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終章 闇の王
5.阿修羅と九尾狐
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(凄いものじゃ……。本当に、鳥になったようではないか……)
天鳥船の甲板から下界を見下ろしながら、咲耶は満足そうに腕組みをした。四半里(千メートル)上空から見る景色は、緑の木々の中を青い川が走り、遠くに霊峰富士が聳え立っていた。
(あれが話しに聞く富士山か……。見事なものじゃ!)
咲耶の父である大山祇神は、その名の通り山の神である。その血を引く咲耶も、幼い頃から山が大好きであった。故郷の日向国にはない雄大な富士の威容に、咲耶は一目で虜となった。
(あのように美しい山で暮らしてみたいものじゃ……)
咲耶が昇天した後に、霊峰富士を護る女神として富士山本宮浅間大社に祀られるのは、それから千年以上も後世のことである。当然ながら、その時の咲耶には予想さえできるはずもなかった。
(凄いと言えば、昨夜の建御雷神さまは凄かった……)
カアッと顔を赤く染めながら、咲耶は昨夜の建御雷神との愛の交歓を思い出した。夫婦となって初めての交わした契りは凄まじく、咲耶はかつてない愉悦に我を忘れるほど乱れ狂わされた。
「もう、許してぇ……!」
その言葉を告げるのが、何度目なのかすでに咲耶には分からなかった。ビクンッビックンッと全身の痙攣は止まらず、歓悦の頂点を極めたことさえ数え切れなかった。
凄絶な官能に脳髄はトロトロに蕩け、真っ赤に染まった目尻からは随喜の涙が滂沱となって流れ落ちていた。せわしなく熱い喘ぎを漏らす唇からは、ネットリとした白濁の涎が長い糸を引いて垂れ落ちていた。
「どうだ、気持ちよかろう?」
三浅一深の悪魔の律動で咲耶を責めながら、建御雷神が耳元で囁いた。その言葉にガクガクと頷きながら、咲耶は建御雷神の背中に爪を立てた。
「こんなの、初めてぇ……! 凄いッ! 気持ちいいッ! だめッ、だめぇえッ……! また、イッてしまうッ! 許してッ! イクぅうッ……!」
白い裸身を大きく仰け反らせると、激しく痙攣しながら咲耶は絶頂を極めた。プシャアッという音とともに、秘唇から大量の蜜液が迸り、虚空に弧を描いて噴出した。
「今宵は寝かさぬと告げたはずだ。大国主など忘れるほどの喜悦を与えてやろう……」
そう告げると、建御雷神は咲耶の体を横抱きにして、背後から貫いてきた。同時に左手で突き勃った媚芯を摘まみながら白い乳房を揉みしだき、右手で真っ赤に充血した真珠を探り当てるとクルンと薄皮を剥き上げた。
「ひぃいいッ……! それ、だめぇえッ! 感じすぎるッ……! あッ、あッ、いやぁあッ……!」
女の急所である真珠粒をコリコリと転がされながら蜜液を塗り込まれると、咲耶は長い黒髪を振り乱して悶え啼いた。三浅一深の動きで責められながら、最大の女の弱点を同時に責められたら堪ったものではなかった。
「お願いッ! 許してぇえッ! おかしくなるッ! 狂ってしまうッ! あッ、あッ、だめぇえッ……!」
プシャアッと激しく蜜液を噴出させると、咲耶は壮絶に絶頂を極めた。限界を超える快絶に腰骨が灼き溶け、快美の炎が背筋を舐め上げると同時に、脳髄さえもドロドロに灼き尽くされた。
「もう、許してぇえ……! 死んでしまうッ……! いやぁあッ……! また、イクッ! イッグぅうッ……!」
超絶な快感に全身を激しく震撼させながら、咲耶は続けざまに快絶の頂点を極めた。プシャアッという音とともに、秘唇から黄金の潮流が迸って寝台に淫らな染みを描いた。
「武神、建御雷神の加護を受け取るがいいッ!」
建御雷神の全身が直視できないほどの光輝に包まれた。次の瞬間、快美の火柱が弾けて、咲耶の最奥に灼熱の熱精を叩きつけた。
「ひぃいいッ……! 死ぬぅうッ……!」
壮絶に裸身を痙攣させると、咲耶はガチガチと歯を鳴らしながら究極の快絶点に達した。そして、ガクガクと総身を震撼させると、グッタリと弛緩して寝台に沈み込んだ。
(もう……だめじゃ……)
その思考を最後に、ガクリと首を折って咲耶は失神した。ピクピクと長い睫毛を震わせながら、真っ赤に染まった目尻からツゥツーッと随喜の涙が流れ落ちた。ワナワナと慄える唇からはネットリとした白濁の涎が垂れ落ち、汗に塗れた裸身はビクンッビクンッと痙攣を続けていた。
それは紛れもなく、壮絶な官能に翻弄された女の悲しい末路に他ならなかった。
(まったく……。少しは手加減して欲しいものじゃ……。加護を与えてくれるからまだよいが、そうでなければ体がもたぬわ……)
真っ赤に顔を染めながら、咲耶は激しすぎる建御雷神の愛情を思い出して苦笑いを浮かべた。愛されることは嬉しいが、愛されすぎることには文句を言いたかった。
「咲耶、ここにいたのですか?」
突然、背後から声を掛けられて、咲耶はビクンと体を震わせた。驚いて振り向くと、笑顔を浮かべた磐長の姿があった。
「どうされたのですか、姉上……?」
「貴女を捜していたのですよ。三十年ぶりに会ったというのに、貴女は建御雷神さまとべったりでろくに話もできていないので……」
ニヤッと悪戯そうな笑みを浮かべながら、磐長が告げた。
「そ、そんなこと……ありませぬ。キンキン頭のことなど、私は……」
「キンキン頭とは、面白いあだ名をつけたものですね? 建御雷神さまをそのように呼ぶ者など、あなたくらいしかおらぬでしょう……」
楽しそうに笑いながら、磐長が言った。考えてみれば、昨夜は婚礼の儀を済ませると咲耶はすぐに建御雷神と二人きりにされて、激しく愛されたのだった。磐長の言うとおり、三十年ぶりだというのに姉妹の会話はほとんど交わしていなかった。
「火照や火須勢理、火遠理の三人は元気にやっていますか? あの子たちも、もう大人になるのですよね?」
まだ小さかった火照たちを残して修行に出たため、咲耶は彼らが成長した姿を知らなかった。
「ええ……。三人とも立派になりましたよ。火照は海が好きで、毎日のように釣りをしています。逆に火遠理は山で狩りをするのが大好きなようです。次男の火須勢理はどちらかというと大人しく、家で本ばかり読んでいますね……」
