今を春べと咲くや此の花 ~ 咲耶演武伝 ~

椎名 将也

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第4章 咲耶の軌跡

8.穢れた再会

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 <冥府の宮>は、黄泉の国の入口にある千引岩ちびきいわから隧道ずいどうを真っ直ぐに半日ほど下りたところにあった。その規模は高天原の天上宮ほどではないが、その半分程度の広さは十分にあった。
 主宮は四層から成っており、その両側には懺悔宮ざんげきゅう怨嗟宮えんさきゅうと呼ばれる三層の塔があった。あらかじめ建御雷神が話を通しておいてくれたようで、咲耶は怨嗟宮の三層にある一室に通された。ここが黄泉の国における咲耶の私室として充てがわれるようだった。

「思っていたよりもまともな部屋じゃな……」
 二間続きの部屋を見渡しながら、咲耶が意外そうに呟いた。建御雷神の屋敷で過ごしていた部屋ほど豪華ではなかったが、必要最低限の家具は揃っていた。
 入口を入ってすぐの部屋は居間になっていて、長方形の食卓机を挟んで二脚の椅子が置かれていた。壁には食器棚があり、一通りの食器類は揃えられていた。

 奥の部屋は十畳ほどの寝室で、右の壁には寝台が、左側には箪笥があった。正面は大きな窓になっていて、外の景色が見渡せた。だが、高天原や葦原中国のような緑溢れる風景ではなく、岩と土だけしかない荒寥としたものだった。
「寝台は意外と広いわ。これなら、二人で寝ても十分……」
 無意識に建御雷神と一緒に寝ることを考えていたことに気づくと、咲耶はカアッと顔を赤らめた。

(初日から、何を考えておるのじゃ……。キンキン頭が来るのは、二年も先だというのに……)
 慌てて頭を振ると、咲耶は居間に戻って着替えを始めた。これから、伊邪那美……いや、黄泉の国を統べる黄泉津大神ヨモツオオカミに挨拶に行かなければならないのだ。
(神話によると伊邪那美さまは、腐敗した身体に蛆が湧いていたと言われているけど、本当なのだろうか……?)
 蛆だらけの腐乱死体そのものだとしたら、咲耶は悲鳴を上げて逃げ出さない自信がなかった。

 その時、扉が二回叩かれ、咲耶を案内してくれた門番の声が廊下から聞こえてきた。
「木花咲耶さま、準備がよろしければ黄泉津大神さまの元へご案内致します」
「はい、今参ります……」
 そう告げると、咲耶は慌てて姿見で髪型と衣服を確認した。長い漆黒の髪を結い髪に纏め上げ、薄紅色の地に鶴と花吹雪の刺繍が入った貫頭衣を着た自分の姿に咲耶は頷いた。本来であれば宝冠と領巾ひれを付けるのだが、黄泉の風習が分からないため略式にとどめたのだ。

(あとは、勾玉まがたまの首飾りと管玉くだたまの腕輪を付けて……)
 深緑に輝く翡翠の勾玉は咲耶の白い肌に映え、琥珀色の管玉は薄紅色の衣とよく合っていた。
「お待たせして申し訳ありませぬ……」
 扉を開けて廊下に出ると、咲耶は門番の若い青年に丁寧に頭を下げた。

「い、いえ……。では、黄泉津大神さまのところへご案内致します……」
 咲耶の美しさに顔を赤らめながら、門番が廊下を先導し始めた。どうやら、門番だけでなく従者も兼ねているようだった。
(多少青白い顔をしているけれど、普通の青年のようじゃ……。死人しびとという感じではないわ……)
 黄泉の国独特の濁ったであったが、その青年からたしかな生気を感じて咲耶はホッと胸を撫で下ろした。

 青年は怨嗟宮を抜けて主宮に咲耶を案内した。<冥府の宮>の主宮というだけあり、廊下も広く両側にある部屋の扉も立派であった。最上階にある突き当たりの部屋の前に到着すると、青年が振り向いて咲耶に告げた。
「こちらが<玉座の間>になります。私は中に入る許しをいただいておりませんので、こちらでお待ちしております。扉を二度叩いて、お名前をおっしゃってください。そして、中から入室の許可がありましたら、お入りください」
「分かりました。ありがとうございます……」
 青年の言葉に礼を述べると、咲耶は大きく息を吸い込んだ。

(この中に伊邪那美さまがいらっしゃる……。本来であれば、天照さまの代わりに高天原をお治めになっていたかも知れぬお方が……)
 伊邪那美は、神世七代かみよのななよと呼ばれる天地開闢かいびゃくの神々に数えられる女神の一柱だった。神格としては、天照皇大御神よりも上なのだ。国津神くにつかみでしかない咲耶にとっては、雲の遥か上に座す女神であった。

