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第3章 火焔の女王
2.魔の兆候
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ヒルトップの二階にあるカフェテリアで、早瀬凪紗はつまらなそうに一人でアイスコーヒーを飲んでいた。高校時代からの親友である咲希が、最近は宝治玉藻という学生とばかりつるんでいて面白くなかったのだ。
(咲希の奴、なんであんな子と一緒に住み始めたのかな? 行きも帰りもバイクで二人乗りしてるし……。お昼だって二人で食べて、全然あたしを誘ってくれないし……)
クラスもサークルも同じであるにも拘わらず、ここ最近は咲希と話す機会もあまりなかった。ゴールデンウィーク中に行われた<プレアデス>の新歓合宿でさえ、咲希はバイクの免許を取ると言って参加しなかった。もちろん、玉藻も咲希に付き合って不参加だった。
飲み干したアイスコーヒーのグラスをテーブルに戻すと、凪紗はスマートフォンを取り出してアドレス帳を確認した。咲希が相手をしてくれないため、誰か他の友達を誘って食事にでも行こうと考えたのだ。
「あれ……? 凪紗ちゃんじゃないか? 久しぶりだね……」
不意に声をかけられて、凪紗は驚いて顔を上げた。そこには、一年二ヶ月ぶりに見る懐かしい笑顔があった。
「西条先輩ッ……? びっくりした! お久しぶりです!」
「一人でどうしたの? 誰かと待ち合わせ?」
凪紗の目の前に腰掛けると、以前と変わらない優しい微笑を浮かべながら西条が訊ねてきた。
「いえ……。西条先輩こそ、どうしたんですか? 今日は剣道部の練習はないんですか?」
紺色のジャケットにグレーのTシャツ姿の西条を見て、凪紗は笑顔で訊ねた。大学に入ってから何度か西条を見かけたことがあるが、いつも剣道着と袴を身に着けていたのだ。
(剣道着姿の西条先輩も格好いいけど、普段着の方がもっといいな……)
高校時代から西条のことが気になっている凪紗は、この偶然を神様に感謝した。
「今日はたまたま練習が休みなんだ。だから久しぶりに授業に出ようと思ったんだけど、あいにく休講でね……。時間を持て余してるところさ……」
スポーツマンらしい爽やかな表情で笑いながら、西条が告げた。
「偶然ですね。あたしもちょうど暇を持て余してるんです。あれ……? どうしたんですか、それ? 怪我してるじゃないですか?」
テーブルの上に組んだ西条の左手を見て、凪紗が驚いた声を上げた。まるでナイフか何かで切ったように、左手の甲が三センチほど裂けて血が滲んでいたのだ。
「ああ……。さっき、ちょっと引っかけちゃって……。大したことないよ」
「ちょっと待っててください……」
そう告げると、凪紗は慌ててバックから化粧品ポーチを取り出した。そして、ポーチの中からバンドエイドを出すと、西条の傷口に貼った。
「ありがとう……。優しいな、凪紗ちゃんは……」
「い、いえ……。こんなの、当然です……」
微笑みながら告げた西条の言葉に、凪紗はカアッと顔を赤らめた。
「この後、授業はあるの?」
「四限に一コマあるんですけど、必修じゃないのでどうしようかと……」
本当は必修の英文基礎演習なのだが、凪紗は久しぶりに会った西条ともう少し話をしていたかった。
「時間があったら、ちょっと付き合ってくれない? 俺、今日は車で来てるから、ドライブでも行こうよ」
「ドライブ……ですか?」
突然の誘いに濃茶色の瞳を大きく見開いて、凪紗が西条の顔を見つめた。高校時代でさえ、西条と二人きりで出かけたことは一度もなかったのだ。
「ダメかな? 毎日剣道漬けだから、たまには羽を伸ばしたくて……。せっかく、凪紗ちゃんと会えたから、このまま別れるのももったいないしね」
嬉しそうな笑みを浮かべながら、西条が告げた。自分を真っ直ぐに見つめている黒瞳に、凪紗は思わずドキリとした。
「だ、ダメじゃないです……。行きたいです……」
考えるよりも早く、言葉が溢れ出た。そして、自分が口走った答えに、凪紗はカアッと顔を赤らめた。
「良かった。じゃあ、決まりだ。海でも見に行こうよ」
「う、海……ですか?」
八王子にある聖光学院大学の近くには、海など存在しなかった。凪紗は驚いて西条の顔を見つめた。
「高速を使えば、一時間半もあれば茅ヶ崎あたりまで行けるよ。海沿いのレストランで食事でもしよう……」
西条の言葉を聞いて、凪紗は濃茶色の瞳を見開きながら真っ赤に染まった。
(何なの、このサプライズは……? 西条先輩と二人でドライブして、食事って……? ああッ……! 何で今日に限って、あたしったらジージャン着てるのよ!)