「そうですか……。長い間、三人を育てて頂いて、本当にありがとうございます」
自分の息子たちの近況を教えてもらい、咲耶は懐かしそうな微笑を浮かべながら磐長に礼を述べた。
「三人は瓊瓊杵さまの……天照皇大御神さまの血を引いています。いつかきっと父上の跡を継いで、立派な神として葦原中国を支えていくでしょう」
「はい……。私も夜叉を倒したら、火照たちに会いに行こうと思っています」
神託のように告げた磐長の言葉に頷くと、咲耶が笑顔で言った。
「そのことですが……。夜叉を倒すのに、建御雷神さまのお力をお借りするわけにはいきませぬか? 高天原随一の武神であられる建御雷神さまが協力してくだされば、必ずや夜叉を倒せるのではありませんか?」
不意に表情を改めて、磐長が真っ直ぐに咲耶の黒曜石の瞳を見つめながら告げた。磐長はこのことを言いに来たのだと、彼女の真剣な眼差しを見て咲耶は気づいた。
「残念ながら、それはできません。天照さまとのお約束は、あくまで私が一人で瓊瓊杵さまの仇を討つというものです。その誓約を破る訳には参りません」
磐長が咲耶の身を案じてくれていることは、よく分かった。だが、天照との約束は、何よりも優先しなければならなかった。咲耶は磐長を安心させるように、笑顔を浮かべながら告げた。
「そうですか……。天照さまとのお約束が……」
「はい……。ご心配には及びません、姉上。建御雷神さまも、今の私は高天原で五本の指に入ると太鼓判を押してくださったではないですか?」
建御雷神の言葉を思い出しながら、咲耶が自信深げに告げた。たとえそれが偽りであったとしても、磐長を安心させるには十分であった。
「咲耶、貴女は私に送った手紙の中で、『たとえ相討ちとなったとしても、夜叉の息の根は必ず止めてまいります』と書いていましたね……」
「……! それは……」
その言葉で、磐長がわざわざ武蔵国までやって来た理由を咲耶は悟った。
(姉上は、私を止めに来たのだ……)
「貴女が厳しい修行に耐えて、どれ程強くなったのかは私には分かりません。しかし、貴女は女子です。女子が男性に勝つことが容易でないことくらいは、私にも分かります」
「姉上……」
「貴女が死ぬことは、この私が許しませんッ! 火照たちは父親の顔を知りません。だから、貴女には生きて、火照たちに母親として再会する義務があります。それを忘れてはなりませんッ!」
それは紛れもなく、不老長寿を司る女神の神託であった。磐長の全身が神々しい神気に包まれていた。
「分かりました、姉上……。お約束しますッ! 木花咲耶は、生きて再び我が子をこの手に抱くことを誓いますッ!」
長い漆黒の髪を風に靡かせながら、咲耶が黒曜石の瞳で磐長を見つめて叫んだ。だが、その誓約が果たされるまで五百年もの年月が必要になるとは、その時の咲耶には予想さえもできなかった。
『悪事千里を走る』という言葉ある。悪い行いや悪い評判は、たちまち遠くまで知れ渡ってしまうことを指す諺だ。それは高天原に住む天津神においても、人間と何ら変わりはなかった。誰が言い出したことかは分からなかったが、その噂が天上宮に広まるまでに時間はかからなかった。
『建御雷神が、瓊瓊杵尊の妻を我が物にした』
高天原の中でも天上宮に住まう神々は、最も高貴な神たちであった。天地開闢の最初に現れた造化の三神である天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱……。
その造化の三神に宇摩志阿斯訶備比古遅神と天之常立神を加えた五柱が、高天原における最高の神格を持つ別天津神と呼ばれている。
その別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としている。最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代とする。天照皇大御神の父神である伊邪那岐命や、その妻であった伊邪那美命は、この神世七代のうちの一代であった。
これらの別天津神と神世七代は、その名の通り高天原において別格の存在であった。その神格は最高神である三貴神よりも上であり、その神威を犯すことは天照皇大御神にさえできなかった。
その別天津神であり、造化の三神の一柱である神産巣日神に天照は呼び出された。もともと神産巣日神は大国主命を可愛がっており、彼がまだ大穴牟遅と名乗っていた頃に二度も生き返らせた女神であった。当然のことながら、大国主から葦原中国を取り上げた天照によい感情は持っておらず、それを実行した建御雷神を憎んでいた。
「天照、建御雷神が瓊瓊杵の妻である木花咲耶を娶ったという話は真実か?」
天照が神産巣日神の私室に入るとすぐに、厳しい声が響き渡った。
「神産巣日神さまともあろうお方が、そのような虚言を真に受けるなどあってはなりませぬ。所詮は暇を持て余した小雀どもが面白おかしく噂を流しているだけでございます」
内心の動揺を美しい貌の下に隠して、天照が神産巣日神の言葉を否定した。もしそれが事実だと認めたら、建御雷神を処分しなくてはならなくなるからだ。
「それならばよいが……。もし真実であれば、たとえ建御雷神と言えども許すわけにはいかぬぞッ! 未亡人とはいえ、瓊瓊杵の妻を己のものにするなど言語道断であるッ! このようなことを認めたら、高天原の風紀は乱れ、秩序は崩壊する。それを防ぐために、女神の再嫁を禁止したことを忘れてはならぬッ!」
「ご安心ください、神産巣日神さま。高天原が誇る最強の武神、建御雷神は女の色香に溺れるような男神ではありませぬ」
神産巣日神の言葉を笑い流しながら、天照が穏やかな微笑を浮かべて告げた。だが、その内心は怒りで燃え上がっていた。
(神産巣日神さまは、いまだに葦原中国を大国主から取り上げたことを怨んでおられる。この度の噂は、建御雷神を失脚させるよい口実だと思っておられるに違いない。こんな下らぬことで、建御雷神を失う訳にはいかぬ。この噂が事実だとしたら、未亡人であるにも拘わらず建御雷神を誘惑した木花咲耶を許しては置けぬッ!)