 何度か深呼吸をして神気を整えると、咲耶は震える手で<玉座の間>の扉を叩いた。
「木花咲耶と申します。建御雷神さまのご紹介によって、高天原から参りました……」
 緊張のあまり舌を噛みそうになりながら、咲耶が早口で告げた。

「入られよ……」
 中から、低い男の声が響いた。咲耶は扉を押し開いて、<玉座の間>へと足を踏み入れた。
 百畳は優にある広い部屋の奥に、玉座に座った伊邪那美の姿があった。漆黒の衣裳きぬも領巾ひれに身を包んだ伊邪那美は、想像以上に美しかった。長い黒髪を腰まで伸ばし、夜の闇を映す瞳が真っ直ぐに咲耶を見つめていた。

 玉座へ伸びる通路の両側には、八人の男と二人の女が二列に分かれて並んでいた。その全員が黒い衣服に身を包んでいるのを見て、咲耶は自分の失態に気づいた。
(これは不味かったかも知れぬ……。黄泉の国での正装は、黒一色だったのかも……)
 白銀の鶴と鮮やかな花々を模した薄紅色の衣服は、この<玉座の間>で明らかに浮いていた。

(それにしても、何という神気じゃ……。一人ひとりが建御雷神さまに近い力を持っておる……)
 両側に並ぶ八人の男と二人の女から、凄まじい力を感じて咲耶は驚いた。そして、彼らが八雷と呼ばれる雷神と黄泉醜女ヨモツシコメの姉妹であることに気づいた。黄泉の国広しといえども、伊邪那美を除いてこれほどのを持つ者が他にいるとは思えなかった。

「そのまま真っ直ぐに進んで、黄泉津大神さまの御前に跪きなさい」
「はい……」
 黄泉醜女の言葉に頷くと、萎縮しそうになる身体に神気を流して咲耶はゆっくりと前に進んだ。そして、伊邪那美の十六尺(五メートル)ほど前で立ち止まると、片膝をついてこうべを垂れた。

「建御雷神さまのご紹介で参った木花咲耶と申します。よろしくお願い申し上げます……」
 だが、咲耶の言葉が聞こえなかったのか、伊邪那美は無言で彼女を見つめていた。不審に思って咲耶が顔を上げると、右側に立っていた男が咲耶の目の前に歩み寄って右手を差し出した。

「建御雷神殿からの紹介状があるであろう? こちらに差し出せ……」
「は、はい……」
 貫頭衣の隠しから紹介状を取り出すと、咲耶は両手で男に差し出した。男は封を開いて紹介状の文面を確認すると、伊邪那美に向かって告げた。
「間違いなく建御雷神殿によるものです。綿津見殿も名を連ねております」
 男の言葉に伊邪那美が頷いた。そして、凍えるような冷たい美声で短く告げた。
「読むがよい……」
「はッ……!」
 そう告げると、男は低いがよく通る声で紹介状を読み始めた。

『黄泉の国を統べる偉大なる女王、黄泉津大神様。
 過日は格別なるご厚情をいただき、深く御礼申し上げます。この度、私の弟子にして瓊瓊杵尊様の細君である木花咲耶を推挙いたします。まだ未熟なれど、瓊瓊杵尊様のご無念を晴らそうと日夜修行に励んでおります。
 つきましては、黄泉の国で六十年ほど修行をさせていただきたくお願い申し上げます。修行の方法については一任致しますが、できうるならば最初は黄泉醜女殿に師事させて頂けると幸甚です。
 黄泉津大神様のご慈悲とご寛恕かんじょを賜りたく、伏してお願い申し上げます』

 眼を閉じて紹介状の内容を聞いていた伊邪那美が、闇の黒瞳を開いて咲耶を真っ直ぐに見つめた。そして、背筋が凍りつくような冷たい声で告げた。
「木花咲耶とやら、正直に答えよ」
「は、はいッ……」
「そなた、建御雷神の加護を受けておるな……?」
 伊邪那美の言葉に、咲耶はカアッと顔を真っ赤に染めた。そして、小さく頷くと恥ずかしそうに答えた。

「それは……はい……。建御雷神さまからご加護をいただきました……」
 その様子をジッと見つめると、伊邪那美が厳しい声で咲耶に告げた。
「お前は瓊瓊杵の妻ではないのか? 夫のいる身でありながら、何故建御雷神に抱かれるのじゃ?」
「そ、それは……」
 まさかそんなことを指摘されるとは思いもせずに、咲耶は言葉に詰まった。だが、次に伊邪那美が告げた言葉は、咲耶の予想をはるかに上回っていた。

