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幕引きは美しくあれ
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「んッ、! う、っぐ、ぁ! まっ、てくれ……!! マルバス、さ……!」
自分の情けない声が、馬鹿ほど広い、薄暗い部家の中に響いた。何度も唇に重ねられた口付けによって、息も絶え絶えになり、半ば酸欠状態で見る見知った自室の天井は、まるで生まれて初めて見た景色のようで、訳も分からずに頭が混乱する。
必死で空気を取り込もうとして、結局力が入らず、指先ががくがくと震える。少しでもこの状況から脱しようとすれば、それを見逃すまいと言わんばかりに、俺よりも一回りも大きい、がっしりとした手が、俺の手を力強く握った。思わず竦んでしまいそうなほど、鋭い、――知らない、見たことの無い大きな碧の瞳が、俺を縛りつけて離さない。掌が、火傷しそうなほど熱くてたまらない。視界の隅で、綺麗な金色の髪が揺れる。
「……それは無理な相談だ、アヤ。俺の事を止めたいなら、言葉だけじゃ、駄目だ。――どうか、俺から離れないと言って」
そう吐き捨てて、俺の事を女みたいな名前で呼んだ男――この国の第一王子、マルバスは、ぐっと挿入を深めた。彼からされる呼び方に違わぬ、女みたいな声が、他でもない自分の口から飛び出して、思わず茹で蛸のように頬が赤くなっていった。
「……ッ、あ゛、ぁ……! く、ぅッ、だめ、だ、こわれる、って……!」
「壊れてしまっても構わない。俺、治癒魔法が一番得意だから、壊しても治せるから。そうやって、ずっと一緒にいよう」
俺が何を言っても、マルバスの蕩ける程熱い言葉で言いくるめられてしまう。言葉は優しく見せかけているのに、がつがつと、行為の激しさは留まる事を知らない。
自分が知らない自分が、開拓されてしまいそうで、怖い。
……ああ、なんでこんな事になったんだっけ?
それを理解するには、何年も前の事から、俺自身に対して解説する事になるだろう。
*
綾瀬川徹(あやせがわ とおる)は俗に言う異世界転移者である。
ちょうど十年前のとある雨の日に、なんの前触れも無く、地球の一部である日本という国から、全く聞いた事の無い、異世界プランシアのメルディアナという国に転移した。
本当に何の前触れも無かった。当時の俺はまだ二十歳にもなる前で、まだ社会のしゃの字も理解していない頃だった。というかそもそも学生だった。日本の中で俺と立場を入れ替えれる人間は五万といるだろうと自分でも自覚しているくらいの、多少のオタク趣味を持った大学生。それが十年前の俺だった。トラックに轢かれた訳でも、雷に打たれた訳でも無く、何かしらの召喚に巻き込まれたとか、そういう訳でも無く。ただ大学に行こうと玄関の扉を開けて、一歩外へと踏み出して……気がついた時には、既に、メルディアナの薄暗い路地裏に転移してしまっていた。俺の背後には、見慣れた玄関の扉すら存在していなかった。
あまりの唐突さに、最初は何かバラエティのドッキリじゃないかと勘違いした。ほら、よくあるじゃないか。一般人に対して、テレビ局の財力を集結して、めちゃくちゃな規模のドッキリを仕掛けて、それを貴族の遊びよろしく芸能人のゲストがスタジオで笑うやつ。そういうものだと思っていたんだ。だから、まだ心の何処かではこの状況を楽しんでいる自分がいた。いつ種明かしされるのだろう、と。俺はテレビに出られるのか、とか。そういう事を、愚かにも期待していた。ちゃんと役者まで雇って、俺をだまそうと必死じゃないかと。その手には乗ってやる物かと、若さ故の反抗心まで抱いていた。
その俺の愚かな期待が木っ端微塵に打ち砕かれたのが、太陽(に近しいもの)が一度沈んで、また頭の頂上まで昇ってきた頃だった。
