それは夕焼けだった

幸介~アルファポリス版~

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それは夕焼けだった

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それは朝焼けだった。


君が生まれた日。
そして僕が生まれた日。


それは木漏れ日だった。


君と僕が出会った日。
そして共に歩み始めた日。



それは夕焼けだった。


君と僕が分かたれた日。
僕が笑って君が泣いた日。



君よ、笑え。




――――――――――――


僕は死んだのだ。


それは1ヶ月程前の事。



癌だった。



結婚してから18年。


互いに43歳の年だった。




こどもは発病まで頑張っていたが


結局出来なかった。




妻の紗香は、保育士だったのに


最後までこどもを


持たせてやれなかったことが


僕の唯一の後悔だ。




我ながら薄命だった。




僕はどうやら幽霊になったらしい。


だけど足がある事には笑ってしまう。



この一ヶ月


ずっと、紗香を見てきた。




きっと、生きていた頃より


正味ずっと長く、紗香の側にいた。



僕の遺影に縋っては


子どものように泣きじゃくる。




「なあ、紗香」
「僕はそこには居ないよ」



「僕は、ここだよ」



紗香の髪を撫でたくて


手を差し伸べる。




でも僕の手は


紗香をすり抜けてしまう。




当たり前の事だが


声も空気を震わせる事はなかった。




僕は肉親を無くしたことはない。




今、泣きじゃくる紗香と


泣きじゃくる紗香を苦しく思う僕とは


一体どちらが辛いんだろう。





「…芳樹さびしいよ……助けてよ」
紗香の涙が、手のひらに落ちていく。




「芳樹、芳樹…」
今紗香が蚊の鳴くような声で叫ぶ僕の名は
なんと、切ないことだろう。



僕は、拳をぎゅっと握った。





辛いね紗香。
僕も、辛いよ。





紗香は酒を飲まない女だった。




僕が幼い頃から見てきた、


父の酒に付き合う母の姿、二人の笑顔。



大人になって結婚でもしたら


僕もそうなるのだろうと勝手に思っていた。




だから僕は紗香をよく酒に誘った。



呑めないからといっては、


お猪口に酒を注いで寄り添ってくれた。




それが今はどうだろう。


僕が呑み残して死んだ一升瓶の中の酒を


僕の形見になったお猪口に注いで毎晩呑む。




一升瓶の中身がなくなると


わざわざ新しいものを買ってきて


僕の一升瓶へと注ぎ入れた。




シュンシュンとやかんが鳴る。


背中を丸めてこたつに入る紗香は


お猪口、三つで


顔を赤くしてウトウトしはじめた。





「ほら、ストーブ消さないと危ないよ」
僕は紗香の耳元で優しく囁く。



最近、声に想いを込めると


伝わる事を覚えた。




「…あ、そうだ、ストーブ…消さなきゃ」
紗香はふらふらと立ち上がり
ストーブを消しに行く。




よかった、これで火事になんてなって
こっちに来たって……
迎えは絶対いかないからな。



全く…。僕がいなきゃ紗香は何も出来ない。
これじゃあ、安心して行けないじゃないか。




時は刻々と過ぎ去る…。



もう時期、僕は…。





「きょ…うで、49日……」


その日、紗香は呟いた。


そうだよ紗香。
僕の為に伏した喪を明かす日だ。




なのに、紗香は泣きじゃくる。


今日もやっぱり泣きじゃくる。



僕の好きだった紗香の頬は


削げ落ちたように痩けていた。




栗色の艶めいた髪の毛は


闇のように黒くなり


ボサボサになっている。



あんなにお洒落だった紗香が


いつも同じ部屋着に身を包んだ。





そして、呟いた。





「私も……死ぬ」


紗香、待てよ
死ぬってどういう事だ




僕は慌てて声をあげる。


慌てているから、想いがうまく


言葉に乗せられない…。




紗香はキッチンへ進むと


包丁を手にふらふらと風呂場へと歩む。




紗香、紗香っ
死んだらだめだっ




いくら呼びかけても伝わらない。


こんなに肉体の無い身体を


呪ったことはない。





気付け、気付け
僕の存在に気づけ。


死してからもずっと