神産巣日神に退出の挨拶をして廊下に出ると、天照は国津神随一と言われる咲耶の美貌を脳裏に思い描いた。
(たしか今、建御雷神は木花咲耶とともに夜叉の討伐に向かっているはずじゃ。すぐに建御雷神を呼び戻して、真偽を確認せねば……。夜叉ごときの討伐は、あの娘だけで十分じゃ!)
「八咫烏、参れッ!」
人語を解する三本足の神鳥を呼び寄せると、天照は厳しい表情で命じた。
「これより建御雷神の元へ行き、すぐに伝えよ! 建御雷神は即刻、天上宮に戻るべしッ! これは、天照皇大御神の厳命であるッ!」
「カアァアッ……! 承知つかまつりましたッ!」
漆黒の嘴を開いて人語で答えると、八咫烏は大きく翼を開いて東へと飛び去っていった。蒼空に小さくなっていく八咫烏の姿を見送ると、天照は星々の輝きを映す黒瞳で武蔵国の方向を見据えた。
(建御雷神ともあろう者が、国津神の色香に惑わされおってッ……! いかに妾と言えども、造化の三神であらせられる神産巣日神さまに正面切って逆らうわけにはいかぬ。神気は妾の方が上かも知れぬが、そんなことをしたら高天原の秩序は崩壊する……)
だが、素戔嗚を追放した現在、建御雷神に並ぶ力を持った武神は誰一人としていなかった。建御雷神を処分すれば、高天原全軍を率いる者がいなくなってしまうのだ。
(夜叉ともども、木花咲耶が命を落とすことが理想的なのじゃが……。万一、夜叉に破れれば改めて討伐軍を出さねばならず、かといって勝てば木花咲耶を処分できなくなる……。夫の無念を晴らした妻を断罪などしたら、それこそ高天原の秩序が乱れる……)
眉間に深い縦皺を刻みながら、天照が美しい貌を顰めた。咲耶が夜叉に勝っても負けても、大きな問題が残るのだ。
(いっそのこと、夜叉とともに木花咲耶を亡き者にするか……? そうすれば討伐軍を派遣する必要はなくなるし、建御雷神の潔白も証明しやすくなるッ!)
天照の脳裏に、一人の男神の顔が浮かび上がった。建御雷神を除いて、夜叉と咲耶を同時に相手にして勝てる者は、その男神をおいて他にはいなかった。
(高天原を追放したとは言え、あやつなら妾の願いを聞いてくれるはずじゃ……!)
(たしか今は、阿修羅と名乗って根の堅州国にいるはずじゃ……。すぐに使いを送って、夜叉と木花咲耶の命を取るように命じるとしよう……)
高天原随一の荒ぶる神であり、三貴神の末弟である素戔嗚尊の猛々しい容貌を思い出しながら、天照は彼に命じる勅命の草案を考え始めた。
「今のセグロセキレイは、もしかしたら……?」
北東の空へ飛び立っていった神鳥の姿を見ながら、彼女は兄であり、最愛の恋人でもある男の元に向かって足を速めた。
艶やかな漆黒の髪を腰まで伸ばした絶世の美女だった。肌の色は抜けるように白く、小さめの顔には切れ長の黒眼や細く高い鼻梁、魅惑的な唇が造作よく配置されていた。薄紫色の貫頭衣を盛り上げる胸は大きく、引き締まった細腰と細く長い手脚は完璧とも言える容姿を際立たせていた。
彼女は屋敷の最も奥まった部屋の前に立つと、樫の木でできた重厚な扉を右手で二度叩いた。
「入れ……」
中から低い男の声が聞こえたことを確認すると、彼女は扉を開けて跳び込むように部屋の中へ入った。そして、星々の輝きを映す黒瞳で真っ直ぐに男を見つめながら訪ねた。
「お兄様、先ほどのセグロセキレイは高天原からの使いではありませんか?」
「気づいたか、九尾狐……。その通りだ。天照がまた無茶を言ってきた……」
彼女……九尾狐の目の前に立つ男が、苦笑いを浮かべながら答えた。その笑いにどこか楽しげな雰囲気が隠されていることに、九尾狐は気づいた。
「天照さまは何と言ってこられたのですか?」
「夜叉という妖魔と、其奴を討とうとしている娘をともに倒せと書いてある……」
セグロセキレイが届けてきた手紙を差し出しながら、男が告げた。九尾狐はその手紙を受け取ると、急いで目を通した。神々しいほど美しい筆跡で書かれた書翰だった。
『我が弟神、素戔嗚へ
そなたを高天原から追いやって、早幾年になりましょうか? 八岐大蛇を退治した武勇は、妾の耳にも入っております。さすがに高天原随一の武神であると別天津神たちも褒め称えておりました。妾としても、やはりそなたの力は高天原でこそ活かせるものだと思い直したところであります。
そこで、そなたを再び高天原に向かい入れるにあたり、別天津神らを納得させる武勲を立てて頂きたいと思います。そなたの耳にも入っているかと思いますが、異国からやって来た夜叉と申す妖魔が武蔵国で勢力を伸ばしております。
その夜叉に、我が最愛の孫である瓊瓊杵が殺されました。その無念を晴らすため、瓊瓊杵の妻である木花咲耶という国津神が夜叉に挑もうとしております。しかし、この木花咲耶という者は、高天原における最大の禁忌を犯しました。瓊瓊杵の妻であるにも拘わらず建御雷神を誘惑し、その寵を得ているのです。
