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2月 給食居酒屋でノスタルジー

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 いつものようにのどごしを味わったあと、俺は少々の背徳感とともにビールのジョッキを置いた。目の前に座る鈴木さんもやや身を縮めて、同じように感じているようだった。

「別に何も悪いことをしてないのに、何か罪悪感がありますよね……」
「確かに……。けど、罪悪感を感じるっていうことは、真也もけっこう真面目だったんだ」

 白いブラウスに紺のスカート姿の店員が、料理を持ってきて机に置く。去り際、かけている黒縁眼鏡のブリッジをぐいと押し上げて言った。

「『罪悪感を感じる』という表現をされる方が多いですが、これは重言ですね。『さいなまれる』や『襲われる』という動詞をお使いになられるとよいでしょう」
「は、はい」

 鈴木さんが、緊張気味に背筋を伸ばして返事をした。

「では、ごゆっくりお楽しみください」

 笑顔で店員が去った。

「鈴木さん、叱られちゃいましたね」
「あぁ、うん。でも何かよかったなぁ……」

 身体の力を抜いてにやける鈴木さんに、俺はすかさずくぎを刺す。

「舞さんに言っていいですか?」
「それはやめて。まじで」
「冗談ですって」

 俺たちが今夜訪れたのは、給食居酒屋。
 半個室の「教室」には黒板やロッカーなどが置かれてあり、机に椅子というスタイルだ。俺にも座れそうな椅子だったので、車椅子から移乗してみた。学生時代には机に向かって勉強することが嫌で仕方がなかったが、今は健常者と同じような椅子に座るということが嬉しい俺だ。
 学校や給食をコンセプトとした居酒屋だけに、店員たちの服装もさまざまだ。さっきの真面目な教師風の店員のほか、ジャージを着用している人や調理員のかっこうをしている人など。眺めているだけで楽しくなる。
 さっき運ばれてきたのはカレーと鯨肉の竜田揚げ、それにきゅうりとわかめの酢の物。カレーは小さな鍋に入っていて、アルミ皿にご飯だけ盛られている。自分たちで配膳するらしい。
 俺はカレーをよそった。そんな俺を見ていた鈴木さんが、期待のこもったまなざしで言う。

「保健室の先生、来るかなぁ」
「白衣姿の人なんて、病院で見慣れてるでしょ……」
「いや、それとこれとは違う」
「鈴木さんも好きですよねぇ」
「男のロマンだろ」
「まぁ、確かに」

 俺も白衣など病院で見飽きるほど見ているのに、保健室の先生が見たくなった。というかとても見たい。
 カレーを一口スプーンですくって食べる。ちなみにスプーンは先が割れているものではない。辛すぎず甘すぎず、懐かしい味わい。まさしく給食のカレーだ。小学生の頃、カレーの日は朝から楽しみで、おかわりをするために急いで食べたことを思い出した。

「給食のカレーだな。美味い」
「えぇ。鈴木さんもおかわりとかしてました?」
「したした。給食大好きだったなぁ」
「どんな子どもだったんですか?」

 カレーに続いて鯨肉の竜田揚げを食べる。給食の定番だったという鯨肉だが、世代が少し違うので俺にはなじみはない。鈴木さんも知らないという。生姜がよくきいていて、言われなければマグロだと思ったかもしれない。

「俺? 優等生だったよ」
「まじですか?」

 鈴木さんは手をひらひらと振った。

「んなわけない。でも俺、こう見えてスポーツ万能だったんだ」
「そうなんですか?」

 俺は鈴木さんをまじまじと見た。細身でありながらがっしりとした体型の鈴木さんは、背も高い……はず。今となっては、どんな人も見上げるしかない俺には想像することしかできないが、鈴木さんがスポーツ万能だったと言われてもうなずける。

「何となくわかります。鈴木さん、身長もきっと高いですよね」
「うん。平均よりも高め、かな……」

 立つことのできない俺を前に気まずくなったのか、尻すぼみでそう言った鈴木さんは酢の物を食べた。

「おっ、あんまり酸っぱくない。さすが給食」

 俺も酢の物を食べる。まろやかな酢加減。脳内で記憶がはじける。

「水曜日の給食の匂いの味がする……」
「何だよ、それ。『匂いの味』って」
「小学校の頃、水曜日だけご飯の日で、箸を持って行ってたんです。給食袋に入れて。何だかその時と同じ匂いがするなって」