ユニクロのジーンジャンパーと白いTシャツを着てきたことを、凪紗は心の底から後悔した。
第一体育館の一階にある剣道場は、竹刀がぶつかり合う激しい音が響き渡っていた。その喧噪に懐かしさを覚えながら、咲希は道場内に足を踏み入れた。咲希の後ろには、物珍しげな表情で道場内を見渡している玉藻が立っていた。
「何なんですの、これは……? 皆さん、変な格好をして棒を振り回してますけれど……」
古代中国や日本の平安時代では見たことがない情景に、玉藻は星々の煌めきを映す黒瞳を興味深そうに見開いた。
「剣道っていうスポーツよ。あたしも、高校の頃にやっていたの」
苦笑いを浮かべながら玉藻に説明していると、懐かしい声が聞こえてきた。
「咲希……? 咲希よね? 剣道をやめたって聞いてたけど、入部しに来てくれたの?」
白い剣道着と紺色の袴に、面手ぬぐいで髪を覆った女性が驚きの表情を浮かべながら駆け寄って来た。
「葛城先輩ッ! お久しぶりです!」
高校時代に同じ剣道部だった葛城浅葱だった。咲希よりも一年上の先輩で、将成や西条と同じクラスだったはずだ。
「去年のインターハイで個人戦優勝したんだって? おめでとう!」
「ありがとうございます。葛城先輩もお元気そうですね」
豪快にパンパンと背中を叩かれながら、咲希が懐かしそうに笑った。女性ながら百七十二センチある身長と長い手足を活かし、遠くから一気に距離を詰めて打つ片手面が得意な剣士だった。段位も二段で、咲希の前の女子剣道部主将を務めていた。
「咲希なら大歓迎よ。早速、入部届を持って来させるわ」
近くにいた一年生に声をかけようとした浅葱を、咲希が慌てて止めた。
「違うんです! 今日は西条先輩に用事があって伺ったんです。竹刀はもう握ってませんよ……」
「そうなの……? もったいない。咲希なら全日本でも絶対に活躍できるのに……」
ガックリと肩を落として、浅葱が残念そうに咲希を見つめた。
「すみません。それで、西条先輩はいますか?」
「西条君なら、今日は用があるとかで部活を休んでるわ。それより、ちょっと手合わせしない? インターハイ優勝の実力を見せてよ……」
諦めきれない様子で、浅葱が咲希の左腕を取った。相変わらずの強引さに、咲希が苦笑いを浮かべながら告げた。
「もう九ヶ月も竹刀を握ってないんです。無茶言わないでください」
「咲希なら大丈夫だって……。一本だけ、やりましょうよ」
笑顔を浮かべながら咲希の腕をとった浅葱を、玉藻が厳しい視線で睨みながら告げた。
「先輩だか何だか存じませんが、少し強引ではありませんか? 咲希が嫌がっておりますわ」
「何、あなた……? 一年のくせに、上級生に文句を言うの?」
高校でも女子剣道部は上下関係が厳しかった。まして、ここは大学の体育会だ。一年奴隷、二年平民、三年天皇、四年神様という図式がまかり通っている世界だった。
「玉藻、やめて……。すみません、葛城先輩……」
「そんなにお暇でしたら、私が相手をしてさしあげますわ」
慌てて仲裁に入った咲希の言葉を聞き流して、玉藻が浅葱に向かって言い放った。
「何ですってッ! ずいぶんと大きな口を叩くわね!」
「すみません、先輩ッ! 玉藻も、やめてッ!」
蒼白な表情を浮かべながら、咲希が慌てて叫んだ。こんなところで玉藻に妖気を使われたら、大惨事になるのが目に見えていた。
「でも、この方の態度が……」
「あたしの態度が何だって言うのッ!」
売り言葉に買い言葉で、二人の関係が一気に険悪さを増した。
「お願いだからやめて、玉藻ッ! 葛城先輩に謝ってッ!」
必死な表情で、咲希が玉藻を止めに入った。その時、凄まじい怒号が道場内を震撼させた。
「何を騒いでいるッ! 葛城、説明しろッ!」
「は、はいッ!」
ビクンと体を震わせると、浅葱が直立不動の姿勢を取って声の主を振り返った。そこには、身長百九十センチを超える男が、厳しい視線で浅葱を睨んでいた。
剣道着の上からでも、凄まじいほど発達した筋肉が見て取れた。二の腕の太さは、咲希の太股くらいあった。巨体に見合う肩幅は広く、道着から覗く胸板は巌のように厚かった。その男の怒号によって、ぶつかり合う竹刀と荒々しいかけ声が消えて、道場内がシンと静まりかえっていた。
「咲希……」
「分かってる……」
耳元で囁いた玉藻の言葉に、咲希は小さく頷いた。男の全身から、紛れもない妖気が漏れていたのだ。咲希は四角張った男の顔を見つめた。太い眉毛に鋭い眼光が印象的な男だった。大きな鷲鼻と固く結んだ口元が、男の意志の強さを物語っていた。
「お騒がせして申し訳ありません、髙峰部長……。高校時代の後輩が来たので、ついはしゃいでしまいました」
最敬礼とも言えるほど深く頭を下げた浅葱を、髙峰がジロリと睨みながら告げた。
「後輩というのはどっちだ?」
「あたしです。神守咲希と申します」
髙峰の前に進み出て、長い漆黒の髪を揺らしながら咲希が頭を下げた。その様子を不満そうに、玉藻が見つめていた。
「神守咲希……? 昨年の全国高等学校総合体育大会の女子個人戦で優勝した神守三段か?」
髙峰がスッと眼を細めながら、咲希を見据えた。どうやら、咲希の実力に気づいたようだった。
「はい。練習のお邪魔をして申し訳ありませんでした。すぐに失礼します……」
「待て……。俺は男子剣道部の部長をしている髙峰漣二四段だ。インターハイを制した美人剣士などと雑誌で騒がれていたが、こうして直接会うととんでもない実力だな。防具を着けろッ!」
有無を言わさぬ強い語調で、漣二が咲希に告げた。
「ちょっと、待ってください。あたしは……」
漣二の言葉に驚愕して、咲希が慌てて首を振りながら叫んだ。
「俺に勝てたら、見逃してやる。もし負けるようなら、すぐに剣道部に入部しろッ!」
「そんなッ……!」
文句を言おうとした咲希の横から、玉藻が口を挟んだ。
「咲希がイヤでしたら、私がお相手を……」
「わ、分かりましたッ! お手柔らかにお願いしますッ!」
玉藻に戦わせたらどんな大惨事になるか分からないと思い、咲希が顔を引き攣らせながら叫んだ。
こうして、自分の意志にまったく関係なく、咲希の剣道部入部を賭けた試合が決定した。
「西条先輩が外車に乗っているなんて、知りませんでした。これ、何て言う車なんですか?」
右側にある助手席に初めて座った凪紗が、驚きの表情を浮かべながら訊ねた。後部座席がないツーシーターの車なんて初めて乗ったのだ。
「ポルシェ718ケイマンだよ。中古で買ったから、大したことないよ」
「ポルシェですかッ?」
笑いながら告げた西条の言葉に、凪紗が驚いて濃茶色の瞳を大きく見開いた。ポルシェの名前くらいは、凪紗も知っていた。それが、ものすごく高級なスポーツカーだと言うことも……。
「良かったら、これからも時々隣に乗ってくれると嬉しいな。凪紗ちゃんみたいに可愛い娘なら、大歓迎さ……」
「か、揶揄わないでください……」
カアッと真っ赤に顔を染めながら、恥ずかしそうに凪紗が俯いた。
(可愛いって……。西条先輩からそんなこと言われるなんて……)
「覚えてるかい? 将成と咲希ちゃんをくっつけようとして、二人で映画をすっぽかしたことを……」
「は、はい。咲希ってずっと桐生先輩に憧れてたのに、なかなか行動に移せなかったんですよ。でも、上手く行ってよかったですね」
高校二年の九月に四人で映画へ行く約束をして、咲希と将成を二人きりにするために当日ドタキャンしたことを凪紗は思い出した。
「あの時から、凪紗ちゃんのことを気になってたんだ。友達のために、ここまで協力できるなんて凄いなって……」
「そ、そんな……。西条先輩が協力してくれたおかげです」
(気になってたって……、どういう意味なの……?)