紗香の側にいた僕に気付け。


紗香、紗香っ




紗香の隣を歩き伝え続けた。




「まず何を…しなきゃいけないんだっけ」



まるで覇気のない声で紗香は呟く。




「紗香、思い出せよ、僕が病床で諦めかけた時、君が言ったんじゃないか…生きてって。お願いだから生きてよって…」




紗香に僕の声は聴こえない。


風呂にお湯が溜まっていく様子を


呆然として見つめていた。




僕の目からは涙が溢れ続ける。




とうとう、お湯が溜まりきり


しばらく漏れ出していた水道の蛇口を


紗香はようやくしめた。





浴槽に腕を沈め


手にした包丁をじっと見つめる。






「芳樹…今、行くね」





僕は……僕は……っ





こんなこと、望んでいないっ







一際強く叫んだ時


僕の真横にある、


バスカウンターに置いてあったシャンプーが


ガタンっと大きな音を立てて落ちた。




ビクッと肩を震わせて


紗香はカウンターを見つめる。




ころ、ころころと


シャンプーの容器が転がり


紗香の足にぶつかって止まった。





「どうして、落ちたんだろ…」



紗香は首を捻りながら、


シャンプー容器を持ち上げて


カウンターの真ん中に


それを戻しにやってきた。





ことんと静かに容器を置いて


立ち上がろうとした時だった。




鏡越しに紗香を見つめていた僕の目が


紗香の瞳と、ぶつかった。



紗香は目を見開いて、


何度も何度も後ろを振り返る。




目には涙がいっぱいだ。




まさか…




僕は紗香に近づいた。



鏡越しの距離がどんどん縮まっていく。




紗香も鏡の側へ寄り添い


僕の顔を見ていた。



そして、震える手で


近づききった僕の頬へ触れる。





温かい……紗香の温もりだ。





「芳樹……なんで……っ」



僕はまた泣きじゃくり始めた紗香の髪の毛へ


そっと触れてみる。




相変わらず、僕の手は透明人間で


紗香をすり抜けてしまうけれど




鏡に映る僕の手は


紗香の髪の毛をしっかりと撫でていた。





「……感じるかい?」



僕は、小さく耳元で囁いた。




「……感じるよ…っ」



紗香は僕の声に答えた。




死者の声が…届いた。



やっと、届いた。





僕は49日堪え続けた切なさを


出し切る様に声を上げながら泣き


紗香を強く、きつく抱き締める。




苦しい程に抱き締めて


「泣くな、笑えよ、頼むから」


そう、紗香に伝える。




「無理だよ…芳樹がいないと、私だめだよ」


「生きているんだよ、生きていけよ」


「一人でなんて…寂しすぎる、側に行きたい、連れてって」




僕は言葉の代わりに


紗香の首元へ顔を埋めた。




辛い…



こんな弱った紗香を残して


僕は行かなければならないのか





さっ、とどこからともなく風が吹く。



ああ、感じる…お迎えの時間だ。




僕の体は風に溶け始めた。


確かに感じているはずの


紗香の温もりも


感じなくなっていく。



「芳樹…?芳樹、やだ、やだよ、行っちゃいやだ!」
「紗香…よく聞いて」


僕はまだかろうじて残る指先で


紗香の頬に触れる。



紗香も最期の時を察したか


首を振って抵抗した。




頑固なところは昔からかわらない。


でもあいにく今は


頑固な紗香を微笑んで



見つめる時間もないようだ。




「紗香、聴いて」


声を大きく上げると


紗香はようやく静かになった。





「手付かずになってる病院から持ってきた僕の私物の中に、手帳があるんだ、それ、紗香にあげるよ。僕の命より大事なものが詰まってる…なあ、一体、なんだと思う?」




僕は一生懸命笑顔を作り


紗香の手のひらを握る。



僕の笑顔を記憶に残して欲しかった。






「芳樹っやだ……っ」
「紗香…、愛し」





そして、僕は完全に……風に溶けた。











夢を見ていたのだろうか。


亡くなった芳樹が家にいるわけがない。


紗香は思う。



でも、確かに残っている。


これは確かに夫の、芳樹の温もりだ。



紗香は涙を拭うと


先程まで手首を切ろうとしていた包丁を


置き去りにバスルームを出た。




