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第二章
29. スタインウェイより美しい
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適度な休憩をはさみつつ、午前中いっぱいはバドミントンを楽しんだ。
足許に不安がありそうなくらら先輩と、体力面で限界のある怜先輩が『適度な』休憩をとったので、ほとんどの時間は僕と西町さんが一対一でプレーすることになった。
最初は仲睦まじくコート脇で観戦している先輩二人が気になったが、次第に西町さんとのゲームからは遊びが消えていき、最後には無言でのガチ対戦になってしまった。
お昼は浜松城公園の芝生でとった。
お街を睥睨する天守閣。
そのすぐ足下に広がるのが浜松城公園だ。
春には桜とお花見客でいっぱいになる公園も、五月のいまはポツポツと人の姿があるばかり。
くらら先輩持参のレジャーシートを広げ、コンビニ弁当でピクニック。
初夏の陽気、樹々の濃い緑、青空、くらら先輩のはしゃぐ声。
なんとものどかな日曜の昼だった。
午後は怜先輩の希望どおり図書館へ行くことになった。
浜松市立中央図書館は、浜松城のすぐそばにある。
この近辺には市役所や美術館など市の行政に関わる施設が集まっている。
駅からは少し遠いし、お街の中心からは離れているけれど,別の意味で浜松の中心地といえる場所だ。
図書館に向かう道中では、先輩同士と後輩同士に分かれてしまった。
「何でわたし、環くんと並んで歩いているんだろう」
「せっかく先輩たちとお出かけしてるのにね」
小声で愚痴を交わしながら、何とか先輩たちに話しかけようと隙をうかがう。
だが、前を行く先輩たちが珍しく真剣な声音で何か話していたので、敢えなく諦めることになった。
「環くん、こうなったら図書館では例の作戦でいきましょう」
「了解。ところで例の作戦って何?」
「先輩たちって読書の守備範囲がズレてるでしょ? 怜先輩はSFや文学。くらら先輩はファンタジーや児童書。わたしがSFのオススメを聞いて、環くんがファンタジーのオススメを訊けば、自然と二対二に分かれるという寸法ですよ」
「いい作戦だと思うけど初耳だね」
「脳内環くんと打ちあわせしただけだったかも」
「妄想に僕を登場させないでください」
どんな恥ずかしい役回りをさせられているか、わかったもんじゃない。
中央図書館は、角ばったコンクリートとガラスの直方体を組みあわせてつくられた、幾何学的な建物だ。
エントランスは二階までの吹き抜け。
薄暗い電灯の光が黒光りするリノリウムの床に反射していて、なかなか他にはない雰囲気を醸し出している。
「先輩。四人でぞろぞろ歩くのは他の利用者の方に迷惑かもしれませんね」
館内に入った直後、西町さんが早速しかけた。
ここから二対二にわかれる提案をするつもりだろう。
「西町さんの言う通りだな。僕は文芸の新刊を見てくる。くらら、二人を頼む」
怜先輩はそう言い残し、迷いのない足取りでその場を去っていった。
隣を伺うと、西町さんは小さく口を開けたまま固まっていた。
かわいそうに。
「じゃあ、二人はお姉さんと一緒に行こうか。こっちおいで」
幼子をあやすような声を僕たちにかけるくらら先輩。
彼女は、僕たちを手招きしつつ、館内奥へと歩を進めていった。
くらら先輩に連れられていった先は児童書コーナーだった。
そこで先輩は「懐かしい」とか「二人とも、これ知ってる?」とかつぶやきながら、何冊かの本を手にとった。
児童書コーナーの奥には、靴を脱いであがるカーペット敷きの一角がある。
幼児用の読書スペースだ。
僕も昔来たことがあるし、妹が幼いころ母といっしょにここで児童書を読んでいた記憶がある。
だが、高校生が来るようなスペースではない。
「あ、お姉さんだ!」
「今日は何読むの?」
と、スペース奥にいた男の子と女の子が駆け寄ってくる。
二人はまだ幼い。
多分、小学生になる前だろう。
「お、二人とも元気にしてた?」
くらら先輩はしゃがみこみ、駆け寄ってくる二人に目線を合わせた。
「今日は読み聞かせ会の日じゃないね、ごめんね」
「えー」
「何でー」
二人が口々に不満を述べる。
と、本棚の向こうからパンツスタイルの女性が早足でこちらへやってきた。
首から身分証を下げている。職員さんだろう。
「奥津さん、ごめんなさいね。もうすぐお母さんも戻ってくるから」
「まだ帰ってこないよー」
「お母さんいつも長いもん」
なかなか口の達者な子どもたちだ。
昔妹が幼かったころを思い出す。
「うーん。ここのスペース、使っちゃっていいですか?」
少し困ったように笑いながら、くらら先輩は職員さんに確かめた。
「あら、いいの? 申し訳ないわね。お友だちも一緒なのに」
「ごめんね、二人とも。ちょっと待っててね」
こちらへ振り向く先輩に、僕も西町さんも「そんな」「全然」と口々に応える。
「やった! 言ってみるもんだね」
「なるべく長いご本にしないと」
最近の幼稚園児、早熟すぎない?