ドキンッと胸を高鳴らせながら、凪紗が早口で答えた。凪紗の方こそ、当時は西条のことが気になっていたのだった。
「大学の体育会って、凄くハードなんだ。土日もほとんど練習してるしね。だから、凪紗ちゃんに連絡したくても、なかなか時間が取れなかったんだよ。そのうちに時間が経っちゃって、ますます連絡しづらくなったんだ……」
「そ、そうなんですか……?」
笑顔で告げた西条の言葉に、凪紗は耳まで赤く染めながら訊ねた。まるで、口説かれているように聞こえたのだ。
「だから、今日は偶然凪紗ちゃんに会えて、凄くラッキーだった。ちょっと強引かなって思ったけど、このチャンスを逃したら次にいつ会えるか分からないからね。付き合ってくれて、嬉しいよ……」
「い、いえ……。あたしの方こそ……」
凄く嬉しいですという言葉を、凪紗は呑みこんだ。
(西条先輩って、こんなにグイグイと来るタイプだったんだ……。でも、男らしくて嫌いじゃないな……)
筋肉質な腕でステアリングを握る西条の横顔を見つめながら、凪紗は嬉しそうに微笑みを浮かべた。高校の頃よりも一回り大きくなった西条は、クラスやサークルの男子にはない精悍な男の雰囲気に溢れていた。
(こんな人が彼氏だったらいいなぁ……。そうだ、咲希に連絡しておこうっと……)
「ちょっと、LINEしてもいいですか? 親に今日遅くなるって連絡しておきたくて……」
「ああ、構わないよ。凪紗ちゃんは実家暮らしなんだ?」
「ええ……。本当は咲希みたいに一人暮らししたいんですが、金銭的に厳しくって……」
笑顔でそう告げると、凪紗はスマートフォンを操作し始めた。
『今、西条先輩と会ってるよ。先輩の車で茅ヶ崎に行くんだ。詳しいことは、明日話すね』
LINEを打ち終えると、凪紗は液晶画面を見つめた。だが、一向に既読がつく気配はなかった。
(咲希の奴、またあの玉藻とおしゃべりしてるのかな?)
小さくため息をつくと、凪紗はスマートフォンを鞄に戻した。
「遅くなっても大丈夫そうかな?」
「はい。もう成人しているし、全然平気です」
「じゃあ、今日はゆっくりできそうだね。あと三十分くらいで海が見えるから、楽しみにしてて……」
西条の言葉に頷くと、凪紗は嬉しそうに笑みを浮かべた。
(遅くまで西条先輩と二人っきりってことは……。やだッ、あたしったら何を期待しちゃってるの……?)
自分の妄想に顔を赤らめると、凪紗は楽しそうに西条の横顔を見つめた。
漆黒のポルシェ718ケイマンが、圏央道を逢魔が刻に向かって南下していった。
開始線で蹲踞の姿勢を取ると、咲希は必死で咲耶に呼びかけた。
(咲耶ッ! 咲耶ッ……! 起きてッ!)
だが、咲耶が目を覚ます気配はまるでなかった。相手が四段の段位を持つとは言え、髙峰に遅れを取るとは思えなかった。本気で神気を使えば、余裕を持って勝てることは間違いなかった。
(咲耶ッ! 目を覚ましなさいよッ! 浄化って、どうやるのよッ!)
咲希が必死で咲耶を起こそうとしている理由がこれだった。以前に咲耶は、高校剣道部の顧問であった齋藤と地稽古をして、彼の妖気を浄化したことがある。その時には竹刀で齋藤の面を打ち、神気を叩きつけていた。だが、どのくらいの量をどのタイミングで相手に与えるのか、咲希は知らなかったのだ。
『何じゃ、うるさいのう……。緊急時以外、起こすなと言ったであろう?』
眠そうな声で咲耶が目を覚ました。こんな状態の咲耶を見るのは初めてだった。咲希は驚きに黒瞳を見開きながら訊ねた。
(大丈夫なの、咲耶……? 全然、元気ないけど……)
『あまり大丈夫とは言えぬ……。神気がどっさりと抜け落ちたようで、体が思うようにならぬのじゃ……』
辛そうな口調で告げる咲耶に、咲希は驚愕した。まさか、そんなに神気が消失しているなどとは、夢にも思っていなかった。
『じゃから、彼奴の相手は咲希に任せる。量などどうでも良いから、純粋な神気を奴の脳天に叩き込むのじゃ。そうすれば、目が覚めよう……』
さすがに女神だけあって、状況は把握しているようだった。
(分かったわ。でも、後で不調の原因をきちんと話し合いましょう……)
そう告げたときには、咲耶は再び寝入ってしまったようだった。咲希は心配そうに眉を顰めたが、今は目の前にいる髙峰に集中することにした。
「始めッ!」
審判をしている男子学生の合図で、髙峰が一気に距離を詰めてきた。そして、怒濤の如く竹刀を振り、上段、中段、下段に突きまで混ぜた攻撃で咲希に襲いかかった。
「……ッ!」
その剣勢一つ一つに凄まじい威力があり、息をつく暇もないほどの連撃であった。四段という段位以上の実力を髙峰が持っていることは紛れもない事実であった。
(こんなのすべて受けたら、竹刀を叩き落とされちゃうッ!)