あまりにリアルすぎる町並み(のセットだと思っていた)がどこまで続いているのか気になって、町外れまで出た時だ。街の通りを歩く人々の謎めいた視線を振り切って(ここまでリアルにしなくてもいいじゃないか、と思っていた。今思えば街のど真ん中を見慣れない服装の男が歩いているのだから、当然の反応だろうと思うが)俺は大きな門を抜けて、その先の景色を見つめた。
正直な話、俺は門の先は何も無いと思っていたんだ。何処かのスタジオの中なんじゃ無いかとか、そういう事を思っていたんだ。だが、俺の予想を裏切って、目の前に広がっていたのは――
「……草原だ」
そう呟いた声は枯れていた。
どこまでも続いていた緑色が、俺の期待を木っ端微塵に打ち砕く、そんな音が聞こえた気がした。
そのまま、当てもなく、ただふらふらと歩いて、気がついた時には、俺が最初いたあの街の姿すら見えなくなっていた。
……いや、薄々気がついてはいたんだ。現実から必死に目を背けようとしていただけで。これがテレビのドッキリじゃないんだって事、分かっていた。こんなの採算に合わない。頭では理解している。ただ、直ぐに受け入れろ、なんていうのが無理なだけで。
俺がこの場所に来る前よく読んでいた異世界転生ものの小説であれば、当事者である主人公は直ぐに自らが死んで異世界転生をした事を受け入れた物だが、何処にでも居る大学生だった当時の俺がそんな状況を直ぐに受け入れられた訳がない。一瞬にして様変わりした景色に何度気絶したか分からないし、どう足掻いても家族や友人と二度と会えないのではないかという事実には絶望した。
これから自分はどうなるんだという思考で、足が竦んで動けなくなった。
俺が好んで摂取していた物語は、何の興奮も与えてくれなかった。そりゃそうだ。自分がどうしてここにいるのかすら分からないのだから。俺を導いてくれる人間は、この世界の何処にも居ない――その事実に気分が悪くなって、思い切り胃の中のものを吐き出した。昨日から何も食べてないから、出るのは胃液ぐらいだったが。
俺以外の誰かの声を、しっかりと聞く事になったのは、その直後だ。
「――そこで何をしている、少年! 逃げろ!」
蹲って、どうしようもない現実をどうにかして咀嚼しようとしては失敗するのを繰り返していた為に、視界がぬっと暗くなった事に、咄嗟に反応できなかった。耳に入った誰かの言葉ではっとして顔を上げようとした時には、時既に遅し。――俺の身体ほどはあるだろう大きな口を目一杯に広げて、俺を喰い千切ろうとする、まるでRPGにでも出てきそうな、巨大な化け物の姿があった。
(あ、俺、死んだ……)
人は、死を目の前にすると、やけに冷静になる、と学んだのはこの時だ。時がやけにゆっくりと流れるようになり、思考は妙に冴え渡る。
こんな、訳の分からない状況で 俺は死ぬのか? しかも、こんな化け物に喰われて?
そう思った瞬間、俺の脳内に溢れたのは、家族と、友人達との、なんてこと無い、くだらない日常だった。非日常に放り込まれて、死の間際に立って、ようやく思い知る、その記憶の愛おしさと尊さといったら、言葉に出来るわけが無い。どうして、こんなことになったんだ。戻りたい、帰りたい。――誰か、誰でも構わないから、俺を助けて欲しい。
怪物の喉の奥まで立ち竦んだまま見つめて、目の奥がじわりと熱くなる。死にたくない、ただそれだけが俺の脳内を支配した。だが、どうする事もできない。俺はあまりにも無力だった。
……まあ結果として、俺が死ぬ事は無かったから、こうして十年後、その当時の出来事を振り返って居るわけだけれども。
いよいよ俺を喰わんと、その怪物が一層口を大きく広げた後、俺はぎゅっと瞼を固く閉ざした。少しでもこの現実から逃れたかったからだ。だが、そいつが俺を喰う事は無かった。……正確には、俺を喰らう前に、そいつは絶命していたのだ。――心臓を、俺が見た事もない大きな剣で貫かれて。
