虹色の季節

りん

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6、親友――かけがえのない人

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―――




 研次はその病室の名札を二度確かめてからノックをした。


「はい。」

 短く発せられた声を聞いた後、ドアを開けて顔を覗かせた。


「こんにちは。早速来ましたよ。」
「あら、福島さん!来てくれたのかい?」
「約束しましたからね。」

 ベッドに起きあがろうとしたきぬを支えて手伝いながら、研次は微笑んだ。


「本当に来てくれるとは…。嬉しいねぇ~」

 本当に嬉しそうな顔でそう言われ、研次は少し照れくさくなった。顔の前で片手を左右に振りながら、傍らにあった椅子に腰かけた。


「いえいえ、本当に暇なもんで……」
「あんた、研次さん、だったかね。歳はいくつだい?」
「今年で39になります。」
「へぇ!随分若く見えるね。」
「ははは、童顔なんですよ。」
「仕事はどんな事してるんだい?サラリーマン…ではなさそうだね。」
「いや、あの……実は僕、東京から引っ越して来たんです。仕事も辞めて……。こっちではまだ就職決まってないんで、だから暇人なんです。」

 苦笑混じりにそう言うと、きぬの顔が僅かに曇った。


「そうだったのかい……いや、悪かったね。気がきかなくて無神経な事言っちまって。」
「大丈夫ですよ!気にしないで下さい。仕事は僕自信がそう決めて辞めたんですから。」

 そう、自分で辞表を出して会社を辞めたのだ…。その事自体は後悔していない。してはいないけど……


「研次さん?どうかしたかい?」

 ふと意識が遠い所へ行っていたみたいだ。慌ててきぬを見た。


「あ、すみません!…何でしたっけ?」
「研次さん、あんた…何かあったのかね、東京で…」

 研次は言葉に詰まる。何もなかった訳がない。色々あった…あの場所で……


「……都会の無情さに疲れただけですよ。だからここに来たんです。知ってる人が誰もいない場所で身も心も癒そうと思って。」
「そうか……人生色々あるからな。この街でゆっくりするがいいさ。」
「そうですね。……ところできぬさんはこの街の人ですか?」

「あぁ、そうだよ。爺さんと二人暮らしだったけど、その爺さんも倒れて隣町の病院に入院しててね。昨日はその病院に行った帰りだったんだよ。自分も入院するハメになるとはとんだ災難だったけどね。」
「電車が揺れて怪我されるなんて思わなかったですよね。」
「そうそう。でもあたしはこうしてピンピンしてる。神様はいるんだね。」
「……そうですね。」

 満面の笑顔でそう言うきぬに、研次はぎこちなく笑顔を作ってみせた……



―――




 梅雨明けの独特な蒸し暑さが体に突き刺さるような日だった。

 といっても当の透は病院の一室のベッドの上から窓の外を眺めるだけだったが。


「お兄ちゃん!おはよ~!起きてる?」

 額にうっすら汗を浮かべた春香が、慌ただしげに廊下から現れた。透は慌てて廊下の奥を窺う。


「春香……静かにしなさい。病院だぞ、ここは。」

 若干呆れた顔で嗜めると春香はベッと舌を出した。


「ごめん、ごめん。それよりほら!色々買ってきたんだ。冷蔵庫に入れるね。後で食べて。」

 春香はそう言いながらビニール袋から果物を次々と取り出して冷蔵庫に入れた。透はそれを眺めながら言った。


「あぁ、ありがとう。今食べたいな。りんご剥いてくれるか?」
「しょうがないなぁ。忙しいのに、もう…」

 ぶつくさ言いながらもりんごを一つテーブルに置くと、残りを全部冷蔵庫に入れる。そして果物ナイフを手に椅子に座った。


「あれ、お前学校は?」
「お兄ちゃん、ボケるのはまだ早いよ。今日は土曜日。」

 りんごの皮を器用に剥きながら、春香は兄を横目で睨んだ。透は頭をかきながら言い訳をする。


「いや、入院してると曜日感覚が鈍くなっちまって……」
「もう歳なんじゃない?」
「うるさいよ。まだまだ若い気でいるんだからさ……」
「ふふ。はい、出来たよ。どーぞ。」

 可愛いウサギりんごを差し出されて戸惑いながら受け取る。透は上半身を何とか起こして小皿を持った。


「いただきます。」
「どうぞ、召し上がれ。」

 ニコニコしながら春香も手を伸ばしてりんごを食べた。


「うん、美味しい。」
「それよりも何でそんな格好してるんだ?休みなんだろ?制服なんて着てるから紛らわしいんだよ。」
「午後から学校行くんだよ。クラブの先生に用事があってね。」