「夫の前で申し開きをせよ。瓊瓊杵、こちらへ来いッ……」
「はッ……!」
 懐かしい声が響き渡り、屏風の後ろから瓊瓊杵尊が姿を現した。十三年前と変わらぬ精悍な瓊瓊杵の顔を見て、咲耶は茫然として言葉を失った。
「に、瓊瓊杵さま……」
 そこに立っていたのは、紛れもなく瓊瓊杵であった。艶やかな黒髪を真っ直ぐに背中まで流し、星々の煌めきを映す黒瞳で瓊瓊杵は真っ直ぐに咲耶を見つめていた。

「相変わらず君は美しいね、咲耶……。だが、その美しい身体を神友である建御雷神に捧げたなど、私は嫉妬の炎で灼かれそうだよ。何故、私を裏切った?」
 明らかに不義を追求する眼差しで、瓊瓊杵が咲耶を睨んできた。まさか黄泉津大神との対面の席で瓊瓊杵と再会し、建御雷神に抱かれたことを責められるなど咲耶は予想さえもしていなかった。

「そ、それは……」
 恥ずかしさと後ろめたさに鼓動が早鐘を打ち、背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
(何と答えればいいのじゃ……? やはり、加護を受けるべきではなかったのか……)
 我を忘れるほど建御雷神に激しく愛され、その愛情を実感したことに咲耶は困惑した。だが、いまさら建御雷神を愛する気持ちを誤魔化すことなど、咲耶にはできなかった。そうかといって、それを瓊瓊杵に正直に告げることなどできるはずもなかった。

は瓊瓊杵さまのご無念を晴らすべく、黄泉の国に修行に参りました。ここで夜叉ヤクシャを超える力を身につけるつもりでございます。そして、夜叉ヤクシャを倒すために、再び地上に戻らねばなりませぬ。そのために、建御雷神さまのご加護をいただいたのです。決して愛欲の情で、建御雷神さまのお情けをいただいたわけではありませぬ……」
 黒曜石の瞳に真剣な光を映しながら、咲耶が瓊瓊杵の顔を真っ直ぐに見つめながら告げた。

「建御雷神の加護があると、は咲耶に触れることができない。つまり、貴女は私を拒んだという意味だ。私の無念を晴らすと言いながら、私の愛を拒絶するのは何故だ?」
 星々の煌めきを映す黒瞳に怒りを映しながら、瓊瓊杵が咲耶を見据えた。
(瓊瓊杵さまが、私に触れられない……? 建御雷神さまの加護にそんな力があったなんて……?)
 咲耶の脳裏に建御雷神の言葉が蘇った。

『私の加護があれば、瓊瓊杵尊さまだけでなく、黄泉の国の穢れからお前を護れるだろう』

(つまり、建御雷神さまよりも力が劣る者は、私の体に触れることができない……? 恐らくは瓊瓊杵さまだけでなく、八雷や黄泉醜女でさえ私に触れられないのだ……。たぶん、黄泉の国で私に触れることができるのは、伊邪那美さまだけかも知れぬ……)
 八雷や黄泉醜女からは、建御雷神ほどのを感じなかった。黄泉の国で建御雷神を超えるを持っているのは、伊邪那美だけだと咲耶は考えた。

「瓊瓊杵さま……、私は貴方さまのお気持ちを拒むつもりはありませぬ。しかし、瓊瓊杵さまのご寵愛を受けると、二度と地上に戻れなくなります。私はここでの修行を終えたら地上に戻り、夜叉ヤクシャを倒さねばなりませぬ。建御雷神さまは貴方さまのご無念を晴らす手助けをするために、私にご加護をくださったのです」
「つまり、咲耶は私のために建御雷神に抱かれたというのか? 建御雷神を愛しているわけではないのか?」
 瓊瓊杵の言葉に、自分の気持ちを見抜かれたように感じて咲耶はドキリとした。だが、建御雷神への愛情は、誰にも悟られてはならないものだった。

「当然でございます。すべては瓊瓊杵さまのご無念を晴さんがため……。私が建御雷神さまをお慕いすることはありませぬし、あのお方が私を愛することもございません」
 黒曜石の瞳で射抜くように瓊瓊杵を見つめながら、咲耶は昂然と言い放った。