 鈴木さんが笑う。

「俺にはよくわからないけど……。真也は独特の感性の持ち主だな」
「それで鈴木さんは身長が高いから、バスケとかやってたんですか?」
「惜しい。バレーボール」
「バレーかぁ。俺の苦手なやつだ」

 まぁ、団体行動が苦手な俺は、バレーボールだけではなくバスケもサッカーも苦手だったが。すなわち、俺は球技全般が苦手だった。
 ふと、いたずら心が芽生える。背徳感とともにビールを味わったあと、鈴木さんに問いかけてみた。

「鈴木さん。こんな俺でも小学生の頃はスポーツやってたんですよ。何やってたか、当ててみてください」
「えー、何だろ。バレーが苦手ってことは、きっと球技全般が苦手だと思うから個人競技だな……」
「いいとこついてますね。何でしょう」
「個人競技だとすると陸上とかか。真也は上半身ががっしりしているから、槍投げか砲丸投げか……」

 腕を組んで鈴木さんはぶつぶつとひとりごとを言いながら考えている。そんなに真面目に考えなくてもいいのに、と俺は少し申し訳なくなった。だが、小学生のスポーツで槍投げや砲丸投げはないだろうと少し笑える。
 やがて、顔を上げた鈴木さんが言った。

「……意表をついて、空手とか剣道とか」
「はずれ。水泳です」
「何だ、けっこう普通じゃん」
「けど鈴木さんがけっこう真剣に考えてくれて、嬉しかったです」
「そか」

 照れ臭くなったのか、鈴木さんがメニューブックを広げる。メニューブックも凝っていて、黒い厚紙をひもで綴じた出席簿みたいなものだ。

「何か俺、罪悪感を感じ……じゃなかった。罪悪感にさいなまれるから、次もビールでいいいや。真也は?」
「俺も罪悪感に襲われるから、ビールにします」

 ビールを選択するあたり、罪悪感もへったくれもないだろうという突っ込みは飲み込んだ。呼び出しボタンを押すとジャージを着て首からホイッスルを下げた体育教師がやってきたので、ビールと料理を注文した。
 さて料理を持って来てくれるのは、どんな人だろう。

「保健室の先生が来てくれますかね」
「何だ。真也もけっこう好きじゃん」
「男の性です」

 だが、期待に反して料理を持ってきてくれたのは、ダサめのブルゾンにネクタイを締めた男性店員だった。穿いているズボンもダサいジャージ。
 店員が去ってから、俺は落胆の表情を浮かべた。

「残念でしたね……。だけど、あの人いったい何だったんだろう」
「うーん。あれは、運動会の校長先生だな」

 落胆のあまりビールを思い切りあおった俺は、思わず噴きそうになる。

「た、確かに……」

 小学生の頃、運動会で長い長いあいさつをしていた校長先生はまさにあんなかっこうだった。だが、まださっきの店員は、あの時の校長先生みたいに変な帽子をかぶっていないだけましだ。

「な?」

 まだ笑いがおさまらない俺に対して冷静な鈴木さんは、校長先生が運んできたものを手に取った。自分で具を挟むホットドッグだ。アルミ皿にはコッペパンとウィンナー、キャベツが盛りつけられていて、小袋に入ったケチャップもついている。
 ようやく笑いがおさまった俺も、鈴木さんに負けじと切れ込みの入ったコッペパンにキャベツを挟んでウィンナーをのせ、ケチャップを豪快にかけた。

「おっ、カレーだ」

 一足先にホットドッグを頬張った鈴木さんが言った。

「カレー?」

 俺も一口かぶりつく。口の中に広がるカレーの風味。これは、香織さんが好きなカレーキャベツのホットドッグだ。俺も、香織さんのために研究に研究を重ねて作ったことがあった。そんなカレーキャベツに、こんなところで再会することができるとは。
 もう一品注文していた肉じゃがも、懐かしさを呼び起こすには十分すぎるほど十分だった。牛肉ではなくて豚肉を使った肉じゃがは、じゃがいもが崩れそうになっていて、俺の嫌いなグリンピースも入っている。
 取り分ける際、自分用にグリンピースを少なめに盛ったのを、鈴木さんは見逃さなかった。