木花咲耶を放置しておいては、高天原の秩序が保てません。そこで、夜叉ともども、そなたに木花咲耶を排除していただきたいと思います。見事この願いを叶えられた暁には、高天原への帰還を認めましょう。そなたの懸命なる判断を期待しております。大日霊之命』
大日霊之命というのは、天照皇大御神の別名だった。手紙を読み終えると、九尾狐は素戔嗚に返しながら彼の顔を見つめた。
荒ぶる神の名に相応しく、素戔嗚は六尺三寸(百九十センチ)を超える美丈夫だった。燃えるような紅髪を背中まで伸ばし、爛々と輝く濃茶色の瞳は凄まじいほどの神気を放っていた。天照の弟神だけあって精悍に整った容貌をしており、その体躯は武神の名に恥じないガッシリとした筋肉の鎧に覆われていた。
「どうされるのですか、兄上……?」
兄であり、恋人でもある素戔嗚を見つめながら九尾狐が訊ねた。本来、九尾狐は素戔嗚とその正妻である櫛名田比売との間に生まれた娘だった。しかし、素戔嗚は美しく成長した九尾狐を溺愛し、長じては妹として扱った。それだけでなく、実の娘である九尾狐を愛するあまり、自らの愛人とした。高天原においても、近親相姦は最大の禁忌である。天照が高天原から素戔嗚を放逐したのは、その禁忌を犯したからであった。
「俺はこの根の堅州国での暮らしが気に入っている。今更、高天原に戻る気はない」
「兄上……」
九尾狐は嬉しそうに素戔嗚の精悍な顔を見つめた。
高天原に戻れば、素戔嗚と九尾狐は別れて暮らさなければならない。今の素戔嗚の言葉は、「お前と別れる気はない」という愛の告白であった。
「それに、天照の思惑に振り回されるつもりもない。だが、夜叉と木花咲耶の闘いには興味があるな……」
夜叉という妖魔が武蔵国で暴れているという噂は、素戔嗚の耳にも入っていた。葦原中国の人々は、阿修羅、九尾狐、夜叉を三大妖魔と呼んで恐れているという。阿修羅というのは、根の堅州国で素戔嗚が名乗っている名である。
そして、夫の仇を討つために夜叉に挑もうとしている木花咲耶という女神の名は、素戔嗚も耳にしていた。
「木花咲耶は国津神随一の美貌だという噂ですわ。あのお堅い建御雷神を虜にするとはただ美しいだけでなく、房中術にも長けているのかも知れませんわね」
九尾狐の母である櫛名田比売は、その名の通り櫛の化身であり、妖魔であった。その血を引く九尾狐も当然の如く妖魔の一人であり、絶世の美貌を持つ淫魔であった。その九尾狐にとって、あの建御雷神が美しいだけの女に惑わされるとは思えなかったのだ。
「そんなことはどうでもよい。それより、単なる国津神に過ぎぬ女神が、夜叉を相手にする力を持っている方が面白い。俺も直接会ったことはないが、話を聞く限りでは夜叉の力はお前に匹敵するぞ。その二人の闘いを見るだけでも価値がある。俺がそやつらと闘うかどうかは、二人の闘いを見てから決めればよいことだ」
武神らしい決断を持って、素戔嗚が告げた。
高天原広しと言えども、天照を除けば素戔嗚に匹敵する力を持つ者は、建御雷神しかいなかった。その建御雷神が愛した女であれば、間違いなく彼の修行を受けていると素戔嗚は考えた。そうでなければ、いくら夫の仇討ちとはいえ、単なる女神に夜叉を相手取る力があるはずがなかった。
「まったく……。どうして、殿方はそんなに戦がお好きなのでしょうか? 私には理解できませぬ」
三大妖魔に数えられるほどの力を持っているにも拘わらず、九尾狐は大きなため息をついた。淫魔である九尾狐にとっては、戦闘などよりも色恋の方が遥かに大切であったのだ。
「そう言うな……。とにかく、夜叉と木花咲耶の闘いを見に行くぞ。お前も一緒に来い。根の堅州国にある<魂の道>を使えば、武蔵国へ行くのにも時間はかからぬ」
根の堅州国は、葦原中国から黄泉の国へ続く途中にある。神であれ、人であれば、死ねばすべての者が黄泉の国を訪れる。<魂の道>は、葦原中国と根の堅州国を結ぶ異次元回廊のようなものであった。時間や距離を歪めて、葦原中国の様々な場所と繋がっているのだ。
「分かりましたわ。兄上の行かれるところであれば、どこへでもお供致しますわ」
ハアッと再びため息をつきながら、九尾狐が告げた。
(まあ、噂など当てにならないものですわ。夜叉にしろ、木花咲耶にしろ、どうせ大した力など持っていないでしょう……)
艶やかな黒髪を揺らしながら、九尾狐は素戔嗚に続いて<魂の道>へと向かって行った。千二百年の後に、木花咲耶によって自分が殺生石に封印されるなど、その時の九尾狐には予想さえできなかった。
天鳥船の甲板から下界を見下ろしながら、咲耶は満足そうに腕組みをした。四半里(千メートル)上空から見る景色は、緑の木々の中を青い川が走り、遠くに霊峰富士が聳え立っていた。
(あれが話しに聞く富士山か……。見事なものじゃ!)