いつまで立っても何も起こらない事を疑問に思った俺が、恐る恐る瞼を上げるのと、その巨大な怪物が大きな音を立てて地面に崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。
「……!?」
「無事か! 少年! この辺りはまだ凶暴なモンスターがいると民には伝えていたはずだが、こんな所で何をしているんだ!」
そして、目の前の光景に驚いて腰を抜かす俺を、自身の行動でもって掬い上げてくれたのが、今声を掛けてきた彼だ。
この世界に転移してからの十年、俺が頭が上がらないくらい世話になりまくっていて、そして、物語冒頭で俺を犯しに犯しまくっているマルバス王子の父である、メルディアナ国王、その人だった。
……その後、国王に命を拾われた俺は、紆余曲折を経て当時九歳だった王子の教育係――という名の、都合の良いオトモダチ、或いはお世話係に任命される事になる。その話はまた長くなるのでこの辺で。
本当に救いだったのは、この世界は日本語が通じる、という事だけだった。まるで意味も分からずに異世界へと転移した俺への神の思いやりだろうか、と、無理矢理好意的に捉える事にしている。
ではどうして俺が異世界転移してからきっかり十年後、十九歳になったマルバス王子にもう滅茶苦茶にされているのか、という、直接的な話を、これからしていこう。
*
「マルバス様、また剣の腕を褒められたんですって? 先生から聞きましたよ」
そう俺が告げたのは、精神統一の時間――という名の、王子が俺とお茶をしてサボる時間だ――の時だった。
「ああ、そうなんだ。これで一層、守る事が出来る。最近はモンスターも凶暴化していると聞くからね」
なんて、誇らしげに王子がそう告げるもんだから、俺はつい保護者の目線になって彼の姿を見てしまう。
「本当に立派になりましたねえ……俺が初めて王子を見た時は、あんなに引っ込み思案で、こんなに小さかったのに」
言いながら俺が当時の彼の身長を思い出してジェスチャーを取れば、彼は不服そうに俺の言葉を遮ってしまう。
「一体何年前の話をぶり返すんだ! 俺だってもう十九だ。……アヤの身長だって、もうとっくの昔に抜かした。小さいというなら、今じゃもうアヤの方だろう」
「ちょっと! その話はしないって、前に約束したじゃ無いですか! そりゃ、王子と比べたらどんな奴だって小さいでしょう」
「だったらアヤも、俺の小さい頃の話をするのはやめにしてほしいな。いい?」
にっこりと、誰しもを魅了するであろう笑みを満面に浮かべてそう訴えられると、俺はうっ、と押し黙ってしまう。昔から、彼のこの顔には弱かった。それこそ、初めて出会った時からそうだ。
「正直な話、アヤがいたからここまで強くなれたんだ。君がいなければ俺は……きっと、孤独で、誰とも関わろうとしなかった。アヤが、今の俺を作ったんだよ」
「……本当にそうだとしたら、教育係も冥利に尽きるもんですよ」
自分達以外誰の姿も無い穏やかな空間に、俺の声がこぼれ落ちた。
本当に、目の前のこの王子様は、本当によい子に育ってくれたのだ。十年前、初めて出会った時は、人と少し話しただけでも怯えて泣いていたような子供が、今では率先して人に声を掛け、城内で何か問題が発生した時は真っ先に解決に導こうとしている。
積極的に知識や技術を吸収しようとする態度もあり、向上心が高い。自らが次にこの国を担う王になるのだという自覚が、俺よりも十も年下だというのに、もう既に出来ている。こうして彼と話している現在の時間だって、本来は授業をする時間だというのに、彼が飛び抜けて優秀な為に、彼が合法的にサボる時間になっている。俺はこの時間をもっと別の事に当てたらいいんじゃないのか? と何度か彼に進言こそしたが、彼の強い要望によって、今でも残っている。
手の掛からない生徒になった。昔の、出会った当初の孤独であった彼を知っているからこそ、余計に愛おしさが募る。……十年も彼を見ていると、偶に自分が本当におっさん臭くなって、焦る。