「ちょっと、真也! グリンピース少なすぎじゃね?」
「……バレました?」

 問答無用で取り分け用のスプーンが取り上げられ、俺の皿にグリンピースが追加される。

「あぁ……そのくらいでいいです……」

 俺の訴えもむなしく、俺の皿には鮮やかなグリンピースがてんこ盛りに。だが、鈴木さんも同じようにグリンピースが苦手なのだとわかって、嬉しかった。異なる背景で育った元小学生が今、同じものを食べて喜び、同じものを見て顔をしかめている。それは、どんなに心をくすぐられることだろうか。
 鈴木さんが秘密を打ち明ける少年の顔つきになって、俺にささやく。

「いいか真也、ビールで飲み込むぞ」
「はい」

「いっせーのーで」というかけ声とともに、俺たちはスプーンでグリンピースを口に含み、ビールを一気にあおった。グリンピースとともに、罪悪感や背徳感も胃に流されていく。

「鈴木さん。次は俺、梅酒いっときます」
「いいねぇ、真也」

 まだ外で飲むことが怖い俺は、焼酎や日本酒に移行できないのが悔しいところだ。だが俺は、つぶれるまで飲み、そのことこそをよしとしていたかつての自分ではない。こうやって気の合う友達と気持ちよく飲むことこそが、じつは最高なことなのだ。それがわかるから──。
 鈴木さんがメニューを開く。そして、ページをめくってデザートのところを熱心に見ている。

「あ、あった」

 嬉しそうにそうつぶやいて、鈴木さんは呼び出しボタンを押した。俺はまだ梅酒も注文していないのに、と不満を声ににじませた。さっき覚えた高揚感も、次第に萎えていく。

「まだデザートには早いんじゃ……?」
「まぁ、いいから。まだ俺も飲むし。……ってか真也、ボタン押しちゃったから、追加の料理早く決めて」

 鈴木さんに促されて、萎えた気持ちが完全には戻らないまま、条件反射のように俺はメニューをめくる。カレー、ホットドッグと炭水化物が続いていて、腹も膨れてきた。そうすると食べたいのはおかずだ。よし、決まった。
 注文を取りに来た調理員風の女性店員に、鈴木さんはデザートを注文し、俺はさっき決めたおかずを注文する。鈴木さんも次は梅酒だと言うので、梅酒もふたり分。
 デザートを注文する際に鈴木さんが口にした質問に、調理員は笑顔で答えた。

「はい、もちろんその状態でお運びします」

 調理員が去ったあと、俺は鈴木さんに問う。

「ねぇ、さっきから何なんですか?」
「まぁまぁ、待ってたらいいって」

 笑顔を浮かべつつ詳細を言おうとしない鈴木さんにやきもきするが、やがてそんなことはどうでもよくなった。俺たちの興味は保健室の先生が来るかどうかだ。

「そういえば鈴木さんって、保健室の常連だったんですか?」
「それがほとんど記憶なくて」
「あー、俺もです」

 だからふたりとも妄想に走ってしまうのか。
 姿を現した白衣の店員を見て、思わず鈴木さんと顔を見合わせる。だが、何かが違う……。目の前の店員は白衣に身を包んではいるものの、銀縁眼鏡をかけた理知的な男性だ。男性店員は机に梅酒と料理、デザートを置いて静かに去った。
 梅酒のグラスを振って氷をカラカラと鳴らしたあと、鈴木さんはくいっと飲んだ。

「白衣は白衣でも、理科の先生が来るとはな……」

 落胆しつつ、俺は料理を取り分けた。ポークチャップとカリフラワーのマリネだ。鈴木さんが注文したデザートがぽつんと机の端に残された。みかんゼリーだ。
 みかんゼリーを指さして、鈴木さんに問う。