最初の一合を受け止めただけで、咲希は髙峰の攻撃が持つ圧倒的な力に気づいた。非力な咲希にとって、その攻撃をすべて受けきることなど不可能だった。
以前に咲耶は、齋藤の攻撃を開始線から一歩も動かずにすべて受け流した。だが、今の咲希の実力ではそこまでの技量はなかった。咲希は上体でしなやかに髙峰の攻撃を受け流しながら、神速の足捌きでその剣筋を避けて躱した。
「たあぁああッ……!」
裂帛の気合いとともに、髙峰が右から左へと咲希の胴を払ってきた。咲希は大きく後方へ飛び去ると、空中でバック転をしながら髙峰から距離を取った。その動きに、二人の試合を観戦していた部員たちからどよめきの声が上がった。
「うぉおおッ……!」
道場内を震撼させるような怒声とともに、髙峰が突進してきた。体当たりをして咲希の体勢を崩すつもりのようだった。
「……ッ!」
以前に、咲耶は二メートル以上の高さを跳んで、齋藤の体当たりを躱した。だが、そんな動きをしたら、咲希が持つ特別な力に部員たちが気づいてしまう可能性が大きかった。
「胴ッ……!」
咲希は神速の足捌きで髙峰の体当たりを左に避けると、右から水平に胴を払った。だが、髙峰は咄嗟に竹刀を体の前に立てて咲希の胴払いを受け止めた。同時に、右手一本で咲希の右胴めがけて凄まじい右薙ぎを繰り出してきた。
(妖気がッ……!)
漆黒の妖霧を纏う竹刀を見て、咲希は黒曜石の瞳を大きく見開いた。髙峰の右薙ぎには濃密な妖気が込められていた。
(まずいッ!)
妖気を漲らせた竹刀は、妖刀と変わらなかった。それが普通の防具など薄紙のように両断する威力を秘めていることは確実であった。
「くッ……!」
両脚に神気を送ると、咲希は眼にも留まらぬ神速の足捌きで髙峰の斬撃を避けた。だが、完全に避けきることができずに、妖刀と化した髙峰の竹刀が咲希の黒髪の先端を斬り裂いた。斬られた漆黒の髪がヒラヒラと宙を舞って、床に乱れ散った。
(よくも、あたしの大事な髪をッ……!)
女の生命を斬り裂かれ、怒りのあまりプチンと咲希が切れた。次の瞬間、咲希の全身が壮絶な神気に包まれた。
「咲希ッ……!」
星々の輝きを映す黒瞳を大きく見開いて、玉藻が絶叫を上げた。凄まじい神気が咲希の総身から噴出し、大気を巻き込みながら螺旋の奔流と化した。
「ダメですッ! 咲希ッ!」
上段に構えた咲希の竹刀が、直視できないほどの光輝を放った。神々しい光の勢威が竹刀から放出され、凄まじい破壊力を秘めた神刀と化した。それは紛れもなく<咲耶刀>そのものであった。
「殺す気ですかッ!」
美しい貌を驚愕に染めながら、玉藻が叫んだ。
<咲耶刀>の持つ超絶な神気は、玉藻自身が誰よりも知っていた。八百年前、咲耶との戦いで、その威力を嫌というほどその身に刻みつけられたのだ。その衝撃波は髙峰の妖気を浄化するどころか、その存在自体を消し飛ばしてしまうほどの破壊力を持っていた。
「くッ……!」
一瞬のうちにすべての妖気を解放すると、玉藻は全力で駆け出した。
(間に合ってッ……!)
その超烈な移動速度は人間の眼で追うことはできず、部員たちには玉藻の姿が突然ブレて消えたとしか映らなかった。
「面ッ……!」
神速の動きで髙峰との距離を一気に詰めると、咲希は裂帛の気合いとともに<咲耶刀>を一気に振り落とした。凄絶な光輝を放つ刀身が、髙峰の頭頂めがけて凄まじい速度で襲いかかった。
「……ッ!」
驚愕の表情を浮かべながら、髙峰が咲希を見つめた。その瞳には、紛れもない恐怖が映っていた。髙峰には<咲耶刀>の光り輝く白刃が、自分に振り下ろされる死神の大鎌に見えた。絶大な破壊力を持った大鎌によって、自分が真っ二つに斬り裂かれることを覚悟した。
ズドーンッ……!
大気を震撼させ、道場を建物ごと鳴動させる轟音が響き渡った。壮絶な死の瞬間を待つ髙峰の前に、漆黒の滝が流れ落ちた。それが長い黒髪であることに気づくと、髙峰は茫然と眼を見開いた。
「玉藻ッ……!」
目の前に突然現れた玉藻の姿に、咲希は驚愕した。振り落とした<咲耶刀>の神気を、玉藻が両手から発した妖気で受け止めたのだ。だが、三大妖魔とはいえ、復活して間もない玉藻の妖気は全盛期の半分もなかった。白銀に輝く<咲耶刀>の刀身が、玉藻の左肩を斬り裂いて心臓付近までめり込んでいた。咄嗟に放った妖気では、<咲耶刀>の神気を相殺しきれなかったのだ。
「玉藻、しっかりしてッ! 玉藻ッ!」
驚愕しながら<咲耶刀>を引き抜いた瞬間、玉藻の左肩から鮮血が噴出した。<咲耶刀>を消失させると、咲希は血だまりの中に倒れた玉藻の体を抱き締めた。
全身を襲う激痛に美貌を歪ませながら、玉藻が蒼白な表情で咲希の顔を見上げた。
(何とか……間に合いましたわ……。咲希に……人殺しをさせずに……済みましたわ……)
「誰か、救急車をッ……! お願い、早くッ……!」
長い漆黒の髪を振り乱しながら、咲希が茫然と立ち竦んでいる部員たちに向かって叫んだ。
「ダメ……です……。少し……肩を貸して……ください……」