うちの妹と同レベルのこまっしゃくれかたしてるんだけど。
スペース内の椅子に、先輩が腰掛ける。
子どもたちはカーペットに座り、その後ろに僕たちも腰を下ろす。
先輩が、本を開く。
天を仰ぎ、何かを迎え入れるように、手を喉元にやる。
『ねえ、おかあさん。このほしはだれがおとしたの』
『そのほしは、おかあさんがおとしたの』
『もってかえっていいの』
『それはもう、あなたのほしなのよ』」
涙が出そうになった。
その物語は、その声は、中学生のとき動画サイトで聞いたものだった。
目を閉じるとまぶたの裏に浮かんでくる。
夜道。
家々の灯かり。
漏れてくる夕餉の香り。
道端に落ちた星を拾う幼い女の子。
手をつなぎ、見守る母親。
ささやくような小声なのに、一言一句が粒のようにはっきり聞きとれる。
CD音源のように迷いも揺らぎもないのに、そこには確かに感情が乗っていて、同じ言葉でも一回目と二回目とでは響きが違う。
昔の貴族は、自分だけのためにピアニストを呼びよせて演奏させたというけれど、いま僕はそんな贅沢を味わっている。
僕はこの声が好きだ。
この声を生む、あなたの中身が大好きだ。
くらら先輩の声を聞くと、僕はいつもグランドピアノを思い出す。
ピアノは打楽器だ。
ピンと張った弦をハンマーが叩いている。
先輩の細い体を形作っている肋骨。
その曲率は黄金比。
彼女の心臓が脈打つたびにハンマーがそっと骨を叩く。
この響きを奏でだすあなたの内側は、きっとスタインウェイより美しい。
「……おしまい」
本をパタンと閉じる音。
子どもたちが手を打つ音。
二人のお母さんが、先輩にお礼をいう声。
パタパタと駆け去っていく足音。
膝に顔を埋めたまま、僕は優しさの残滓を聞いた。
洟をすすると、膝の隙間からハンカチが差し出される。
「……ごめんね」
「いいよ」
ありがたく使わせてもらう。
流石に洟はかまないけど、目許は拭う。
顔を上げると、横から西町さんが笑いかけてくる。
「気持ちは、わかるよ」
彼女も、目許は少し赤くなっていた。
足許に不安がありそうなくらら先輩と、体力面で限界のある怜先輩が『適度な』休憩をとったので、ほとんどの時間は僕と西町さんが一対一でプレーすることになった。
最初は仲睦まじくコート脇で観戦している先輩二人が気になったが、次第に西町さんとのゲームからは遊びが消えていき、最後には無言でのガチ対戦になってしまった。
お昼は浜松城公園の芝生でとった。
お街を睥睨する天守閣。
そのすぐ足下に広がるのが浜松城公園だ。
春には桜とお花見客でいっぱいになる公園も、五月のいまはポツポツと人の姿があるばかり。
くらら先輩持参のレジャーシートを広げ、コンビニ弁当でピクニック。
初夏の陽気、樹々の濃い緑、青空、くらら先輩のはしゃぐ声。
なんとものどかな日曜の昼だった。
午後は怜先輩の希望どおり図書館へ行くことになった。
浜松市立中央図書館は、浜松城のすぐそばにある。
この近辺には市役所や美術館など市の行政に関わる施設が集まっている。
駅からは少し遠いし、お街の中心からは離れているけれど,別の意味で浜松の中心地といえる場所だ。
図書館に向かう道中では、先輩同士と後輩同士に分かれてしまった。
「何でわたし、環くんと並んで歩いているんだろう」
「せっかく先輩たちとお出かけしてるのにね」
小声で愚痴を交わしながら、何とか先輩たちに話しかけようと隙をうかがう。
だが、前を行く先輩たちが珍しく真剣な声音で何か話していたので、敢えなく諦めることになった。
「環くん、こうなったら図書館では例の作戦でいきましょう」
「了解。ところで例の作戦って何?」
「先輩たちって読書の守備範囲がズレてるでしょ? 怜先輩はSFや文学。くらら先輩はファンタジーや児童書。わたしがSFのオススメを聞いて、環くんがファンタジーのオススメを訊けば、自然と二対二に分かれるという寸法ですよ」
「いい作戦だと思うけど初耳だね」
「脳内環くんと打ちあわせしただけだったかも」
「妄想に僕を登場させないでください」
どんな恥ずかしい役回りをさせられているか、わかったもんじゃない。
中央図書館は、角ばったコンクリートとガラスの直方体を組みあわせてつくられた、幾何学的な建物だ。
エントランスは二階までの吹き抜け。
薄暗い電灯の光が黒光りするリノリウムの床に反射していて、なかなか他にはない雰囲気を醸し出している。