「こんなに立派になったのなら、そろそろ俺も教育係もおしまいかなあ。いや、そもそも最近は俺の方が教育されてる事の方が多いんですけどね」
「……え?」
俺、この国の歴史とか全然詳しくなかったし……と言葉を続けようと口を開いて、その瞬間に止まった。俺を見つめている彼の瞳が、一瞬だけ俺の全く知らないような、あまりにも冷たい目をしているような、そんな気がしたからだ。全身に寒気が走って、俺は思わず言葉を濁す。
「ほっ、本気にしないで下さいよ。俺の在り方を決めるのは王なんですから。俺一人の感情で、どうにかなるもんじゃないですから……ね?」
「あ、ああ。そうだね。……そうだったね」
彼は紅茶(に限りなく近い味のこの国特産のお茶)の入ったティーカップに口を付ける。その姿に、ようやく俺の知る王子に戻った、と、そっと息を吐き出したものだ。
*
マルバス様は多忙だ。
昔は一日中俺にべっとりだったのに、今ではたったの一時間だけしか、俺と話す時間が無い。それに一抹の寂しさを感じてしまうのは、これも親心なのだろうか。
城に仕える使用人達から、彼の好意的な噂話を聞くだけで、まるで俺自身が褒められたかのように嬉しくなる。
本当は父である国王がその役割を担うべきなのだろうけれども、国王は王子に輪を掛けて多忙な身だ。だからこそ、俺を王子の側に置いた。マルバス王子は早くに王妃を流行り病で亡くしているという。国王は政務で手一杯。構いたくとも、時間が取れない。幼少期の王子が孤独だったのは、そこに起因している。本来ならば受け取れるはずだった愛情が、不足していたのだ。
俺を助けた国王は、俺が異世界から来たという馬鹿げた話を笑わずに聞いてくれた。そして、俺を城に置いてくれた。何処にも行き場所がなく、孤独だった俺に、居場所を与えてくれた。――そして、孤独が分かる俺が、王子の孤独を埋める事を期待したのだろう。
結果、その目論見は上手くいき(すぎたかもしれない)、王子は誰からも好かれる好青年へと成長した。
王子の精神統一の時間が終えれば、俺は自室に戻り、細々とした書類の整理を行う。それが終われば、いつだって、俺は元の世界へと帰る手掛かりを探している。――十年経っても、俺はまだ、諦めきれないのだ。
こっちの世界に、不満があるわけじゃない。むしろ考えられないほど良くして貰っている。家と、食料と、仕事と、生きがいを貰っているのだ。これ以上何を望もうか。だが、それでも、元いた場所の未練が絶ち消えない。
異世界転生した小説の主人公達は、アッサリと元いた世界への未練を断ち切って、異世界での生活を満喫していたけれども、俺にはそんな強靱なメンタルは備わっていないのだ。
今だって、両親には育ててくれたお礼を言いたいし、兄には借りたままになっていたゲームを返したい。友人達とは読んだ漫画や小説の感想を言い合いたいし、気になっていた女の子だっていた。元いた世界に完璧に戻れなくっても構わないから、俺はただ、彼らに、……俺の愛した彼らに、ただ一言お別れの言葉を言いたいだけなのだ。元いた世界の時間がどうなっているのかなんて、今の俺にはわからないけれども、もし、こっちの世界と同じ時が流れているなら、俺が忽然と姿を消してから、十年が経つ。そんなの、あまりにも彼らに申し訳なくて、今でも少し泣きそうになる。いつまで経っても、この思考に慣れない。
たとえその願いが叶わなくても、せめて、俺がこの世界にやってきた意味ぐらいは知りたい。そう思って、俺は今日も王立図書館に足を運ぶ。
……その姿を、王子がじっと見ている事に気がつかずに。
*
俺の、正確には王子の取り巻く世界が一変したのは、その翌日の事だった。
「アヤセガワ! 聞いてくれ! 王子の首に、“勇者の痣”が現れたんだ! 俺らの王子は、勇者だったんだ!」
早朝、身支度を終えて自室を出ると、いつもよりも一層騒がしい城内に、何事かと近くに居た年の近い使用人に声を掛けて発端を聞いてみれば、帰ってきたのはそんな言葉だった。