咲希に縋り付きながら、玉藻がゆっくりと立ち上がった。だが、足腰に力が入らず、膝から床に崩れ落ちそうになった。咲希が慌てて、玉藻の体を支えた。
「玉藻ッ! 無理しないでッ! 今、救急車をッ……!」
黒曜石の瞳に涙を浮かべながら、咲希が叫んだ。しかし、玉藻は小さく首を振りながら、咲希の耳元で囁いた。
「病院に……連れて行かれたら……、妖魔だと……バレてしまい……ます……」
「でも、このままじゃ……」
玉藻の言葉の意味を理解しながらも、咲希は動転してどうすれば良いか分からなかった。
「このくらいの傷……少し休めば……治ります……」
そう告げると玉藻は、咲希の腕の中でガクリと首を折った。激痛のあまり、意識を失ったのだ。
「玉藻ッ! しっかりしてッ! 玉藻ッ……!」
鮮血に塗れた玉藻の体を抱きしめながら、道場内に響き渡る声で咲希が絶叫した。その二人の姿を、屈辱に塗れた視線で髙峰が見下ろしていた。
(咲希の奴、なんであんな子と一緒に住み始めたのかな? 行きも帰りもバイクで二人乗りしてるし……。お昼だって二人で食べて、全然あたしを誘ってくれないし……)
クラスもサークルも同じであるにも拘わらず、ここ最近は咲希と話す機会もあまりなかった。ゴールデンウィーク中に行われた<プレアデス>の新歓合宿でさえ、咲希はバイクの免許を取ると言って参加しなかった。もちろん、玉藻も咲希に付き合って不参加だった。
飲み干したアイスコーヒーのグラスをテーブルに戻すと、凪紗はスマートフォンを取り出してアドレス帳を確認した。咲希が相手をしてくれないため、誰か他の友達を誘って食事にでも行こうと考えたのだ。
「あれ……? 凪紗ちゃんじゃないか? 久しぶりだね……」
不意に声をかけられて、凪紗は驚いて顔を上げた。そこには、一年二ヶ月ぶりに見る懐かしい笑顔があった。
「西条先輩ッ……? びっくりした! お久しぶりです!」
「一人でどうしたの? 誰かと待ち合わせ?」
凪紗の目の前に腰掛けると、以前と変わらない優しい微笑を浮かべながら西条が訊ねてきた。
「いえ……。西条先輩こそ、どうしたんですか? 今日は剣道部の練習はないんですか?」
紺色のジャケットにグレーのTシャツ姿の西条を見て、凪紗は笑顔で訊ねた。大学に入ってから何度か西条を見かけたことがあるが、いつも剣道着と袴を身に着けていたのだ。
(剣道着姿の西条先輩も格好いいけど、普段着の方がもっといいな……)
高校時代から西条のことが気になっている凪紗は、この偶然を神様に感謝した。
「今日はたまたま練習が休みなんだ。だから久しぶりに授業に出ようと思ったんだけど、あいにく休講でね……。時間を持て余してるところさ……」
スポーツマンらしい爽やかな表情で笑いながら、西条が告げた。
「偶然ですね。あたしもちょうど暇を持て余してるんです。あれ……? どうしたんですか、それ? 怪我してるじゃないですか?」
テーブルの上に組んだ西条の左手を見て、凪紗が驚いた声を上げた。まるでナイフか何かで切ったように、左手の甲が三センチほど裂けて血が滲んでいたのだ。
「ああ……。さっき、ちょっと引っかけちゃって……。大したことないよ」
「ちょっと待っててください……」
そう告げると、凪紗は慌ててバックから化粧品ポーチを取り出した。そして、ポーチの中からバンドエイドを出すと、西条の傷口に貼った。
「ありがとう……。優しいな、凪紗ちゃんは……」
「い、いえ……。こんなの、当然です……」
微笑みながら告げた西条の言葉に、凪紗はカアッと顔を赤らめた。
「この後、授業はあるの?」
「四限に一コマあるんですけど、必修じゃないのでどうしようかと……」
本当は必修の英文基礎演習なのだが、凪紗は久しぶりに会った西条ともう少し話をしていたかった。
「時間があったら、ちょっと付き合ってくれない? 俺、今日は車で来てるから、ドライブでも行こうよ」
「ドライブ……ですか?」
突然の誘いに濃茶色の瞳を大きく見開いて、凪紗が西条の顔を見つめた。高校時代でさえ、西条と二人きりで出かけたことは一度もなかったのだ。
「ダメかな? 毎日剣道漬けだから、たまには羽を伸ばしたくて……。せっかく、凪紗ちゃんと会えたから、このまま別れるのももったいないしね」
嬉しそうな笑みを浮かべながら、西条が告げた。自分を真っ直ぐに見つめている黒瞳に、凪紗は思わずドキリとした。
「だ、ダメじゃないです……。行きたいです……」
考えるよりも早く、言葉が溢れ出た。そして、自分が口走った答えに、凪紗はカアッと顔を赤らめた。
「良かった。じゃあ、決まりだ。海でも見に行こうよ」
「う、海……ですか?」
八王子にある聖光学院大学の近くには、海など存在しなかった。凪紗は驚いて西条の顔を見つめた。
「高速を使えば、一時間半もあれば茅ヶ崎あたりまで行けるよ。海沿いのレストランで食事でもしよう……」
西条の言葉を聞いて、凪紗は濃茶色の瞳を見開きながら真っ赤に染まった。
(何なの、このサプライズは……? 西条先輩と二人でドライブして、食事って……? ああッ……! 何で今日に限って、あたしったらジージャン着てるのよ!)
