虹色の季節

りん

文字の大きさ
上 下
11 / 26

10、誘い――忍び寄る気配

しおりを挟む
―――




 研次は職業安定所から出てきて、深いため息を吐いた。


「今日も…ダメか……」

 振り返って建物を見上げると軽く睨む。そして踵を返して歩き出した。


 しばらく歩いて、ここ最近毎日のように通っている病院の前に着いた。

 時刻は4時半。時計を見ると肩を竦め、入院病棟の入り口の方から中に入っていった。


 エレベーターで目的の階に上がり、スタッフステーションへと近づく。


「すみません。」
「はい。」
「あ……」

 声をかけるとそこに座っていた看護師が顔を上げた。前園春香だ。


「こんにちは。今日も来てくれたんですね。」

 パソコンで書類作成でもしていた春香は、顔を上げるとにこりと微笑んだ。

 研次は少々赤面しながらも軽く会釈する。


「あの、時田さんにはあの話はまだ…?」

 少し声を低くして言うと、春香も身を乗り出して小声で言った。


「それがまだ……」
「そうですか……」
「時田さんが入院してもう一週間です。いくら何でも怪しむでしょうね。」
「そうですね。頭部の方はもう大丈夫だと言われている。なのにまだ退院の話が出ない。不思議に思っても無理はないでしょうね。」

 研次の言葉に春香の表情が沈んだ。慌ててつけ加える。


「あ、でも!時田さん、案外気づいてないのかも。この際だからゆっくり休もうと思っているのかも知れないし…」
「ありがとうございます。また気を使わせちゃいましたね。」

 ちょっと微笑みながら言う。春香が笑顔を見せた事に対して研次も安心して笑った。


「じゃあ僕は時田さんに顔を出してきます。」
「あ、はい。」

 再び軽く会釈をするときぬの病室へと歩いて行く。

 そんな研次の後ろ姿を春香はじっと見つめていた。



―――

「こんにちは。」

 軽くドアをノックをした後、顔を覗かせる。きぬはベッドに起き上がって本を読んでいた。

 かけていた眼鏡を外して笑顔を見せる。


「おや、まぁ。今日は来ないかと思っとったよ。」
「すみません。昼間は職探しで歩いてたもので。」
「いや、何も謝る事はない。入っとくれ。」

 本を傍らのテーブルに置くと手招きをする。研次は入ってきて椅子に腰かけた。


「何、読んでたんですか?」
「あぁ、これかい?あの人のお気に入りの時代小説なんだけど、あたしにゃさっぱりわからんかったよ。」

 テーブルの上の本の表紙をそっと撫でる。その手つきはすごく優しかった。


「ご主人、本好きなんですか?」
「好きなんてもんじゃないよ。今風に言うとオタクっちゅうのかね。あんな感じさ。もう家中本だらけ。書斎には入りきらなくて寝室にも持ち込んで、枕元にこんなに積んで…。あたしとの間に壁でも作るのかと思ったよ。」

 冗談っぽく言っているけれど、その目は愛に溢れていた。研次が見つめているとそんなきぬの表情が柔らかくなる。

 今彼女は様々な想いを巡らせている事だろう。

 夫との何年、何十年といった、とても濃い幸福だった時の事を……


「すまんね、こんな話。あんたは独身かい?」
「えぇ、そうでなきゃこんな暮らしはしてませんよ。」
「そうかい、そうかい。」

 きぬはとても愉快そうに笑う。研次もつられて笑った。


「僕はどうも女性が苦手で…。ぐずぐずしてたらこんな歳になってしまいました。」

 おどけた調子でそう言うと、きぬも悪戯っぽい目で見てきた。


「おやおや、今時純情じゃのう。」
「勉強するしか能がなかったんで……」
「ハンサムなのに勿体無い。うちの人なんかそんなに良い男でもないのに何故か女にモテてね。随分苦労させられたよ。」
「え!そうなんですか?じゃあ浮気…とかされたんですか?」
「二回や三回じゃきかないね。」
「へぇ~。きぬさんはその時どうしたんです?やっぱり責めたりとか……」
「いやいや、特に何もせんよ。最後にあたしの所に帰ってきてくれれば、それで良かったんだ。必ず戻ってくるって信じてたしな。そのくらいじゃなきゃ、こんなに何十年も続かんよ。そうだろう?」