「先輩。四人でぞろぞろ歩くのは他の利用者の方に迷惑かもしれませんね」
館内に入った直後、西町さんが早速しかけた。
ここから二対二にわかれる提案をするつもりだろう。
「西町さんの言う通りだな。僕は文芸の新刊を見てくる。くらら、二人を頼む」
怜先輩はそう言い残し、迷いのない足取りでその場を去っていった。
隣を伺うと、西町さんは小さく口を開けたまま固まっていた。
かわいそうに。
「じゃあ、二人はお姉さんと一緒に行こうか。こっちおいで」
幼子をあやすような声を僕たちにかけるくらら先輩。
彼女は、僕たちを手招きしつつ、館内奥へと歩を進めていった。
くらら先輩に連れられていった先は児童書コーナーだった。
そこで先輩は「懐かしい」とか「二人とも、これ知ってる?」とかつぶやきながら、何冊かの本を手にとった。
児童書コーナーの奥には、靴を脱いであがるカーペット敷きの一角がある。
幼児用の読書スペースだ。
僕も昔来たことがあるし、妹が幼いころ母といっしょにここで児童書を読んでいた記憶がある。
だが、高校生が来るようなスペースではない。
「あ、お姉さんだ!」
「今日は何読むの?」
と、スペース奥にいた男の子と女の子が駆け寄ってくる。
二人はまだ幼い。
多分、小学生になる前だろう。
「お、二人とも元気にしてた?」
くらら先輩はしゃがみこみ、駆け寄ってくる二人に目線を合わせた。
「今日は読み聞かせ会の日じゃないね、ごめんね」
「えー」
「何でー」
二人が口々に不満を述べる。
と、本棚の向こうからパンツスタイルの女性が早足でこちらへやってきた。
首から身分証を下げている。職員さんだろう。
「奥津さん、ごめんなさいね。もうすぐお母さんも戻ってくるから」
「まだ帰ってこないよー」
「お母さんいつも長いもん」
なかなか口の達者な子どもたちだ。
昔妹が幼かったころを思い出す。
「うーん。ここのスペース、使っちゃっていいですか?」
少し困ったように笑いながら、くらら先輩は職員さんに確かめた。
「あら、いいの? 申し訳ないわね。お友だちも一緒なのに」
「ごめんね、二人とも。ちょっと待っててね」
こちらへ振り向く先輩に、僕も西町さんも「そんな」「全然」と口々に応える。
「やった! 言ってみるもんだね」
「なるべく長いご本にしないと」
最近の幼稚園児、早熟すぎない?
うちの妹と同レベルのこまっしゃくれかたしてるんだけど。
スペース内の椅子に、先輩が腰掛ける。
子どもたちはカーペットに座り、その後ろに僕たちも腰を下ろす。
先輩が、本を開く。
天を仰ぎ、何かを迎え入れるように、手を喉元にやる。
『ねえ、おかあさん。このほしはだれがおとしたの』
『そのほしは、おかあさんがおとしたの』
『もってかえっていいの』
『それはもう、あなたのほしなのよ』」
涙が出そうになった。
その物語は、その声は、中学生のとき動画サイトで聞いたものだった。
目を閉じるとまぶたの裏に浮かんでくる。
夜道。
家々の灯かり。
漏れてくる夕餉の香り。
道端に落ちた星を拾う幼い女の子。
手をつなぎ、見守る母親。
ささやくような小声なのに、一言一句が粒のようにはっきり聞きとれる。
CD音源のように迷いも揺らぎもないのに、そこには確かに感情が乗っていて、同じ言葉でも一回目と二回目とでは響きが違う。
昔の貴族は、自分だけのためにピアニストを呼びよせて演奏させたというけれど、いま僕はそんな贅沢を味わっている。
僕はこの声が好きだ。
この声を生む、あなたの中身が大好きだ。
くらら先輩の声を聞くと、僕はいつもグランドピアノを思い出す。
ピアノは打楽器だ。
ピンと張った弦をハンマーが叩いている。
先輩の細い体を形作っている肋骨。
その曲率は黄金比。
彼女の心臓が脈打つたびにハンマーがそっと骨を叩く。
この響きを奏でだすあなたの内側は、きっとスタインウェイより美しい。
「……おしまい」
本をパタンと閉じる音。
子どもたちが手を打つ音。
二人のお母さんが、先輩にお礼をいう声。
パタパタと駆け去っていく足音。
膝に顔を埋めたまま、僕は優しさの残滓を聞いた。
洟をすすると、膝の隙間からハンカチが差し出される。
「……ごめんね」
「いいよ」
ありがたく使わせてもらう。
流石に洟はかまないけど、目許は拭う。
顔を上げると、横から西町さんが笑いかけてくる。
「気持ちは、わかるよ」
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