ユニクロのジーンジャンパーと白いTシャツを着てきたことを、凪紗は心の底から後悔した。
第一体育館の一階にある剣道場は、竹刀がぶつかり合う激しい音が響き渡っていた。その喧噪に懐かしさを覚えながら、咲希は道場内に足を踏み入れた。咲希の後ろには、物珍しげな表情で道場内を見渡している玉藻が立っていた。
「何なんですの、これは……? 皆さん、変な格好をして棒を振り回してますけれど……」
古代中国や日本の平安時代では見たことがない情景に、玉藻は星々の煌めきを映す黒瞳を興味深そうに見開いた。
「剣道っていうスポーツよ。あたしも、高校の頃にやっていたの」
苦笑いを浮かべながら玉藻に説明していると、懐かしい声が聞こえてきた。
「咲希……? 咲希よね? 剣道をやめたって聞いてたけど、入部しに来てくれたの?」
白い剣道着と紺色の袴に、面手ぬぐいで髪を覆った女性が驚きの表情を浮かべながら駆け寄って来た。
「葛城先輩ッ! お久しぶりです!」
高校時代に同じ剣道部だった葛城浅葱だった。咲希よりも一年上の先輩で、将成や西条と同じクラスだったはずだ。
「去年のインターハイで個人戦優勝したんだって? おめでとう!」
「ありがとうございます。葛城先輩もお元気そうですね」
豪快にパンパンと背中を叩かれながら、咲希が懐かしそうに笑った。女性ながら百七十二センチある身長と長い手足を活かし、遠くから一気に距離を詰めて打つ片手面が得意な剣士だった。段位も二段で、咲希の前の女子剣道部主将を務めていた。
「咲希なら大歓迎よ。早速、入部届を持って来させるわ」
近くにいた一年生に声をかけようとした浅葱を、咲希が慌てて止めた。
「違うんです! 今日は西条先輩に用事があって伺ったんです。竹刀はもう握ってませんよ……」
「そうなの……? もったいない。咲希なら全日本でも絶対に活躍できるのに……」
ガックリと肩を落として、浅葱が残念そうに咲希を見つめた。
「すみません。それで、西条先輩はいますか?」
「西条君なら、今日は用があるとかで部活を休んでるわ。それより、ちょっと手合わせしない? インターハイ優勝の実力を見せてよ……」
諦めきれない様子で、浅葱が咲希の左腕を取った。相変わらずの強引さに、咲希が苦笑いを浮かべながら告げた。
「もう九ヶ月も竹刀を握ってないんです。無茶言わないでください」
「咲希なら大丈夫だって……。一本だけ、やりましょうよ」
笑顔を浮かべながら咲希の腕をとった浅葱を、玉藻が厳しい視線で睨みながら告げた。
「先輩だか何だか存じませんが、少し強引ではありませんか? 咲希が嫌がっておりますわ」
「何、あなた……? 一年のくせに、上級生に文句を言うの?」
高校でも女子剣道部は上下関係が厳しかった。まして、ここは大学の体育会だ。一年奴隷、二年平民、三年天皇、四年神様という図式がまかり通っている世界だった。
「玉藻、やめて……。すみません、葛城先輩……」
「そんなにお暇でしたら、私が相手をしてさしあげますわ」
慌てて仲裁に入った咲希の言葉を聞き流して、玉藻が浅葱に向かって言い放った。
「何ですってッ! ずいぶんと大きな口を叩くわね!」
「すみません、先輩ッ! 玉藻も、やめてッ!」
蒼白な表情を浮かべながら、咲希が慌てて叫んだ。こんなところで玉藻に妖気を使われたら、大惨事になるのが目に見えていた。
「でも、この方の態度が……」
「あたしの態度が何だって言うのッ!」
売り言葉に買い言葉で、二人の関係が一気に険悪さを増した。
「お願いだからやめて、玉藻ッ! 葛城先輩に謝ってッ!」
必死な表情で、咲希が玉藻を止めに入った。その時、凄まじい怒号が道場内を震撼させた。
「何を騒いでいるッ! 葛城、説明しろッ!」
「は、はいッ!」
ビクンと体を震わせると、浅葱が直立不動の姿勢を取って声の主を振り返った。そこには、身長百九十センチを超える男が、厳しい視線で浅葱を睨んでいた。
剣道着の上からでも、凄まじいほど発達した筋肉が見て取れた。二の腕の太さは、咲希の太股くらいあった。巨体に見合う肩幅は広く、道着から覗く胸板は巌のように厚かった。その男の怒号によって、ぶつかり合う竹刀と荒々しいかけ声が消えて、道場内がシンと静まりかえっていた。
「咲希……」
「分かってる……」
耳元で囁いた玉藻の言葉に、咲希は小さく頷いた。男の全身から、紛れもない妖気が漏れていたのだ。咲希は四角張った男の顔を見つめた。太い眉毛に鋭い眼光が印象的な男だった。大きな鷲鼻と固く結んだ口元が、男の意志の強さを物語っていた。
「お騒がせして申し訳ありません、髙峰部長……。高校時代の後輩が来たので、ついはしゃいでしまいました」
最敬礼とも言えるほど深く頭を下げた浅葱を、髙峰がジロリと睨みながら告げた。
「後輩というのはどっちだ?」
「あたしです。神守咲希と申します」
髙峰の前に進み出て、長い漆黒の髪を揺らしながら咲希が頭を下げた。その様子を不満そうに、玉藻が見つめていた。
「神守咲希……? 昨年の全国高等学校総合体育大会の女子個人戦で優勝した神守三段か?」
髙峰がスッと眼を細めながら、咲希を見据えた。どうやら、咲希の実力に気づいたようだった。
「はい。練習のお邪魔をして申し訳ありませんでした。すぐに失礼します……」
「待て……。俺は男子剣道部の部長をしている髙峰漣二四段だ。インターハイを制した美人剣士などと雑誌で騒がれていたが、こうして直接会うととんでもない実力だな。防具を着けろッ!」
有無を言わさぬ強い語調で、漣二が咲希に告げた。
「ちょっと、待ってください。あたしは……」
漣二の言葉に驚愕して、咲希が慌てて首を振りながら叫んだ。
「俺に勝てたら、見逃してやる。もし負けるようなら、すぐに剣道部に入部しろッ!」
「そんなッ……!」
文句を言おうとした咲希の横から、玉藻が口を挟んだ。
「咲希がイヤでしたら、私がお相手を……」
「わ、分かりましたッ! お手柔らかにお願いしますッ!」
玉藻に戦わせたらどんな大惨事になるか分からないと思い、咲希が顔を引き攣らせながら叫んだ。
こうして、自分の意志にまったく関係なく、咲希の剣道部入部を賭けた試合が決定した。
「西条先輩が外車に乗っているなんて、知りませんでした。これ、何て言う車なんですか?」
右側にある助手席に初めて座った凪紗が、驚きの表情を浮かべながら訊ねた。後部座席がないツーシーターの車なんて初めて乗ったのだ。
「ポルシェ718ケイマンだよ。中古で買ったから、大したことないよ」
「ポルシェですかッ?」
笑いながら告げた西条の言葉に、凪紗が驚いて濃茶色の瞳を大きく見開いた。ポルシェの名前くらいは、凪紗も知っていた。それが、ものすごく高級なスポーツカーだと言うことも……。
「良かったら、これからも時々隣に乗ってくれると嬉しいな。凪紗ちゃんみたいに可愛い娘なら、大歓迎さ……」
「か、揶揄わないでください……」
カアッと真っ赤に顔を染めながら、恥ずかしそうに凪紗が俯いた。
(可愛いって……。西条先輩からそんなこと言われるなんて……)
「覚えてるかい? 将成と咲希ちゃんをくっつけようとして、二人で映画をすっぽかしたことを……」
「は、はい。咲希ってずっと桐生先輩に憧れてたのに、なかなか行動に移せなかったんですよ。でも、上手く行ってよかったですね」
高校二年の九月に四人で映画へ行く約束をして、咲希と将成を二人きりにするために当日ドタキャンしたことを凪紗は思い出した。
「あの時から、凪紗ちゃんのことを気になってたんだ。友達のために、ここまで協力できるなんて凄いなって……」
「そ、そんな……。西条先輩が協力してくれたおかげです」
(気になってたって……、どういう意味なの……?)