 きぬの視線と言葉を正面からまともに受け、研次は感動した。

 今の若い人たちにこの言葉を聞かせたいと思った。

 愛想を尽かして離れるのはいとも容易いが、浮気は浮気と広い心で許し、自分の愛した人の事をとことん信じて待つ事は中々出来る事ではない。

 それをもう若くない歳になってこんな若造相手にさらっと言えるきぬは、とても素晴らしいし格好良いな、と思った。


「すごい事ですね。」
「ん?」
「いえ、何でも。じゃあそろそろ僕帰りますね。」
「もう帰るのかい?」
「ええ。また明日来ます。貴重なお話、ありがとうございました。」

 椅子から立ち上がり、大袈裟にお辞儀して見せる。

 きぬは楽しそうに笑って手を振った。

 研次は亀の甲より年の功、そんな言葉を胸の奥深くで感じつつ、病室を後にした。



―――

 研次は病院の廊下を歩きながらふと顔を上げた。数メートル先に春香らしい後ろ姿が見える。

 確信はなかったが、見覚えのあるショートカットの髪が歩く度に揺れていた。



「あの……」

 声をかけると、振り向いた顔はやはり春香だった。


「あ、福島さん。もうお帰りですか?」
「えぇ。」
「私も患者さんの所にこれを持って行って終わりなんですよ。」

 持っていた物をちょっと上げて見せる。

 見ると、薬袋と一階の売店のビニール袋を持っていた。


「そうなんですか。お疲れ様です。」
「あの……福島さん。」
「はい?」
「この後何か用事がありますか?」
「え?この後ですか?特に何もありませんけど…」
「良かった!あの、もし良かったら夕食でも一緒にどうですか?」
「えぇっ!」

 思いもしなかった春香からのお誘いに、病院の中だというのに大声を上げた。


「あ、す、すみません。大声出しちゃって。」
「いえ、私の方こそすみません。迷惑ですよね……?」
「いや!迷惑だなんてそんな……僕でよければ。」
「じゃあ、病棟の出入り口で待ってて下さい。私すぐに行きますので!」

 満面の笑顔でそう言うと、転びそうになりながら目的の病室へと走って行った。


「あまり急ぐと転んじゃいますよ!」

 背中にそう叫んだが、もはや届いていないだろうと思われた……



―――

「お待たせしました。」

 出入り口の所のベンチに座ってボーッとしていた研次は、かけられた声にビックリして一瞬飛び上がった。


「わっ!」
「きゃっ!すみません、ビックリさせちゃって……」

 振り向くと私服姿の春香が申し訳なさそうな顔で立っていた。

 研次は慌てて立ち上がった。


「いえ、僕がボーッとしてたのが悪いんで……」

 自然に二人は歩き出していた。

 長身の研次に小柄な春香。アンバランスなようで、二人は意外に合っていた。


 ふと研次は視線を感じて振り向く。警備室にいた二人の警備員と目が合った。

 するとその二人はくすくす笑いながら内緒話を始める。研次は居たたまれなくなって視線を外した。


「どこに行きます?」

 病院を出てすぐに春香が聞いてきた。研次は困った顔で頭を掻いた。


「僕はまだこの街に来たばかりで……この辺りの事詳しくないんです。」
「じゃあ、私の知ってる所でいいですか?」
「えぇ、もちろん。」
「すっごく良いお店でね、お料理もお酒も美味しいんですよ。」
「それは楽しみですね。」
「ふふ。」

 うっすらと頬を赤く染めた春香だったが、前を向いた瞬間ハッと身を竦ませて立ち止まった。


「どうしたんですか?」

 一、二歩先に進んだ研次は振り返って聞く。

 春香は怯えたように歪ませた顔を一瞬にして笑顔に戻すと、研次の腕を引っ張った。


「こっちからの方が近道なんです。」

 早口でそう言うと、くるりと向きを変えて歩き出す。

 研次は引っ張られながら後ろを見た。

 電柱の陰から黒づくめの何者かがこちらをずっと見つめていた。



しおりを挟む

処理中です...