「芳樹の……荷物」


手付かずになっている夫の荷物。


ダンボールにはガムテープが貼られたままだ。





西日が射し込む。
オレンジ色に輝いたダンボール箱。



ガムテープをぺり、ぺりと


恐る恐る紗香は剥がしていき、


とうとう蓋をあけるに至った。




中を探ると手の甲が


1冊の手帳にこつんとぶつかる。




手帳カバーは夕焼け色。


よく夕日を見ながら
河川敷を歩いたっけ。


涙が滲む…。




紗香は両手で手帳を


包むように持ち上げて、


息をつく。




「紗香にあげる…って、言ったよね」


芳樹の入院中、一度


手帳の中身が気になったことがある。




『 ねえ、その中、何が書いてあるの?』


そう聞くと夫はおどけてこう言った。


『初恋の女のこと書いてあるんだ、覗くなよ』





「やきもち…妬いたな。あの時」


とめどなく、流れ込んでくる思い出。


何度拭っても涙はきらきらと落ちていく。





「……芳樹の初恋、見ちゃうからね」


宙に投げかけた言葉。

承諾はとった、紗香は

手帳のベルトに手をかけた。




手帳を開くと、


芳樹の字が飛び込んできた。






『 2018年10月27日の紗香、赤のニット帽、白のブラウス、黒ニットカーディガン、オーカー色のスカーチョ、そこまで満点なのにブーツが合わない、そこが紗香らしくて可愛い』


紗香は、目を見開いた。


『 2018年12月24日の紗香、口紅の色が変わってた。昨日までの濃い色よりも今日の淡いピンクの方が僕は好きだ。キスしたかったけど、この間肺炎起こしたばかりだしな』


『 2019年1月1日、今年も紗香を想いながらはじまり、今年の暮れも紗香を想いながら終えたい』


『 2019年3月2日、今日は紗香の頬にチーク。化粧変えたか?なんて聞くのはあざとく思えて、言えず。本当は気付いてたよ、似合ってた』


『 2019年4月6日、とうとう常時車椅子…。落ち込む僕に紗香、芳樹がちっちゃくなって顔が良く見える、と励ましてくれた。久々に、紗香の唇を奪った、照れくさくて二人で笑う、幸せだ』


『2019年5月3日、紗香の誕生日。何処へも連れて行けない。それなのに紗香、優しく笑う。君の笑顔が僕の力になっていく。来年の誕生日は、夕焼けを見に日本海へ行こうか、紗香の好きな夕焼け、最高のロケーションで見たい』


『 2019年6月15日、紗香と喧嘩。最近喧嘩ばかり。泣き腫らした目を見るととても辛い。僕が苦しめてる…その事が暴言に拍車をかける…ごめん紗香、君が好きだ』




どこをめくっても 


所狭しと書かれた文字。




どの行を見ても「紗香」


その名が飛び込んでくる。





最後のページには震える文字で


こう書かれていた。




『 2019年9月16日、さやかがぼくのたからもの、いのちをかけてまもりたかったひと、ぼくがしんでもいきてほしい』




死の、僅か二週間前の、日付だった。


芳樹の初恋の人は、紗香だった。


生命よりも大事なものは紗香だった。




「芳樹……っ、芳樹っっ」



してあげたいことは山ほどあった。
二人でしたいことも沢山あった。



うまくいかなくて
うまくできなくて


何度自分を責めたことだろう。



芳樹が亡くなってからも
毎日の様に後悔はやってきた。


 

「命…芳樹と半分こに…したかった」




そう、寿命が短くなっても
一緒に生きたかった。



でも、もう叶わない。
もう、叶わないから…



紗香は気が済むまで泣いた。
泣き疲れて眠ってしまうまで泣いた。






静かに朝は明け、紗香は目覚めた。



涙のあとをきれいさっぱり洗い流して


紗香は50日ぶりにドレッサーの前に座る。





芳樹の好きだった口紅をさした。


芳樹が褒めそこねたチークをいれた。





鏡の前で紗香は、笑顔を作った。








――それは朝焼けだった。


貴方が生まれた日。
そして私が生まれた日。


それは木漏れ日だった。


貴方と私が出会った日。
そして共に歩み始めた日。



それは夕焼けだった。


貴方と私が分かたれた日。
貴方が笑って私が泣いた日。




そしてまた朝が来た。



生きていくよ。
笑ってみるよ。
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