「ゆうしゃって、あの“勇者”?」
「他になにがあるっていうんだよ。勇者だよ! 勇者!」
「ゆうしゃ……」
あまりにも現実味のないその単語に、俺はただただ繰り返す事しかできなかった。
勇者というのは、この世界のシステムの一部、と言えば締まりが良いだろうか。数百年に一度、人間の負の感情が巨大化し、極めて凶悪となったモンスター……所謂魔王として此の世に顕現した際に、なにかしらの偉大な力をもってして選ばれた人間が、魔王を倒す使命を与えられる。要は、人間の尻拭いは人間でしろという事らしい。
選ばれた人間――つまり勇者として選ばれた人間には、首筋に竜のような痣が浮かび上がるという。歴代の勇者達にはそうじてその痣が現れたという。……そして、その痣が、マルバス王子にも、現れたと。
ようやく目の前の男が発した言葉が飲み込めて、俺は、暫く出した事も無い大声を上げた。
「は、はあああ!?!? お、王子が、マルバス様が勇者あ!?」
「ちょ、声がでかいって! べ、別に勇者に選ばれたっておかしな話じゃないだろ! 王子はこの国の誰よりもお強いし、お優しいし……全てが優秀だろう? 歴代の勇者も、それは人間が良く出来ていたって……本に」
「で、でも、だって……勇者って事は、魔王を倒しに行かなきゃならないって事で、それは……」
頭が混乱する。視界が揺れる。
――それってつまり、マルバス様が旅に出て、死ぬかもしれないって事じゃないか。お前は、勇者に選ばれた人間の致死率を知らないのか? 異世界から来た俺でも知識として知ってるんだぞ。今まで魔王を倒した勇者達の影に、夥しい程の勇者として選ばれた者達の死体が転がっているんだぞ? それでもお前は、マルバス様が、勇者として旅立つ事を喜ばしい事だと思うのか!
……そんな俺の言葉は、言葉になる前に俺の喉の徹らずに消えてしまう。恐らく、この世界の大半の人間は、勇者の事情を知らない。そもそもの話、数百年に一度の話だし、その事実も、ほんのごく一部の今では読む事すら禁止されている書籍の中でしか書かれていない。俺がそれを知っているのは、国王の計らいで、異世界に戻る方法を探る為に、普段は固く禁止されているそれらの本を読む機会があったからだ。――きっと、国王すら知らない。だって、知ってたら、こんな風に息子が死にに行くような真似、認めるはずがない。
この事をマルバス様に伝えないと。次に俺が思ったのはそんな事だった。笑われるかもしれないけれど、冗談だと思われるかもしれないけれど、無意味かもしれないけれども、それでも、俺は、十年も見てきた子供が、むざむざと死ににいく事を認められない。
俺は走り出した。
*
結果。俺の奔走は全て無駄に終わった。勇者として選ばれたマルバス様に、俺は一度だって、その姿を一瞬見る事すらできなかったからだ。
あれよあれよという間に彼の旅立ちの日が決まり、各国の貴族達が一度でも勇者に選ばれた彼の姿を見ようと立ち替わり入れ替わりでマルバス様に謁見を申し入れる。人の良い王子はそれに逐一応じる。
一介の異世界人で、貴族でも何でも無い俺に、そこに立ち入る暇は、一分だって残されていなかった。
彼は死への階段を、一歩ずつ着実に歩んでいっていると言っても過言では無かった。
マルバス様に勇者を押しつけて、媚びへつらおうとする他国の貴族達が、酷く腹立たしい。そう悶々と思いながら掃除を手伝っていれば、「顔が最悪だ」と、使用人の一人に頭を小突かれた。
事が起きたのは、彼の旅立ちの前日の夜の事だった。
どうせなら、明日、彼が旅立ってから、誰も見ていないところで彼を引き留めてしまおうか、そんな可能性の低い事を考えながら、自室に備え付けてある机に向かってブツブツと独り言を呟いていた時だ。控えめなノックの音が二回、自室に響く。その音に俺はすぐさま顔を上げた。何年も付き合っていれば、これがマルバス様のノック音だという事ぐらい、一瞬で理解できる。