 りんごを食べながら片手で自分の制服のスカートの裾をヒラヒラさせた。


「そうなのか。じゃあここから直接行くのか?」
「うん。お昼ご飯を葉菜とどっかで食べた後、一緒に行く事になってんだ。」
「葉菜ちゃんかぁ~。元気にしてるか?」
「もう元気も元気。うるさいくらい。」
「ははは、そう言っちゃ悪いよ。」

 笑いながら残り一つのりんごを口に入れた時だった。


「うるさくて悪かったわね。」
「ごほっ…ごほっ…!」
「は、葉菜!び、びっくりした~…」

 春香の親友、柿崎葉菜が病室の入り口で腕組みをして立っていた。


「びっくりしたじゃないわよ、もう!透さんにあたしの悪口言ってるなんて、なんて薄情な親友かしら。ねぇ?透さん?」
「いや、ははは……」

 春香を無理矢理押しのけて椅子に座った葉菜は、ベッドの上の透に近づいてそう言った。透は思わずひきつった笑い声を出した。


「何よ、もう!人を無理矢理押しのけて…。それに何で来るのよ。」

 ぶつぶつ言いながら、春香はもう一つあった椅子を壁際から持ってきて腰かけた。


「だって透さんの様子見たくてさ。」
「あぁ、そう。」
「ありがとね、葉菜ちゃん。」
「いえいえ。私が来たかっただけですから。それよりこれ。」

 葉菜が持ってきた紙袋をテーブルの上に置いた。


「ケーキです。透さん確か甘いもの苦手だったからあまり甘くないのにしました。あ、春香。冷蔵庫に入れといて。」
「自分の方が近いじゃん。」
「入・れ・て。」

 にっこり笑っているが目が笑っていない。春香は慌てて袋からケーキの箱を出して言われた通り冷蔵庫に入れた。

 ちらっと見てしまった箱に書かれていたのは、有名店の名前だった。


(こんな高いの……よくお金あるね、高校生のくせに。)

 春香は心の中で密かに毒づきながらも、目の前で幸せそうに笑う親友と兄の姿を眺める。


「ま、いっか。」

 思わず綻んだ笑顔のまま、二人に聞こえないようにそっと呟いたのだった……


「ところでさ、葉菜。うちのお兄ちゃんの事好きでしょ。」
「ぶっ……!ゴホッ、ゴホッ……」

 突然の春香のセリフに、葉菜は飲んでいたアイスティーを噴き出した。

 二人は透の病室を出た後、病院の近くの喫茶店に入って一息ついていたのだ。


「な、何を急に……」
「当たりでしょ?」
「う、まぁ……」
「やっぱりね。そうじゃないかな~とは思ってたんだ、前から。でもさ、何でうちのお兄ちゃんなの?だってもう三十路のオジサンだよ?歳だって13も離れてるんだよ?」

 この言葉を聞いているのかいないのか、葉菜は頬杖をついてあらぬ方向を見ている。


「……って聞いてんの?全然聞いてないね……」

 心ここにあらずな葉菜の様子に、春香はついに諦めた。


 春香と葉菜は、幼稚園から一緒の腐れ縁。この春晴れて高校一年生になった。

 何をするにも一緒。憎まれ口を叩きながらも自他共に認める親友だ。


 柿崎葉菜は、小柄で童顔、可愛い顔立ちの春香と比べて、スラッと背の高い美人である。制服を着ていないと女子大生と間違われるほど大人っぽく、春香はこの生まれながらの差にため息を吐きたくなるのだ。

 家もお金持ちで何もかも正反対であるが、こうやって親友でいてくれるのはとても優しく思いやりのある性格だからだ。


 ほとんどの人は、両親の離婚から始まった一連の出来事――父の失踪、母の病死、そして兄が被害者になったあの事件を知った時、目を背けて知らんふりをした。まるで関わったら何か不吉な事が起こると怯えているかのように。

 学校の友達、保護者、教師までもが、続いた不幸に対して哀れみの視線を注いだ。

 たくさんいた仲間は歳を重ねる毎に減っていった……。

 だけどたった一人葉菜だけは、昔と同じように接してくれた。そんな葉菜を春香は大事に思っているのである。

 本人には照れくさくて言えないけれど……


「だってさ、透さんってば渋くて大人の男性って感じで素敵なんだもん。あたし年上キラーなんだ。自慢じゃないけど。それにオジサンなんて言ったら透さん怒っちゃうわよ。」

 急に喋り出した葉菜にびっくりした春香は、ストローをテーブルに落としてしまった。


「……何よ、急に。びっくりするなぁ。」
「まぁまぁ、未来のお義姉さんになる春香にね、あたしの熱い想いを……」
「アホか。」

 冷たくあしらいつつも、あんな状態になってしまった兄の事を好きになってくれた親友に心の中でお礼を言った。


「ねぇ、何か食べようか。」

 何だか照れくさくなった二人はおもむろにメニューを引っ張り出すと、顔を突き合わせてあれがいいこれにしようかなどと吟味し始めた。



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