「その言葉に偽りはなかろうなッ……?」
 突然、伊邪那美が二人の会話に割り込んだ。その夜の闇を映す黒瞳が、咲耶を鋭い視線で見つめていた。
「はい、ございません……」
 大きく頷きながら、咲耶が言った。たとえ伊邪那美と言えども、建御雷神を愛していることを悟られるわけにはいかなかった。

「かつて、妾は伊邪那岐に裏切られた。その怒りと屈辱を今でも忘れることができぬ。木花咲耶、もしお前が瓊瓊杵を裏切って建御雷神を愛したならば、妾はお前を決して許さぬ。黄泉の国の中で最も恐ろしい無間地獄に叩き落としてやる故、覚えておくがよいッ!」
「は、はい……」
 伊邪那美の告げた言葉に、咲耶は蒼白になった。神世七代かみよのななよの一柱である伊邪那美を怒らせたら、本当に無間地獄に落とされてしまうことは間違いなかった。

(建御雷神さまを愛してしまったことを、絶対に気づかれてはならぬ……!)
 咲耶は建御雷神に対する愛情を、心の奥底へ封じ込める決意をした。その秘めた愛が、その後二千年以上も続くことになるとは、その時の咲耶は予想さえもしていなかった。


 翌朝から、黄泉の国における咲耶の修行が始まった。建御雷神の依頼どおり、伊邪那美は黄泉醜女の姉妹に咲耶の修行を担当させた。
「あちきの名前は駿しゅん。こっちはそう……。あちきが姉だから、忘れるんじゃないよ!」
「生まれたのはあたいの方が先じゃないか? 何で後から生まれた方が姉なんだか、あたいには理解できないねッ!」
 咲耶の時代には、双子は後から生まれた方が母体の奥にいることから兄や姉であると信じられていた。

「駿さま、颯さま……。木花咲耶でございます。どうか、よろしくお願い致します……」
 長い漆黒の髪を揺らしながら、咲耶が二人に丁寧に頭を下げた。
「あちきたちは、ひと飛びで千里(四千キロ)を走る。まずはその速さに付いて来られなければ、話にならないよ」
「あんたはトロそうだから、あたいたちに付いて来られるようになるのに時間がかかりそうだね」
 そう告げた瞬間、二人の姿が咲耶の前から消えた。

「えッ……? あッ……!」
 次の瞬間、咲耶は背中にを当てられて地面に倒れ込んだ。いつの間にか二人が咲耶の背後に立っていた。その動きを見るどころか、咲耶はまったく認識できなかった。
(何て速さなのじゃ……? 神気の流れさえ感じることができなかった……」
 地面に両手を付きながら、咲耶は茫然とした表情で背後に立つ二人を見つめた。

「あらあら……。この程度の動きについて来れないなんて、修行するだけ無駄じゃないの?」
「その程度であたいたちに教わろうなんて、百年早いわね?」
 呆れたように嘲笑する二人の言葉に、咲耶は唇を噛みしめた。
(こやつら少し速く動けるからって、人を舐めおってッ……!)
「申し訳ございませぬ。さすがに黄泉醜女のお二人ですね。どうしたら、そのような動きができるのでしょうか?」
 内心の悔しさを隠しながら立ち上がると、咲耶が二人に笑顔で訊ねた。

「どうしたらって言われても、こんなのはあちきたちにとっては普通の動きだから……」
「そうそう……。生まれた時からこれくらいはできてたし……」
 下手に出た咲耶に向かって、二人は胸を反らせながら昂然と告げた。
「どのような修練を積めば、お二人のようになれるのでしょうか?」
「そうね……。ここからあの山の頂上まで登って、戻ってきなさい」
 駿が遠くに小さく見える山を指差しながら告げた。正確には分からなかったが、その山までの距離は少なくても五十里(二百キロ)はありそうだった。その上、山の高さは七千尺(二千百メートル)以上はあった。

「あの山の頂上までですか……?」
「そうね……。最初だから多めに見て半刻(一時間)でいいわ」
「は、半刻……!」
 顔を引き攣らせながら咲耶が訊ねた。神気を使って全力で走ったとしても、半日はかかりそうだった。

「あたいなら、一瞬で戻ってこれる距離よ……」
 そう告げた颯の身体がブレて消えた。そして、再び現れた颯の右手には、真っ赤な林檎が握られていた。
「これはあの山の頂上になっている林檎だよ……」
 笑いながらそう告げると、白い歯を立てて颯は林檎を囓った。
(黄泉醜女がひと飛びで千里を駆けるというのは、真実まことじゃった……)
 美味そうに林檎を咀嚼している颯の姿を見て、咲耶は茫然となった。