ドキンッと胸を高鳴らせながら、凪紗が早口で答えた。凪紗の方こそ、当時は西条のことが気になっていたのだった。
「大学の体育会って、凄くハードなんだ。土日もほとんど練習してるしね。だから、凪紗ちゃんに連絡したくても、なかなか時間が取れなかったんだよ。そのうちに時間が経っちゃって、ますます連絡しづらくなったんだ……」
「そ、そうなんですか……?」
笑顔で告げた西条の言葉に、凪紗は耳まで赤く染めながら訊ねた。まるで、口説かれているように聞こえたのだ。
「だから、今日は偶然凪紗ちゃんに会えて、凄くラッキーだった。ちょっと強引かなって思ったけど、このチャンスを逃したら次にいつ会えるか分からないからね。付き合ってくれて、嬉しいよ……」
「い、いえ……。あたしの方こそ……」
凄く嬉しいですという言葉を、凪紗は呑みこんだ。
(西条先輩って、こんなにグイグイと来るタイプだったんだ……。でも、男らしくて嫌いじゃないな……)
筋肉質な腕でステアリングを握る西条の横顔を見つめながら、凪紗は嬉しそうに微笑みを浮かべた。高校の頃よりも一回り大きくなった西条は、クラスやサークルの男子にはない精悍な男の雰囲気に溢れていた。
(こんな人が彼氏だったらいいなぁ……。そうだ、咲希に連絡しておこうっと……)
「ちょっと、LINEしてもいいですか? 親に今日遅くなるって連絡しておきたくて……」
「ああ、構わないよ。凪紗ちゃんは実家暮らしなんだ?」
「ええ……。本当は咲希みたいに一人暮らししたいんですが、金銭的に厳しくって……」
笑顔でそう告げると、凪紗はスマートフォンを操作し始めた。
『今、西条先輩と会ってるよ。先輩の車で茅ヶ崎に行くんだ。詳しいことは、明日話すね』
LINEを打ち終えると、凪紗は液晶画面を見つめた。だが、一向に既読がつく気配はなかった。
(咲希の奴、またあの玉藻とおしゃべりしてるのかな?)
小さくため息をつくと、凪紗はスマートフォンを鞄に戻した。
「遅くなっても大丈夫そうかな?」
「はい。もう成人しているし、全然平気です」
「じゃあ、今日はゆっくりできそうだね。あと三十分くらいで海が見えるから、楽しみにしてて……」
西条の言葉に頷くと、凪紗は嬉しそうに笑みを浮かべた。
(遅くまで西条先輩と二人っきりってことは……。やだッ、あたしったら何を期待しちゃってるの……?)
自分の妄想に顔を赤らめると、凪紗は楽しそうに西条の横顔を見つめた。
漆黒のポルシェ718ケイマンが、圏央道を逢魔が刻に向かって南下していった。
開始線で蹲踞の姿勢を取ると、咲希は必死で咲耶に呼びかけた。
(咲耶ッ! 咲耶ッ……! 起きてッ!)
だが、咲耶が目を覚ます気配はまるでなかった。相手が四段の段位を持つとは言え、髙峰に遅れを取るとは思えなかった。本気で神気を使えば、余裕を持って勝てることは間違いなかった。
(咲耶ッ! 目を覚ましなさいよッ! 浄化って、どうやるのよッ!)
咲希が必死で咲耶を起こそうとしている理由がこれだった。以前に咲耶は、高校剣道部の顧問であった齋藤と地稽古をして、彼の妖気を浄化したことがある。その時には竹刀で齋藤の面を打ち、神気を叩きつけていた。だが、どのくらいの量をどのタイミングで相手に与えるのか、咲希は知らなかったのだ。
『何じゃ、うるさいのう……。緊急時以外、起こすなと言ったであろう?』
眠そうな声で咲耶が目を覚ました。こんな状態の咲耶を見るのは初めてだった。咲希は驚きに黒瞳を見開きながら訊ねた。
(大丈夫なの、咲耶……? 全然、元気ないけど……)
『あまり大丈夫とは言えぬ……。神気がどっさりと抜け落ちたようで、体が思うようにならぬのじゃ……』
辛そうな口調で告げる咲耶に、咲希は驚愕した。まさか、そんなに神気が消失しているなどとは、夢にも思っていなかった。
『じゃから、彼奴の相手は咲希に任せる。量などどうでも良いから、純粋な神気を奴の脳天に叩き込むのじゃ。そうすれば、目が覚めよう……』
さすがに女神だけあって、状況は把握しているようだった。
(分かったわ。でも、後で不調の原因をきちんと話し合いましょう……)
そう告げたときには、咲耶は再び寝入ってしまったようだった。咲希は心配そうに眉を顰めたが、今は目の前にいる髙峰に集中することにした。
「始めッ!」
審判をしている男子学生の合図で、髙峰が一気に距離を詰めてきた。そして、怒濤の如く竹刀を振り、上段、中段、下段に突きまで混ぜた攻撃で咲希に襲いかかった。
「……ッ!」
その剣勢一つ一つに凄まじい威力があり、息をつく暇もないほどの連撃であった。四段という段位以上の実力を髙峰が持っていることは紛れもない事実であった。
(こんなのすべて受けたら、竹刀を叩き落とされちゃうッ!)
