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本編

0話:私はあなたに伝えたいことがあるから

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 夜風が窓枠とガラスの隙間から網戸へ抜けて入り込む。
 誘い込まれた部屋には、天井から吊るされた室内灯が点いていた。
 部屋はシンプルに整えられており、ベッド、勉強机、背の低いテーブルだけがある。
 ベッドの上には枕と掛け布団が置かれている。
 ベッドには乱雑な皺があり、枕には抜けた長い髪の毛がある。
 その様子は、むしろ部屋の整った美しさを際立てるだけでなく、部屋に住む可憐な女性の存在を期待させる。
 部屋の扉が開くと、スマートフォンを大事そうに持つ女性が現れる。
 名前は、鳴海緋色。大学三年生、一人暮らし。
 ピンク色の肌触りが良さそうなパジャマを着ていて、体中から湯気が広がっていた。
 お風呂上りだろう。
「今しかない、とは思うけど」
 緋色は一度スマートフォンの画面を点ける。
 画面を操作しないまま、画面の点滅を繰り返した。
 会話ツールで表示された画面には最後の会話履歴が残っていた。
 『ごめん』と『もう無理』の二つの言葉が並んでいた。
 その会話履歴の上には、『らぶらぶホイップ・リーダー』と記されている。
 らぶらぶ・ホイップ。緋色が所属していたグループで、三人組である。
 リーダーは最年長だった。
 グループ解散直後、最も落ち込んだのはリーダーで、住んでいた四階建てのマンションから飛び降りたことは、緋色自身信じたくない。
 解散は世間の声によるもので、むしろグループの仲は良かったし、解散によって仲違いを起こす様子もなかった。
 しかしリーダーの自殺未遂後は、緋色は大きなショックを受けた。
 それから、三年近くの年月連絡を取ることを躊躇っていた。
 とはいえ、今更どうメールを書けばいいのか分からないのである。
 それでもこの夜に勇気を出そうと思ったのは、緋色にとって、蝉声で不安が誤魔化せそうだったからかもしれない。
 緋色が再び画面を暗くすると、すぐに画面が明るくなる。学科も違う学年も二つ違う後輩からのメールだった。
『明日までにぜぇったい部屋を片付けます!』
 緋色はメールを読み、『よろしく』とだけ返信する。
 そして、リーダーとの会話履歴を開く。
「私はあなたに伝えたいことがあるから」
 緋色は微笑み、『観に来て欲しい』というメッセージと、一つのリンクを送信した。

―これは、元アイドルの鳴海緋色が再び歌うまでの、小さな革命の物語。―
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