「中に居ます。……どうぞ」
発した俺の声は震えていた。十年も彼を見ていて、今更何を、と思う。それでも、彼がどんな面持ちで、俺の部屋へと来るのかが分からなくて、俺は強く拳を握った。
ゆっくりと扉が開かれる。廊下の光が薄暗い自室に漏れて、王子の顔を浮かび上がらせる。
彼は真っ直ぐ、俺の顔を捉えていた。鋭い眼光が、俺が彼から視線を外す事を許さない。俺は息を呑み、彼が何か言葉を発するのを見守る事しか出来なかった。
「アヤ。俺は、明日、この国を発つつもりだ」
「……はい。知っています」
冷や汗が額から溢れる。彼の口調から、決して折れる事は無いのだろうと、簡単に推測出来てしまった。――俺は、かつての家族や友人達のように、大切なものを、また、失ってしまうのか。
「君が、俺を行かせまいと、使用人達に声を掛けていた事も、聞いている」
「……否定はしません」
勇者の致死率が高い、なんて事までは流石に言えなかったが、俺はこの国の将来の視点から、彼が旅に出るべきではないと周囲に漏らしていた。まだ、魔王の被害が本格的に出たわけじゃないだろう。旅の途中で、他国に立ち寄ることも多いだろう。まだ、時期尚早だ。マルバス様は、今はより多く、政治の経験をお積みになるべきだ――概ね周囲には理解されなかったが、その様な事を、俺は周囲に零していた。
俺がそう告げると同時に、彼は後手で扉を閉めた。溢れていた光が遮断され、部屋には月の光のみが差し込んだ。
「アヤ。俺と一緒に、旅に出てくれないか」
――彼がそう告げてからは、あっと言う間だった。
視界が反転し、王子を見つめていたはずの俺の視界は、一気に天井をその瞳に映す。背中には、よく知っているシーツの感触。
彼に、押し倒されたのだ、と気付くのに少しの時間を有した。
「お、うじ……一緒に旅、って」
辛うじて出した声は、上擦って、掠れていた。彼の顔が、見れない。
「君は……アヤは、どうして……」
彼らしくなく……強いて言えば、昔の彼らしく、ぼそぼそと、小さな声で彼が何かを呟く。
「王子、どうしたんですか。ひょっとして、旅に出る前に、怖くなりました……? お、もわず、俺に縋ってしまうほど。お、俺は、マルバス様には付いていけません。俺が付いていっても、足手纏いになるだけですから、ね……?」
やれ勇者だと持ち上げられる前に、彼はまだ十九歳の子供だ。いくら覚悟が決まっていようとも、恐れる事もある。俺に覆い被さる大きな身体に手を伸ばそうとして、その腕を強い力で捕まれる。
「どうして、アヤは俺から離れようとするんだ。どうして、俺は君の全てになれない」
「っ、どういう事、ですか……?」
「言葉通りの意味だ。俺は、アヤが、元いた世界に、今でも帰りたがっている事を知っている。そうだろう?」
彼の言葉に、俺は大きく瞳を見開く。その瞬間に、ようやく彼と視線が合った。
「それに、アヤの動向を探る内に、俺も禁止図書を読む機会に恵まれた――アヤが、俺が死ぬんじゃないのかと危惧している事を、俺は理解している」
「!! な、なら……どうして、死ぬと分かっていて、どうしてマルバス様は……」
「逆に訊ねようか。どうして俺が死ぬと決めつけるんだ。俺が魔王を倒す事を、どうして、俺を誰より知っている君が信じてくれない?」
酷く、悲しそうな顔をして、マルバス様がそう問い掛ける。懇願に近い言葉に、俺は言葉に詰まってしまう。
「まだ、俺達はお互いの事を何も知らない。アヤの感情は、そう言っているに等しい。俺は、アヤがこの世界の全てだ。いつか言ったように、アヤが、今の俺を作った。アヤの為にここまで強くなった。アヤを守る為に、嫌いだったこの世界の事を好きになった。アヤが、いたから。俺は、アヤの事が好きだ。愛している。永遠に俺のものになれば良いと思っている……それなのに、俺達はまだ互いの事を知れていない。アヤの中で、俺は決して強くない」
マルバス様は俺の肩に顔を埋めながらそう告げる。