最初の一合を受け止めただけで、咲希は髙峰の攻撃が持つ圧倒的な力に気づいた。非力な咲希にとって、その攻撃をすべて受けきることなど不可能だった。
以前に咲耶は、齋藤の攻撃を開始線から一歩も動かずにすべて受け流した。だが、今の咲希の実力ではそこまでの技量はなかった。咲希は上体でしなやかに髙峰の攻撃を受け流しながら、神速の足捌きでその剣筋を避けて躱した。
「たあぁああッ……!」
裂帛の気合いとともに、髙峰が右から左へと咲希の胴を払ってきた。咲希は大きく後方へ飛び去ると、空中でバック転をしながら髙峰から距離を取った。その動きに、二人の試合を観戦していた部員たちからどよめきの声が上がった。
「うぉおおッ……!」
道場内を震撼させるような怒声とともに、髙峰が突進してきた。体当たりをして咲希の体勢を崩すつもりのようだった。
「……ッ!」
以前に、咲耶は二メートル以上の高さを跳んで、齋藤の体当たりを躱した。だが、そんな動きをしたら、咲希が持つ特別な力に部員たちが気づいてしまう可能性が大きかった。
「胴ッ……!」
咲希は神速の足捌きで髙峰の体当たりを左に避けると、右から水平に胴を払った。だが、髙峰は咄嗟に竹刀を体の前に立てて咲希の胴払いを受け止めた。同時に、右手一本で咲希の右胴めがけて凄まじい右薙ぎを繰り出してきた。
(妖気がッ……!)
漆黒の妖霧を纏う竹刀を見て、咲希は黒曜石の瞳を大きく見開いた。髙峰の右薙ぎには濃密な妖気が込められていた。
(まずいッ!)
妖気を漲らせた竹刀は、妖刀と変わらなかった。それが普通の防具など薄紙のように両断する威力を秘めていることは確実であった。
「くッ……!」
両脚に神気を送ると、咲希は眼にも留まらぬ神速の足捌きで髙峰の斬撃を避けた。だが、完全に避けきることができずに、妖刀と化した髙峰の竹刀が咲希の黒髪の先端を斬り裂いた。斬られた漆黒の髪がヒラヒラと宙を舞って、床に乱れ散った。
(よくも、あたしの大事な髪をッ……!)
女の生命を斬り裂かれ、怒りのあまりプチンと咲希が切れた。次の瞬間、咲希の全身が壮絶な神気に包まれた。
「咲希ッ……!」
星々の輝きを映す黒瞳を大きく見開いて、玉藻が絶叫を上げた。凄まじい神気が咲希の総身から噴出し、大気を巻き込みながら螺旋の奔流と化した。
「ダメですッ! 咲希ッ!」
上段に構えた咲希の竹刀が、直視できないほどの光輝を放った。神々しい光の勢威が竹刀から放出され、凄まじい破壊力を秘めた神刀と化した。それは紛れもなく<咲耶刀>そのものであった。
「殺す気ですかッ!」
美しい貌を驚愕に染めながら、玉藻が叫んだ。
<咲耶刀>の持つ超絶な神気は、玉藻自身が誰よりも知っていた。八百年前、咲耶との戦いで、その威力を嫌というほどその身に刻みつけられたのだ。その衝撃波は髙峰の妖気を浄化するどころか、その存在自体を消し飛ばしてしまうほどの破壊力を持っていた。
「くッ……!」
一瞬のうちにすべての妖気を解放すると、玉藻は全力で駆け出した。
(間に合ってッ……!)
その超烈な移動速度は人間の眼で追うことはできず、部員たちには玉藻の姿が突然ブレて消えたとしか映らなかった。
「面ッ……!」
神速の動きで髙峰との距離を一気に詰めると、咲希は裂帛の気合いとともに<咲耶刀>を一気に振り落とした。凄絶な光輝を放つ刀身が、髙峰の頭頂めがけて凄まじい速度で襲いかかった。
「……ッ!」
驚愕の表情を浮かべながら、髙峰が咲希を見つめた。その瞳には、紛れもない恐怖が映っていた。髙峰には<咲耶刀>の光り輝く白刃が、自分に振り下ろされる死神の大鎌に見えた。絶大な破壊力を持った大鎌によって、自分が真っ二つに斬り裂かれることを覚悟した。
ズドーンッ……!
大気を震撼させ、道場を建物ごと鳴動させる轟音が響き渡った。壮絶な死の瞬間を待つ髙峰の前に、漆黒の滝が流れ落ちた。それが長い黒髪であることに気づくと、髙峰は茫然と眼を見開いた。
「玉藻ッ……!」
目の前に突然現れた玉藻の姿に、咲希は驚愕した。振り落とした<咲耶刀>の神気を、玉藻が両手から発した妖気で受け止めたのだ。だが、三大妖魔とはいえ、復活して間もない玉藻の妖気は全盛期の半分もなかった。白銀に輝く<咲耶刀>の刀身が、玉藻の左肩を斬り裂いて心臓付近までめり込んでいた。咄嗟に放った妖気では、<咲耶刀>の神気を相殺しきれなかったのだ。
「玉藻、しっかりしてッ! 玉藻ッ!」
驚愕しながら<咲耶刀>を引き抜いた瞬間、玉藻の左肩から鮮血が噴出した。<咲耶刀>を消失させると、咲希は血だまりの中に倒れた玉藻の体を抱き締めた。
全身を襲う激痛に美貌を歪ませながら、玉藻が蒼白な表情で咲希の顔を見上げた。
(何とか……間に合いましたわ……。咲希に……人殺しをさせずに……済みましたわ……)
「誰か、救急車をッ……! お願い、早くッ……!」
長い漆黒の髪を振り乱しながら、咲希が茫然と立ち竦んでいる部員たちに向かって叫んだ。
「ダメ……です……。少し……肩を貸して……ください……」
咲希に縋り付きながら、玉藻がゆっくりと立ち上がった。だが、足腰に力が入らず、膝から床に崩れ落ちそうになった。咲希が慌てて、玉藻の体を支えた。
「玉藻ッ! 無理しないでッ! 今、救急車をッ……!」
黒曜石の瞳に涙を浮かべながら、咲希が叫んだ。しかし、玉藻は小さく首を振りながら、咲希の耳元で囁いた。
「病院に……連れて行かれたら……、妖魔だと……バレてしまい……ます……」
「でも、このままじゃ……」
玉藻の言葉の意味を理解しながらも、咲希は動転してどうすれば良いか分からなかった。
「このくらいの傷……少し休めば……治ります……」
そう告げると玉藻は、咲希の腕の中でガクリと首を折った。激痛のあまり、意識を失ったのだ。
「玉藻ッ! しっかりしてッ! 玉藻ッ……!」
鮮血に塗れた玉藻の体を抱きしめながら、道場内に響き渡る声で咲希が絶叫した。その二人の姿を、屈辱に塗れた視線で髙峰が見下ろしていた。
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