咲耶の父である大山祇神は、その名の通り山の神である。その血を引く咲耶も、幼い頃から山が大好きであった。故郷の日向国にはない雄大な富士の威容に、咲耶は一目で虜となった。
(あのように美しい山で暮らしてみたいものじゃ……)
咲耶が昇天した後に、霊峰富士を護る女神として富士山本宮浅間大社に祀られるのは、それから千年以上も後世のことである。当然ながら、その時の咲耶には予想さえできるはずもなかった。
(凄いと言えば、昨夜の建御雷神さまは凄かった……)
カアッと顔を赤く染めながら、咲耶は昨夜の建御雷神との愛の交歓を思い出した。夫婦となって初めての交わした契りは凄まじく、咲耶はかつてない愉悦に我を忘れるほど乱れ狂わされた。
「もう、許してぇ……!」
その言葉を告げるのが、何度目なのかすでに咲耶には分からなかった。ビクンッビックンッと全身の痙攣は止まらず、歓悦の頂点を極めたことさえ数え切れなかった。
凄絶な官能に脳髄はトロトロに蕩け、真っ赤に染まった目尻からは随喜の涙が滂沱となって流れ落ちていた。せわしなく熱い喘ぎを漏らす唇からは、ネットリとした白濁の涎が長い糸を引いて垂れ落ちていた。
「どうだ、気持ちよかろう?」
三浅一深の悪魔の律動で咲耶を責めながら、建御雷神が耳元で囁いた。その言葉にガクガクと頷きながら、咲耶は建御雷神の背中に爪を立てた。
「こんなの、初めてぇ……! 凄いッ! 気持ちいいッ! だめッ、だめぇえッ……! また、イッてしまうッ! 許してッ! イクぅうッ……!」
白い裸身を大きく仰け反らせると、激しく痙攣しながら咲耶は絶頂を極めた。プシャアッという音とともに、秘唇から大量の蜜液が迸り、虚空に弧を描いて噴出した。
「今宵は寝かさぬと告げたはずだ。大国主など忘れるほどの喜悦を与えてやろう……」
そう告げると、建御雷神は咲耶の体を横抱きにして、背後から貫いてきた。同時に左手で突き勃った媚芯を摘まみながら白い乳房を揉みしだき、右手で真っ赤に充血した真珠を探り当てるとクルンと薄皮を剥き上げた。
「ひぃいいッ……! それ、だめぇえッ! 感じすぎるッ……! あッ、あッ、いやぁあッ……!」
女の急所である真珠粒をコリコリと転がされながら蜜液を塗り込まれると、咲耶は長い黒髪を振り乱して悶え啼いた。三浅一深の動きで責められながら、最大の女の弱点を同時に責められたら堪ったものではなかった。
「お願いッ! 許してぇえッ! おかしくなるッ! 狂ってしまうッ! あッ、あッ、だめぇえッ……!」
プシャアッと激しく蜜液を噴出させると、咲耶は壮絶に絶頂を極めた。限界を超える快絶に腰骨が灼き溶け、快美の炎が背筋を舐め上げると同時に、脳髄さえもドロドロに灼き尽くされた。
「もう、許してぇえ……! 死んでしまうッ……! いやぁあッ……! また、イクッ! イッグぅうッ……!」
超絶な快感に全身を激しく震撼させながら、咲耶は続けざまに快絶の頂点を極めた。プシャアッという音とともに、秘唇から黄金の潮流が迸って寝台に淫らな染みを描いた。
「武神、建御雷神の加護を受け取るがいいッ!」
建御雷神の全身が直視できないほどの光輝に包まれた。次の瞬間、快美の火柱が弾けて、咲耶の最奥に灼熱の熱精を叩きつけた。
「ひぃいいッ……! 死ぬぅうッ……!」
壮絶に裸身を痙攣させると、咲耶はガチガチと歯を鳴らしながら究極の快絶点に達した。そして、ガクガクと総身を震撼させると、グッタリと弛緩して寝台に沈み込んだ。
(もう……だめじゃ……)
その思考を最後に、ガクリと首を折って咲耶は失神した。ピクピクと長い睫毛を震わせながら、真っ赤に染まった目尻からツゥツーッと随喜の涙が流れ落ちた。ワナワナと慄える唇からはネットリとした白濁の涎が垂れ落ち、汗に塗れた裸身はビクンッビクンッと痙攣を続けていた。
それは紛れもなく、壮絶な官能に翻弄された女の悲しい末路に他ならなかった。
(まったく……。少しは手加減して欲しいものじゃ……。加護を与えてくれるからまだよいが、そうでなければ体がもたぬわ……)
真っ赤に顔を染めながら、咲耶は激しすぎる建御雷神の愛情を思い出して苦笑いを浮かべた。愛されることは嬉しいが、愛されすぎることには文句を言いたかった。
「咲耶、ここにいたのですか?」
突然、背後から声を掛けられて、咲耶はビクンと体を震わせた。驚いて振り向くと、笑顔を浮かべた磐長の姿があった。
「どうされたのですか、姉上……?」
「貴女を捜していたのですよ。三十年ぶりに会ったというのに、貴女は建御雷神さまとべったりでろくに話もできていないので……」
ニヤッと悪戯そうな笑みを浮かべながら、磐長が告げた。
「そ、そんなこと……ありませぬ。キンキン頭のことなど、私は……」
「キンキン頭とは、面白いあだ名をつけたものですね? 建御雷神さまをそのように呼ぶ者など、あなたくらいしかおらぬでしょう……」
楽しそうに笑いながら、磐長が言った。考えてみれば、昨夜は婚礼の儀を済ませると咲耶はすぐに建御雷神と二人きりにされて、激しく愛されたのだった。磐長の言うとおり、三十年ぶりだというのに姉妹の会話はほとんど交わしていなかった。
「火照や火須勢理、火遠理の三人は元気にやっていますか? あの子たちも、もう大人になるのですよね?」
まだ小さかった火照たちを残して修行に出たため、咲耶は彼らが成長した姿を知らなかった。
「ええ……。三人とも立派になりましたよ。火照は海が好きで、毎日のように釣りをしています。逆に火遠理は山で狩りをするのが大好きなようです。次男の火須勢理はどちらかというと大人しく、家で本ばかり読んでいますね……」
「そうですか……。長い間、三人を育てて頂いて、本当にありがとうございます」
自分の息子たちの近況を教えてもらい、咲耶は懐かしそうな微笑を浮かべながら磐長に礼を述べた。