「……ッ、それでも、俺は、一緒にはいけません。俺は、剣も魔法も、からっきしですし……マルバス様の足手纏いにしかなれない」
「俺が旅に出ている間に君が元の世界に帰ってしまう可能性は? ……なあ、決してゼロじゃないだろう? アヤの中で俺は全てではないから、君はそういう残酷な選択をしてしまう」
ぐっ、と俺を押す力が強くなった。もう逃れる事は出来ない。本能でそう感じ取った。好青年の皮を被った、獣の本性を、垣間見た。見てしまった。
「そこまで共に行く事を拒むというのなら、俺にだって考えがあるさ。……アヤを俺無しでは生きられない身体にする。元の世界への未練なんて絶ち切るほどだ。お前の気持ちなんて、今は考えられない。さあ、覚悟は出来ているな?」
――そうして、話は冒頭に戻る。
*
「う、ああぁっ、……! あア、ッ、んぅッ!」
視界が、チカチカと白黒に点滅する。ぐらぐらと揺さ振られて、自分が今どうなっているのかすら分からない。脳が理解を拒んでいる。
「アヤ、かわいい、アヤ……」
一心不乱に俺のナカを突き上げながら、うっとりした声で彼が囁く。その言葉に、どうにかなってしまいそうで、俺は顔を左右に振って、その感情を取っ払ってしまおうと藻掻く。
王子は用意周到だった。潤滑油もたっぷりと使って、じっくりと、俺を後戻りできないところまで追い詰めていった。
ずっと面倒を見てきた子供に犯されている事への驚きよりも、彼の気持ちに応えられない自分自身に対しての苛立ちの方が大きかったのは意外だった。それでも、俺はこの子供の気持ちに応えてやる事が出来ない。
ただでさえ致死率の高い旅だ。そんな旅に、何も出来ない俺を連れて行くと彼が言うのなら、俺は決して頷けない。
俺はもう大切な人たちを失いたくない。そして、今、誰よりも大事にしている目の前の子供が、俺のせいでその命を散らせたのだとしたら、俺はもう二度と、立ち上がれないと思う。それほどまでに、マルバスという男の存在は、俺の中で大きい。……あんまり、彼には伝わっていなかったようだけれど。
その事実が、溢れて、零れそうになって、俺は無意識のうちに大粒の涙を瞳からぼろぼろと零していた。
「う゛っ、うぅ~~ッ!!」
大の大人が、何も言えなくなる程まで十も年下の男に泣かされているなんて、恥ずかしくて情けなくて、穴があったら入りたい位だけれども、俺の中の冷静な部分が「男に犯されてる時点でもうそれ以上の事は無い」ときっぱりと言い切った。それはそれでどうなんだ。
王子は俺がきゅうに泣き出した事に対してぎょっとして、動きを止める。そしてそのまま、とても優しい手付きで、俺の情けない涙を掬い上げる。
「アヤ……? 痛かったのか? どうして泣いているんだ、アヤ」
王子は心底不安そうな顔をして、こっちの顔を覗き込むものだから、俺の涙はいよいよ止まらない。
それでも無理矢理口を開けて、自分の思いの丈を彼に伝えようと努力をしてみる。
「だ、って、俺のせいで、貴方まで失ったら……俺は、もう二度と、立ち上がれない……」
「本当は、旅にすら、出て、ほしくない。王子を、失ったら俺は……この世界の居場所がなくなる……」
「でも、マルバス様は、っ、行くんでしょう。もう、俺には止められないって、分かってます」
「だったら、少しでも、生き残る道を選んで欲しいって、思うのは……してはいけない事なんですか……?」
ぐずぐずになりながら、概ねそのような事を彼に伝えたと思う。
マルバス様は驚いたような表情を隠しもせず、ただじっと、黙ったまま俺を見つめていた。俺は何を言ったんだと、彼の息子で貫かれながら段々と冷静になり始めたのは一分後の事だ。
「……やっぱり、アヤは何にも分かっていないよ」
言葉だけ見れば酷いことを言われているとも思うのに、あまりにも優しい口調でそう彼が俺に告げるから、思わず変な声が口から漏れてしまう。