「そうそう……。あの山には鬼の里があるから、のんびりしてると喰われるよ。一体くらいならともかく、何十体もの鬼に囲まれたら、今のあんたじゃ勝ち目はないだろう?」
「お、鬼の里……ですか?」
 数ある妖魔の中でも、鬼族は特に力が強い種族だった。颯が言うとおり、今の咲耶の力では多数の鬼に襲われたら無事に済むはずなどなかった。

「あちきらの修行を受けたいなら、半刻以内にあの山の頂上を往復できるようになりな。その程度できないようじゃ、修行するだけ時間の無駄だよ」
「まあ、鬼に喰われないように頑張りなよ」
 そう告げると、二人の黄泉醜女たちは笑いながら咲耶を置いて主宮へと戻っていった。

「くそーッ、舐めおって……!」
 遠ざかる二人の背中を睨むと、咲耶はすべての神気を解放して両脚に収斂しゅうれんさせた。そして、地面を抉るほど強く蹴ると、神速の速さで山に向かって駆け出した。長い黒髪が激しく後ろに靡き、周囲の景色が凄まじい速度で後方へと流れた。

(この速度なら、半刻も掛からずに往復できそうじゃ……)
 自分の疾走速度に満足げな笑みを浮かべながら、咲耶は思った。だが、それが甘すぎる感想であったことを咲耶はすぐに後悔した。五里(二十キロ)も行かないうちに、神気切れを起こしたのだ。

(全力で走りながらだと、神気の消耗が凄まじい……)
 地面に両膝を付いて四つん這いになりながら、咲耶はハァハァと激しく肩で息を切らせた。全身が鉛のように重くなり、これ以上一歩も進めそうになかった。建御雷神や綿津見との修行によって神気の総量は大幅に増加していたが、黄泉醜女たちが求める水準には遥かに届いていなかった。

(少し休まねば、意識を失ってしまう……)
 咲耶は道端の岩にもたれて腰を下ろすと、何度も深呼吸をして息を整えた。半刻どころか、一刻以上は休まないと神気が復活しそうになかった。
(情けない……。山まではまだ五分の一しか来ていないというのに……。この調子では、一日かかっても往復などできぬ。もう少し神気を抑えないと……)
 神気を抑えればそれだけ速度は落ちる。だが、今の自分では神気を解放しながら走り続けることは無理そうだった。

(これでは山に着いたとしても、頂上まで行くことは出来ぬ……。まして、鬼に襲われたら闘う力など残っておらぬ……)
 十年にも及ぶ修行で力を付けたことはたしかであったが、まだまだ夜叉ヤクシャを倒せる神気がないことを咲耶は痛感した。

『たった三十年で、お前の力を二百倍にしなければならぬのだ。そのためには、休んでいる時間などないと思え……!』

 建御雷神の叱咤の声が、咲耶の脳裏に響き渡った。
(キンキン頭の言うとおりじゃ……。こんなところで休んでいても強くはなれぬ……)
 疲れ切った身体に鞭を打って、咲耶は立ち上がった。その時、咲耶は大切なことを思い出した。

(そうじゃッ……! 私は建御雷神さまの加護を受けておるのじゃッ! あの瓊瓊杵さまでさえ、に触れられぬほどの強い加護をッ……!)
 黒曜石の瞳に希望の光を映しながら、咲耶は歩き出した。
(鬼如きがに触れられるはずがないではないかッ! 鬼と闘うのは、もう少し慣れてからでよいッ! 今は、山の頂上を目指すことだけを考えよう! 恐らく、鬼どもはに近づくことさえできぬはずじゃッ!)

 咲耶は貫頭衣の隠しから、竹筒を取り出した。そして、その栓を開けて、中の丸薬を一粒左手の平に乗せた。

『この「錬気神丹れんきしんたん」を渡しておく。これは高天原においても貴重な霊薬だ。神気を恢復させると同時に、多少の怪我であれば即座に完治させる力を持つ。これが効いている間は、空腹を感じることはない』

 建御雷神の言葉を思い出しながら、咲耶は黒い丸薬を飲み込んだ。その瞬間、全身に神気が満ち溢れてくるのを実感した。同時に肉体の疲れさえも瞬く間に消え去った。
(さすがに高天原の神丹じゃ……。凄い効き目だわッ! 神気は使えば使うほど強くなる。それならば、意識を失うギリギリまで神気を使って、またこの神丹を飲めばよいッ!)
 無謀とも言える錬気神丹の使い方に気づくと、咲耶はすべての神気を解放して両脚に集中させた。そして、再び全力で山に向かって駆けだして行った。
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