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塾の子
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◆◆◆◆◆
大学生の頃、個別指導の塾でバイトをしていた。
最初は時給目当てだったけど、教えること自体は嫌いじゃなかった。生徒の成績が上がればやっぱり嬉しいし、やりがいもある。
ただ、あの冬――あれを経験してから、俺はもうあの頃の自分に戻れなくなった。
事件が起きたのは、12月の初めだった。夕方の授業を終えて、職員室で休憩しているとスマホに速報が入った。
「○○市で通り魔事件、中年男性が死亡」
現場は、塾のすぐ近くだった。裏通りにある自販機のそば。生徒たちがよく帰り道に寄り道する場所。誰が見ても“人通りが少なくて危ない”ってわかるような、そんな道だ。
生徒たちは口々に「やば」「マジこわい」と騒いでた。俺もそのノリで、「夜道は気をつけろよ」なんて言ってた。
……そう。あの子にも、言った。
Kという生徒だった。
中学三年。無口。小柄で、痩せてて、顔色が悪い。反応はいつも薄くて、「ここ、わかった?」と聞いても「別に」としか返さなかった。会話が成り立たないタイプの子供。
なのに、勉強の吸収はやたら早かった。
書く字はとにかく濃くて、紙が破れそうなくらい強くペンを握ってた。
「K、もうちょっと力抜けよ」と言ったことがある。
そしたら、ペンを止めずにこう言った。
「力を抜いたら、手が止まるんで」
その瞬間、背中に薄く冷たいものが走ったのを覚えてる。けど俺は、笑ってごまかして、見なかったふりをした。教師と生徒の関係ってそういうもんだと思ってたし、何より、変なやつは他にもいたから。
一週間後、塾に警察が来た。
それが現実だったとわかるまで、何秒かかったかわからない。職員室で警察が見せてきたのは、Kの顔写真だった。
「この生徒について、知っていることを教えてください」
――Kが、犯人だった。
被害者はKの実の父親。
自宅の近くで待ち伏せして、十数カ所を刺した。
凶器はキッチンの包丁。計画性は“あるようでない”、と報道では言われていた。
ただ、ひとつだけ明確なのは、Kが“迷いなく”刺したということだった。
俺は、指導者としてKに「気をつけて帰れよ」と言った。
あの夜の、数時間前に。
それが何を意味していたのか、今もわからない。
笑顔で言ったその言葉が、背中を押したのかもしれない。
止められたのかもしれない。
そもそも、気づけたのか?
最悪なのは――事件のあとも、塾の授業は普通に続いたってことだ。
Kが座っていたあの席には、新しい生徒が座った。
机の落書きも、消された。
誰も、何も言わない。ただ、空気が変わっただけだった。
夜になると、時々思い出す。
「力を抜いたら、手が止まるんで」
――止めちゃいけなかったのは、あの時の俺の声だったんじゃないか?
そんな風に考えるのは、きっと甘いんだろうけど。
夢に出るんだよ、Kが。
教室で、赤いペンを握りしめて、笑ってる。
それが、もうペンじゃないって……なぜか、わかってるのに。
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大学生の頃、個別指導の塾でバイトをしていた。
最初は時給目当てだったけど、教えること自体は嫌いじゃなかった。生徒の成績が上がればやっぱり嬉しいし、やりがいもある。
ただ、あの冬――あれを経験してから、俺はもうあの頃の自分に戻れなくなった。
事件が起きたのは、12月の初めだった。夕方の授業を終えて、職員室で休憩しているとスマホに速報が入った。
「○○市で通り魔事件、中年男性が死亡」
現場は、塾のすぐ近くだった。裏通りにある自販機のそば。生徒たちがよく帰り道に寄り道する場所。誰が見ても“人通りが少なくて危ない”ってわかるような、そんな道だ。
生徒たちは口々に「やば」「マジこわい」と騒いでた。俺もそのノリで、「夜道は気をつけろよ」なんて言ってた。
……そう。あの子にも、言った。
Kという生徒だった。
中学三年。無口。小柄で、痩せてて、顔色が悪い。反応はいつも薄くて、「ここ、わかった?」と聞いても「別に」としか返さなかった。会話が成り立たないタイプの子供。
なのに、勉強の吸収はやたら早かった。
書く字はとにかく濃くて、紙が破れそうなくらい強くペンを握ってた。
「K、もうちょっと力抜けよ」と言ったことがある。
そしたら、ペンを止めずにこう言った。
「力を抜いたら、手が止まるんで」
その瞬間、背中に薄く冷たいものが走ったのを覚えてる。けど俺は、笑ってごまかして、見なかったふりをした。教師と生徒の関係ってそういうもんだと思ってたし、何より、変なやつは他にもいたから。
一週間後、塾に警察が来た。
それが現実だったとわかるまで、何秒かかったかわからない。職員室で警察が見せてきたのは、Kの顔写真だった。
「この生徒について、知っていることを教えてください」
――Kが、犯人だった。
被害者はKの実の父親。
自宅の近くで待ち伏せして、十数カ所を刺した。
凶器はキッチンの包丁。計画性は“あるようでない”、と報道では言われていた。
ただ、ひとつだけ明確なのは、Kが“迷いなく”刺したということだった。
俺は、指導者としてKに「気をつけて帰れよ」と言った。
あの夜の、数時間前に。
それが何を意味していたのか、今もわからない。
笑顔で言ったその言葉が、背中を押したのかもしれない。
止められたのかもしれない。
そもそも、気づけたのか?
最悪なのは――事件のあとも、塾の授業は普通に続いたってことだ。
Kが座っていたあの席には、新しい生徒が座った。
机の落書きも、消された。
誰も、何も言わない。ただ、空気が変わっただけだった。
夜になると、時々思い出す。
「力を抜いたら、手が止まるんで」
――止めちゃいけなかったのは、あの時の俺の声だったんじゃないか?
そんな風に考えるのは、きっと甘いんだろうけど。
夢に出るんだよ、Kが。
教室で、赤いペンを握りしめて、笑ってる。
それが、もうペンじゃないって……なぜか、わかってるのに。
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