「先生に聞いてみるといい。アヤが城にいる時といない時で、どれだけ俺の成績にムラがあるか。俺とあまり関わりのない使用人達は、俺の事を完璧な青年だというが、彼らの目は誤魔化せない」
「え?」
思いがけない言葉に、思わず聞き返してしまう。
「……俺は、君がいるから、どこまでも強くなれる。さっきも言ったけど、アヤを守る為に力を磨いてきた。確かに、俺はアヤが近くにいなくても死ぬかもしれない。だがそれはきっと、魔王に近づく事すら出来ずに死ぬだろう。アヤが近くにいないと、私はデクの棒だよ。アヤが一緒にいてくれたら、例え死ぬにしても俺は、魔王と相打ちになって死ねると思うんだ」
「ッ、縁起でもない事、言わないでください……!」
「何だい? 先に俺が死ぬと決めつけて話を進めていたのはアヤの方だろう?」
「そ、そうかもしれませんけど、けど……!」
熱烈な告白だと、そう思う。
「さあ、どうするアヤ。ここまで俺の答えを聞いて、君の返答は」
「……! ちょ、動かないで……ッ! ん、ぁ!」
お前、人の答え聞く気ないだろ! と思わず口調が荒くなりそうなのを抑えて、必死に抵抗する。
「いや、だってね。この行為の目的はまずアヤを俺なしじゃ生きれない身体にする事だから。」
「だからって……!」
「それに、俺は旅をして世界中を回ることになるだろう。その中で、アヤが元いた世界に戻る方法が見つかるかもしれないだろう」
「……!」
「アヤがどうしてもというなら、俺だって折れるさ。君の願いを叶えるチャンスになるかもしれない」
彼の言葉が俺を包み込んでいく、そんな感覚に襲われる。
甘やかすような言葉と共に激しくなる突きに、俺はただ乱れるままだった。
「……明日の朝まで、俺はアヤの返答を待つよ」
それが、記憶の中ではっきりと覚えている彼の言葉だ。
だから、俺が気絶したように眠った後、彼が、
「まあ、もし仮にそんな方法が見つかったとしても、絶対に使わせないけど」
と、寝顔を見ながら笑った事を、俺は知らない。
*
俺の答え? 翌朝、目が覚めたら綺麗にまとめられていた俺の十年分の荷物が答えそのものだ。
「結局俺に選択肢なんてなかったじゃないですか!!」
歩きながら王子を詰めるようにそう告げれば、彼は可笑しそうに笑う。
「でも、俺が来てくれと頼んだ時には、アヤはもう答えを決めていたんじゃないのかい? 君の荷物がまとまっていたとしても、戻せばいいんだから。アヤは元々自分のものが極端に少ないんだから、戻すのも楽だろう」
意地悪げにそう言われたら、結局俺はぐっと押し黙ってしまう。
「……それに、アヤ。以前文献を調べていて、わかった事があるんだよ」
「? なんです」
「魔王を倒す事に成功した勇者の側には、必ず異世界人がいた……と」
「!! 本当ですか!?」
それが本当なら、俺がこの世界に来た意味は。
「……なーんて、嘘ですよ」
「んなッ!?」
「そんな理由があったら、昨日の時点で言っていたに決まってるだろう。昨晩はアヤを手放すまいと俺も必死だったんだ」
そう告げて、恥ずかしそうに、王子は笑う。
「アヤがこの世界に来た理由を、この旅の中で俺が与えてみせる。だから、……俺に付いてきて欲しい」
彼は俺に右手を差し出す。
真っ直ぐ俺の瞳を射抜く王子から、俺は目が離せない。飄々として告げたように見えて、耳の上が少し赤くなっているのを見つけた時、俺は思わず吹き出して、差し出された手を取った。
『幕引きは美しくあれ(或いは、這いずって始まる幕開け)』
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ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!一肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
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