「三人は瓊瓊杵さまの……天照皇大御神さまの血を引いています。いつかきっと父上の跡を継いで、立派な神として葦原中国を支えていくでしょう」
「はい……。私も夜叉を倒したら、火照たちに会いに行こうと思っています」
神託のように告げた磐長の言葉に頷くと、咲耶が笑顔で言った。
「そのことですが……。夜叉を倒すのに、建御雷神さまのお力をお借りするわけにはいきませぬか? 高天原随一の武神であられる建御雷神さまが協力してくだされば、必ずや夜叉を倒せるのではありませんか?」
不意に表情を改めて、磐長が真っ直ぐに咲耶の黒曜石の瞳を見つめながら告げた。磐長はこのことを言いに来たのだと、彼女の真剣な眼差しを見て咲耶は気づいた。
「残念ながら、それはできません。天照さまとのお約束は、あくまで私が一人で瓊瓊杵さまの仇を討つというものです。その誓約を破る訳には参りません」
磐長が咲耶の身を案じてくれていることは、よく分かった。だが、天照との約束は、何よりも優先しなければならなかった。咲耶は磐長を安心させるように、笑顔を浮かべながら告げた。
「そうですか……。天照さまとのお約束が……」
「はい……。ご心配には及びません、姉上。建御雷神さまも、今の私は高天原で五本の指に入ると太鼓判を押してくださったではないですか?」
建御雷神の言葉を思い出しながら、咲耶が自信深げに告げた。たとえそれが偽りであったとしても、磐長を安心させるには十分であった。
「咲耶、貴女は私に送った手紙の中で、『たとえ相討ちとなったとしても、夜叉の息の根は必ず止めてまいります』と書いていましたね……」
「……! それは……」
その言葉で、磐長がわざわざ武蔵国までやって来た理由を咲耶は悟った。
(姉上は、私を止めに来たのだ……)
「貴女が厳しい修行に耐えて、どれ程強くなったのかは私には分かりません。しかし、貴女は女子です。女子が男性に勝つことが容易でないことくらいは、私にも分かります」
「姉上……」
「貴女が死ぬことは、この私が許しませんッ! 火照たちは父親の顔を知りません。だから、貴女には生きて、火照たちに母親として再会する義務があります。それを忘れてはなりませんッ!」
それは紛れもなく、不老長寿を司る女神の神託であった。磐長の全身が神々しい神気に包まれていた。
「分かりました、姉上……。お約束しますッ! 木花咲耶は、生きて再び我が子をこの手に抱くことを誓いますッ!」
長い漆黒の髪を風に靡かせながら、咲耶が黒曜石の瞳で磐長を見つめて叫んだ。だが、その誓約が果たされるまで五百年もの年月が必要になるとは、その時の咲耶には予想さえもできなかった。
『悪事千里を走る』という言葉ある。悪い行いや悪い評判は、たちまち遠くまで知れ渡ってしまうことを指す諺だ。それは高天原に住む天津神においても、人間と何ら変わりはなかった。誰が言い出したことかは分からなかったが、その噂が天上宮に広まるまでに時間はかからなかった。
『建御雷神が、瓊瓊杵尊の妻を我が物にした』
高天原の中でも天上宮に住まう神々は、最も高貴な神たちであった。天地開闢の最初に現れた造化の三神である天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱……。
その造化の三神に宇摩志阿斯訶備比古遅神と天之常立神を加えた五柱が、高天原における最高の神格を持つ別天津神と呼ばれている。
その別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としている。最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代とする。天照皇大御神の父神である伊邪那岐命や、その妻であった伊邪那美命は、この神世七代のうちの一代であった。
これらの別天津神と神世七代は、その名の通り高天原において別格の存在であった。その神格は最高神である三貴神よりも上であり、その神威を犯すことは天照皇大御神にさえできなかった。
その別天津神であり、造化の三神の一柱である神産巣日神に天照は呼び出された。もともと神産巣日神は大国主命を可愛がっており、彼がまだ大穴牟遅と名乗っていた頃に二度も生き返らせた女神であった。当然のことながら、大国主から葦原中国を取り上げた天照によい感情は持っておらず、それを実行した建御雷神を憎んでいた。
「天照、建御雷神が瓊瓊杵の妻である木花咲耶を娶ったという話は真実か?」
天照が神産巣日神の私室に入るとすぐに、厳しい声が響き渡った。
「神産巣日神さまともあろうお方が、そのような虚言を真に受けるなどあってはなりませぬ。所詮は暇を持て余した小雀どもが面白おかしく噂を流しているだけでございます」
内心の動揺を美しい貌の下に隠して、天照が神産巣日神の言葉を否定した。もしそれが事実だと認めたら、建御雷神を処分しなくてはならなくなるからだ。
「それならばよいが……。もし真実であれば、たとえ建御雷神と言えども許すわけにはいかぬぞッ! 未亡人とはいえ、瓊瓊杵の妻を己のものにするなど言語道断であるッ! このようなことを認めたら、高天原の風紀は乱れ、秩序は崩壊する。それを防ぐために、女神の再嫁を禁止したことを忘れてはならぬッ!」
「ご安心ください、神産巣日神さま。高天原が誇る最強の武神、建御雷神は女の色香に溺れるような男神ではありませぬ」
神産巣日神の言葉を笑い流しながら、天照が穏やかな微笑を浮かべて告げた。だが、その内心は怒りで燃え上がっていた。
(神産巣日神さまは、いまだに葦原中国を大国主から取り上げたことを怨んでおられる。この度の噂は、建御雷神を失脚させるよい口実だと思っておられるに違いない。こんな下らぬことで、建御雷神を失う訳にはいかぬ。この噂が事実だとしたら、未亡人であるにも拘わらず建御雷神を誘惑した木花咲耶を許しては置けぬッ!)