「そういや、これ……?」
「あぁ、うん。ちょうどいい頃に、ちょうどいい感じになるから。それより俺、カリフラワー嫌いなんだけど」

 鈴木さんが皿に盛られたカリフラワーのマリネを見て顔をしかめたので、俺はにやりと笑ってみせた。

「まぁ、だまされたと思って食べてみてください」

 カリフラワーのマリネは、俺の通っていた小学校で出ていたおかずと一緒だった。マリネだと名乗りながらほんのりと香る和の味わいが、カリフラワーのあの独特な食感を忘れさせてくれる。
 恐る恐る口に入れた鈴木さんが、口許をほころばせた。

「美味いな」
「でしょ?」

 俺も嬉しくなり、カリフラワーを頬張る。あの頃の記憶をよみがえらせる優しい和風味。隠し味は昆布だしと醤油だったのだ、と今ではわかる。

「でも、真也も変わったのが好きだよなぁ」
「カレーだったんですよ、その日」

 もうすっかりと忘れたと思っていた記憶が、するするとよみがえる。ふたを開ければ何でもない記憶だ。何が何でもカレーをおかわりしたかった俺は、全てのおかずを食べ終えないとおかわりできないというルールに則って、それまで残し続けてきたカリフラワーを食べた。それが意外と美味しかったというわけだ。

「なるほどなぁ。ふとしたきっかけで好きになったりすることってあるよなぁ」

 ははは、と笑って鈴木さんがポークチャップを食べる。俺も食べた。これこれ、ケチャップが前面に主張した、この味だ。
 一口食べた鈴木さんが、ふいに真顔になって箸を置いた。

「俺、これ食って思い出したことがあるわ」

 黙り込んだ鈴木さんを前に、俺はどう返事をしていいかわからなくなった。鈴木さんが話し出すのを待つ。

「その日、ずっと好きだった子が転校したんだ。俺、その子と隣の席だったんだけど、寂しかったこともあって、朝からずっとしゃべれなくてさ」

 小学六年生の時だったという。好きな女の子にわざと嫌がらせをするような天邪鬼な時期が、男子にはある。きっと鈴木さんもそんな感じだったのだろう。

「だからその子から話しかけられても、俺はつっけんどんな返事しかできなかったんだ。そしたら、給食の時に隣からぐいっとポークチャップの皿が差し出されてな。『鈴木くん、好きでしょ』って」

 六年生だった鈴木さんは涙をこらえて……ではなく、満面の笑みを浮かべて食べたのだそうだ。それを機にその子と普段のように話せるようになり、普段通りに別れた。

「俺の唯一の甘い思い出かなぁ」

 鈴木さんはへへっと笑い、みかんゼリーを手に取る。

「真也、食べ頃になってるぞ」

 鈴木さんに促され、俺はみかんゼリーのふたのフィルムをそっとはがし、スプーンですくって一口含んだ。つるりとした食感だが、噛んでみるとシャリっとしている。次いで広がるみかんの甘味。オレンジではなくて、みかん。何だこれは。俺はこんなに美味しいゼリーを今まで食べたことがなかった。

「鈴木さん、これ……?」
「いけるだろ?」

 早めに注文してしばらく放置していたのは、冷凍状態のものを半解凍で味わうためだったのだ。なるほど、「つるり」と「シャリッ」のバランスが最高の状態で味わうことができる。俺も鈴木さんも夢中で食べ切った。

「腹いっぱいになりましたね」
「おう。帰るか」

 鈴木さんは腹をさすり、俺は車椅子に移乗する。そして俺たちは「教室」を出た。

「だけど、保健室の先生、来てくれなかったですね……」
「だな……」

 見上げた鈴木さんも、肩を落としている。やはり改めて見上げる鈴木さんは、背が高いと思われた。
「廊下」を抜けるとそこはもうレジだ。学校らしさはそこにはなく、俺たちは現実へ戻される。
 だが。
 最後の最後に俺たちは、柄にも合わずときめいた。会計をしてくれたのは白衣姿の女性店員。羽織っている白衣の胸ポケットに刺さっているのはボールペンと体温計。まごうことなき保健室の先生だ。
 保健室の先生は会計のあと、やわらかな笑顔を見せてくれた。

「お疲れの時は、またいつでも休みに来てくださいね」

 即座に「はい!」と口をそろえて叫ぶ俺と鈴木さんだった。


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