーは、わかったと短く返した。その横顔はやや緊張した面持ちだ。
 エイラスが改めて二人を見ると、白い修道服とエンバーの浅黒い肌と黒髪のくっきりとしたコントラストが目に飛び込んでくる。

「顔の包帯を……」
 トニーが告げた途端、エンバーは力任せに包帯を引きちぎった。
 ぶちぶちと繊維が引きちぎれる音とともに現れたエンバーの目はーー皮膚が爛れて波打ち、まつ毛もない。かろうじて目蓋と呼べるような切れ目はあるが、落書きのようなガタガタのラインで固着している。眉の下はべっこりとへこみんでおり、眼球がない事を示している。左右均等に付けられたその傷は人為的であることは明白だった。

 エイラスは新緑色の瞳でトニーを見た。彼の表情はいつもと変わらない。瞬き少なくエンバーを見つめる瞳には憐憫も労りも感じさせないが、ある意味、治療魔法の使い手としての矜持なのかも知れないとエイラスは思った。
 トニーは両手を伸ばし、エンバーの長い前髪を割って傷に手を添えた。その行為自体は何もなかった。音もなく、治療魔法のように患部が光ることもない。ただただトニーが触れているだけだった。
 ほんの数秒。
 トニーがそっと手を離した。現れたのは切れ長のはっきりとした目蓋のラインに、長く力強いまつ毛。そしてゆっくり開いたその瞳は黄金色だった。

 エイラスは思わず息を飲んだ。見たこともない黄金の瞳にも、トニーの持つ神秘の力の素晴らしさにも。
 どの勢力も神秘の力の持ち主を保有したがる理由がわかる。個人が持つ神秘の力の多くは秘匿されるのでエイラスの知るところではないが、トニーはーー時を戻すのか、再生なのか。とにかく凄まじい力であることは間違いない。

 興味深く観察しているエイラスだったが、修道服のセーラー襟が大きく傾いたのを見て、すぐさまトニーの体を抱き寄せた。腕に納めた瞬間はかろうじて本人が自重を支えようと踏ん張っていたようだが、小さなうめきとともにそれが消えた。トニーの膝が折れ、エイラスの腕にずっしりと重みが加わる。
「う、あ……」
 その時、エイラスの腕には生暖かい感触があり、床には数滴、赤黒い液体が落ちたのが見えた。抱え直してエイラスがトニーの顔を覗き込むと、鼻血がとめどなく流れ、口の端を伝い、顎から滴っている。青白くなる顔色に宙を泳ぐうつろな視線。弱まっていく呼吸が反動の強さを物語っていた。
「トニー、大丈夫ですか」
 返事はない。エイラスはトニーを抱えたまま椅子に腰かけた。足の間に彼を座らせて体重を自らにかけるように体を傾けさせる。
 そこにゆらりと大きな影が忍び寄る。黄金の目を輝かせたエンバーが這いつくばるように近づいてきた。そして許しを請うように膝をつく。
「血を……」
 エンバーの口から出たのは不穏な願いだった。
「血が必要なんですか?」
 黄金の瞳はまっすぐにエイラスを見つめ、頷く。
「……どうぞ」
 少し考えてからエイラスはいつものように微笑んだ。エンバーの目的は見えないが、彼の様子からして聞いて明確な答えを出してくれるとも思えない。だから、思い通りに行動させて観察しようとエイラスは考えた。
 エンバーはまるで寝ている赤子を覗き込むようにそっと顔を近づけた。緩く開いた唇からちらりと肉厚な舌が見える。舌が顔に触れた瞬間、トニーはわずかに身じろぎしたが、制止するほどの力はなかった。
「必要なのは血だけなんですか。貴方が取るべき行動を取ってください」
 あえて冷たく命令するようにエイラスが言うと、エンバーの動きが一瞬止まった。
 ーー思った通り。 
 エイラスは硬直するエンバーを見下ろした。
 彼は何も趣味嗜好でそれをしているのではない。″日常的にそれをしろと命令されているのだ″と理解した。
「早く」
 加えてエイラスが言い放つと、エンバーは弾かれるように動き出した。今度は噛みつくように唇を合わせトニーの口を吸う。愛しい恋人にするようなものではなく、貪るようなーー唾液を舐めとるのが目的のようだった。砂漠で必死に水を飲む遭難者のような必死さだ。トニーは失神しているようで、エイラスにぐったりと体を預けたままだった。

 ーー恐らくエンバーは、神秘の力を持つ者の体液を摂取するように言われて育った。
 エイラスの脳裏にかび臭い図書室が浮かぶ。一応、と目を通した三流記事に、読んだ神秘保持者の体液を摂取することで人為的に神秘を得ようとする過激な思想を持った一派がいると書かれていたことを思い出していた。

 口吸いの湿った音をしばし聞いてから、エイラスは新たに指示を出した。
「エンバー。カタファを呼んできてください。分かりますよね? 飾りのついたバンダナを頭に巻いています。歩くと宝飾が揺れる音がする男です。彼をこの部屋に呼んでください」
 エンバーは手の甲で唇を拭うと、おもむろに立ち上がった。そしてそのまま部屋から出ていく。
 エイラスはトニーをベッドに横たわらせ、濡れた口の周りを拭ってやった。鼻血はもう止まっている。しかしこうなった以上カタファに診せるのが一番自然だ。エンバーは余計なことは言わない。そう調教されているはずだと、トニーの髪を撫でながらエイラスは考えた。
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