神産巣日神に退出の挨拶をして廊下に出ると、天照は国津神随一と言われる咲耶の美貌を脳裏に思い描いた。
(たしか今、建御雷神は木花咲耶とともに夜叉の討伐に向かっているはずじゃ。すぐに建御雷神を呼び戻して、真偽を確認せねば……。夜叉ごときの討伐は、あの娘だけで十分じゃ!)
「八咫烏、参れッ!」
人語を解する三本足の神鳥を呼び寄せると、天照は厳しい表情で命じた。
「これより建御雷神の元へ行き、すぐに伝えよ! 建御雷神は即刻、天上宮に戻るべしッ! これは、天照皇大御神の厳命であるッ!」
「カアァアッ……! 承知つかまつりましたッ!」
漆黒の嘴を開いて人語で答えると、八咫烏は大きく翼を開いて東へと飛び去っていった。蒼空に小さくなっていく八咫烏の姿を見送ると、天照は星々の輝きを映す黒瞳で武蔵国の方向を見据えた。
(建御雷神ともあろう者が、国津神の色香に惑わされおってッ……! いかに妾と言えども、造化の三神であらせられる神産巣日神さまに正面切って逆らうわけにはいかぬ。神気は妾の方が上かも知れぬが、そんなことをしたら高天原の秩序は崩壊する……)
だが、素戔嗚を追放した現在、建御雷神に並ぶ力を持った武神は誰一人としていなかった。建御雷神を処分すれば、高天原全軍を率いる者がいなくなってしまうのだ。
(夜叉ともども、木花咲耶が命を落とすことが理想的なのじゃが……。万一、夜叉に破れれば改めて討伐軍を出さねばならず、かといって勝てば木花咲耶を処分できなくなる……。夫の無念を晴らした妻を断罪などしたら、それこそ高天原の秩序が乱れる……)
眉間に深い縦皺を刻みながら、天照が美しい貌を顰めた。咲耶が夜叉に勝っても負けても、大きな問題が残るのだ。
(いっそのこと、夜叉とともに木花咲耶を亡き者にするか……? そうすれば討伐軍を派遣する必要はなくなるし、建御雷神の潔白も証明しやすくなるッ!)
天照の脳裏に、一人の男神の顔が浮かび上がった。建御雷神を除いて、夜叉と咲耶を同時に相手にして勝てる者は、その男神をおいて他にはいなかった。
(高天原を追放したとは言え、あやつなら妾の願いを聞いてくれるはずじゃ……!)
(たしか今は、阿修羅と名乗って根の堅州国にいるはずじゃ……。すぐに使いを送って、夜叉と木花咲耶の命を取るように命じるとしよう……)
高天原随一の荒ぶる神であり、三貴神の末弟である素戔嗚尊の猛々しい容貌を思い出しながら、天照は彼に命じる勅命の草案を考え始めた。
「今のセグロセキレイは、もしかしたら……?」
北東の空へ飛び立っていった神鳥の姿を見ながら、彼女は兄であり、最愛の恋人でもある男の元に向かって足を速めた。
艶やかな漆黒の髪を腰まで伸ばした絶世の美女だった。肌の色は抜けるように白く、小さめの顔には切れ長の黒眼や細く高い鼻梁、魅惑的な唇が造作よく配置されていた。薄紫色の貫頭衣を盛り上げる胸は大きく、引き締まった細腰と細く長い手脚は完璧とも言える容姿を際立たせていた。
彼女は屋敷の最も奥まった部屋の前に立つと、樫の木でできた重厚な扉を右手で二度叩いた。
「入れ……」
中から低い男の声が聞こえたことを確認すると、彼女は扉を開けて跳び込むように部屋の中へ入った。そして、星々の輝きを映す黒瞳で真っ直ぐに男を見つめながら訪ねた。
「お兄様、先ほどのセグロセキレイは高天原からの使いではありませんか?」
「気づいたか、九尾狐……。その通りだ。天照がまた無茶を言ってきた……」
彼女……九尾狐の目の前に立つ男が、苦笑いを浮かべながら答えた。その笑いにどこか楽しげな雰囲気が隠されていることに、九尾狐は気づいた。
「天照さまは何と言ってこられたのですか?」
「夜叉という妖魔と、其奴を討とうとしている娘をともに倒せと書いてある……」
セグロセキレイが届けてきた手紙を差し出しながら、男が告げた。九尾狐はその手紙を受け取ると、急いで目を通した。神々しいほど美しい筆跡で書かれた書翰だった。
『我が弟神、素戔嗚へ
そなたを高天原から追いやって、早幾年になりましょうか? 八岐大蛇を退治した武勇は、妾の耳にも入っております。さすがに高天原随一の武神であると別天津神たちも褒め称えておりました。妾としても、やはりそなたの力は高天原でこそ活かせるものだと思い直したところであります。
そこで、そなたを再び高天原に向かい入れるにあたり、別天津神らを納得させる武勲を立てて頂きたいと思います。そなたの耳にも入っているかと思いますが、異国からやって来た夜叉と申す妖魔が武蔵国で勢力を伸ばしております。
その夜叉に、我が最愛の孫である瓊瓊杵が殺されました。その無念を晴らすため、瓊瓊杵の妻である木花咲耶という国津神が夜叉に挑もうとしております。しかし、この木花咲耶という者は、高天原における最大の禁忌を犯しました。瓊瓊杵の妻であるにも拘わらず建御雷神を誘惑し、その寵を得ているのです。
木花咲耶を放置しておいては、高天原の秩序が保てません。そこで、夜叉ともども、そなたに木花咲耶を排除していただきたいと思います。見事この願いを叶えられた暁には、高天原への帰還を認めましょう。そなたの懸命なる判断を期待しております。大日霊之命』
大日霊之命というのは、天照皇大御神の別名だった。手紙を読み終えると、九尾狐は素戔嗚に返しながら彼の顔を見つめた。
荒ぶる神の名に相応しく、素戔嗚は六尺三寸(百九十センチ)を超える美丈夫だった。燃えるような紅髪を背中まで伸ばし、爛々と輝く濃茶色の瞳は凄まじいほどの神気を放っていた。天照の弟神だけあって精悍に整った容貌をしており、その体躯は武神の名に恥じないガッシリとした筋肉の鎧に覆われていた。
「どうされるのですか、兄上……?」
兄であり、恋人でもある素戔嗚を見つめながら九尾狐が訊ねた。本来、九尾狐は素戔嗚とその正妻である櫛名田比売との間に生まれた娘だった。しかし、素戔嗚は美しく成長した九尾狐を溺愛し、長じては妹として扱った。それだけでなく、実の娘である九尾狐を愛するあまり、自らの愛人とした。高天原においても、近親相姦は最大の禁忌である。天照が高天原から素戔嗚を放逐したのは、その禁忌を犯したからであった。
「俺はこの根の堅州国での暮らしが気に入っている。今更、高天原に戻る気はない」
「兄上……」
九尾狐は嬉しそうに素戔嗚の精悍な顔を見つめた。
高天原に戻れば、素戔嗚と九尾狐は別れて暮らさなければならない。今の素戔嗚の言葉は、「お前と別れる気はない」という愛の告白であった。
「それに、天照の思惑に振り回されるつもりもない。だが、夜叉と木花咲耶の闘いには興味があるな……」
夜叉という妖魔が武蔵国で暴れているという噂は、素戔嗚の耳にも入っていた。葦原中国の人々は、阿修羅、九尾狐、夜叉を三大妖魔と呼んで恐れているという。阿修羅というのは、根の堅州国で素戔嗚が名乗っている名である。
そして、夫の仇を討つために夜叉に挑もうとしている木花咲耶という女神の名は、素戔嗚も耳にしていた。
「木花咲耶は国津神随一の美貌だという噂ですわ。あのお堅い建御雷神を虜にするとはただ美しいだけでなく、房中術にも長けているのかも知れませんわね」
九尾狐の母である櫛名田比売は、その名の通り櫛の化身であり、妖魔であった。その血を引く九尾狐も当然の如く妖魔の一人であり、絶世の美貌を持つ淫魔であった。その九尾狐にとって、あの建御雷神が美しいだけの女に惑わされるとは思えなかったのだ。
「そんなことはどうでもよい。それより、単なる国津神に過ぎぬ女神が、夜叉を相手にする力を持っている方が面白い。俺も直接会ったことはないが、話を聞く限りでは夜叉の力はお前に匹敵するぞ。その二人の闘いを見るだけでも価値がある。俺がそやつらと闘うかどうかは、二人の闘いを見てから決めればよいことだ」
武神らしい決断を持って、素戔嗚が告げた。
高天原広しと言えども、天照を除けば素戔嗚に匹敵する力を持つ者は、建御雷神しかいなかった。その建御雷神が愛した女であれば、間違いなく彼の修行を受けていると素戔嗚は考えた。そうでなければ、いくら夫の仇討ちとはいえ、単なる女神に夜叉を相手取る力があるはずがなかった。
「まったく……。どうして、殿方はそんなに戦がお好きなのでしょうか? 私には理解できませぬ」
三大妖魔に数えられるほどの力を持っているにも拘わらず、九尾狐は大きなため息をついた。淫魔である九尾狐にとっては、戦闘などよりも色恋の方が遥かに大切であったのだ。
「そう言うな……。とにかく、夜叉と木花咲耶の闘いを見に行くぞ。お前も一緒に来い。根の堅州国にある<魂の道>を使えば、武蔵国へ行くのにも時間はかからぬ」
根の堅州国は、葦原中国から黄泉の国へ続く途中にある。神であれ、人であれば、死ねばすべての者が黄泉の国を訪れる。<魂の道>は、葦原中国と根の堅州国を結ぶ異次元回廊のようなものであった。時間や距離を歪めて、葦原中国の様々な場所と繋がっているのだ。
「分かりましたわ。兄上の行かれるところであれば、どこへでもお供致しますわ」
ハアッと再びため息をつきながら、九尾狐が告げた。
(まあ、噂など当てにならないものですわ。夜叉にしろ、木花咲耶にしろ、どうせ大した力など持っていないでしょう……)
艶やかな黒髪を揺らしながら、九尾狐は素戔嗚に続いて<魂の道>へと向かって行った。千二百年の後に、木花咲耶によって自分が殺生石に封印されるなど、その時の九尾狐には予想さえできなかった。
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