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十一月 アボカド専門店で家族計画
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暖かい店内のテーブル席に着き、俺と鈴木さんはほっと息をついた。
「いやぁ、今日は冷え込むなぁ」
「そうですね。このまま一気に寒くなっちゃうんですかね」
「やだなぁ。俺寒いの苦手だし。ってか、真也は身体壊したりしてないか?」
「えぇ。今のところ大丈夫です。俺、前よりもちょっと賢くなって、ちゃんと冷える前に対策してますから」
「そっか。偉いな」
事故のあと、約一年にも及ぶ長期入院を経て退院した当初、俺は後遺症のひとつである体温調節機能がうまく働かないということが、理解できていなかった。それに下半身の感覚がないので、冷やしているという実感もない。だから風邪をこじらせて肺炎を起こしてしまい、入院することもたびたびだった。
そんな俺が気をつけるようになったのは、もちろん香織さんに心配をかけたくないという気持ちもあったが、じつはほかでもない鈴木さんのおかげだ。鈴木さんと毎月飲みに行くようになってから、俺はいっそう身体の調子を整えることに真剣になった。鈴木さんと美味しい酒と料理を楽しみ、ちょっとおバカで意外と真面目な会話をすることは、いつしか俺にとってかけがえのないものになっていたからだ。だが、こんなこと、鈴木さんに言ったら調子に乗るだろうな。そう思った俺は黙っておくことにした。
店員がおしぼりとお通しを持ってきた。いつものようにビールと数種類の料理を注文する。
温かいおしぼりで顔を拭きかけた鈴木さんを、俺は慌ててたしなめた。
「鈴木さん! それはさすがに……」
「しまった。つい……」
鈴木さんが腕を下ろして周りを見た。
「よかった、ひんしゅくを買ってないみたいだ」
俺も周りのテーブル席を見回した。女性だけのグループが大半を占め、残りはカップル。野郎ふたりで来ているのは俺たちだけだった。
「まぁ、俺たちなんてそんなに目立たないですよ」
車椅子生活になった当初は、やたらと他人からの視線が気になっていた俺だ。そんな俺が「目立たない」などと心から思えるようになるなんて。俺は自分で言った言葉に少し驚く。
お通しはアボカドの刺身。そして注文した料理全てにアボカドが使われている。俺たちが今夜訪れたのは、アボカド料理専門店だ。
「写真とか撮らなくていいの?」
「俺、カメラ持つと鈴木さんをほったらかしにするから、ここぞといった時にしか撮りません」
俺がそう宣言すると、鈴木さんが笑った。
「食べた味を頭で記憶するってわけか。さすがだな」
先に届いていたビールで乾杯してから、刺身を食べる。まだ少し若いアボカドのスライスにかかっているのは塩とごま油。
俺は今回、香織さんから与えられたミッションを背負ってここに来た。それは美味しいアボカド料理を覚えて帰り、家で再現するというものだ。だからスマホのカメラで撮影しながら食べるのもありかもしれないが、俺はあくまで鈴木さんとの時間を楽しむためにここにいる。
「鈴木さんこそ、カロリー高すぎって舞さんに怒られません?」
「いや、確かにカロリーも高いけど、それ以上に栄養素が豊富だからしっかり食べてこいって」
料理が運ばれる。アボカドと茹で玉子のサラダ、アボカドとたこのキムチ和え、アボカドと豆腐の韓国風サラダ、アボカドとマグロのユッケ風。全体的に黄緑色の画だ。
鈴木さんに断ってから、卵黄がトッピングされたユッケ風を混ぜて一口食べた。ねっとりとした卵黄がアボカドとマグロに絡まって美味しい。鈴木さんは茹で玉子のサラダを食べている。
「そうだ、鈴木さん。俺たち、この前ごろ寝してきましたよ」
「増井先生と一緒に行ったのか?」
「はい」
先月鈴木さんと一緒に行った、鈴木さんの幼馴染の実家である居酒屋。車椅子の俺にも座ることのできた座敷に感激して、行儀が悪いと知りながらごろ寝までさせてもらった。
「香織さんと並んでごろ寝して、『幸せだね』ってふたりで。もちろん料理も絶品尽くしでした」
「そりゃよかった。不便な場所だから俺も最初は迷ったけど、連れてってよかった」
「お気に入りの店がまたひとつ、増えました。それに、いい記念になったし」
俺はビールをあおる。そして韓国風サラダを食べた。淡泊な豆腐と濃厚なアボカドとの対比がいい。
「記念? 結婚記念日とか?」
「つき合った記念日です」
「へぇ~。けっこうそういうの、大事にしてるんだな。俺たち、つき合った日までは覚えてないや」
鈴木さんは、キムチがアボカドと合うといって気に入ったようだ。さっきから箸が止まらない。
「ずっと入院してて、ようやくつき合えることになったから、俺たちにとっては結婚記念日よりも大切にしている日なんです」
「あぁ、なるほど。それは大事にしないとな」
俺は横から奪うようにしてキムチ和えをつまむ。たこの歯ごたえとアボカドの食感が楽しい。もちろんキムチともよく合う。鈴木さんが切なそうな目で俺に訴えかけてきたので、箸を引っ込めた。
「つき合ってから結婚までは短かったの?」
「いいや、二年かかりました。だから、出会ってから三年ですね」
「出会ってから三年か。けっこう慎重だったんだな」
今度は茹で玉子のサラダを食べた。黒こしょうがいいアクセントになっている。
「ほら、俺がこんなだし、それに子どもを望むとなるとハードルが高すぎるし……」
「確かになぁ……。子どものことは、俺たちもいろいろあるからな」
前に子どもの話題を出した時に、鈴木さんがそれ以上話すのを拒絶しているように感じたことを思い出した。
「ちょっと暗い話になるけどいいか?」
俺の目をまっすぐに見つめてそう言った鈴木さんに、俺も覚悟を決めた。
「はい。俺でよかったら聞きます」
ふっと表情をやわらげて、鈴木さんが言った。
「まぁ、その前に追加の料理を注文しようか」
脱力しつつふたりでメニューをのぞき込んで、料理を決めていく。ワカモレ、アボカドソースのパスタ、アボカドとエビの和風アヒージョ。アルコールは、今回もビール。
残った料理をさらえながら、鈴木さんが話し出すのを待つ。
「舞がさ、子どもができてもちゃんと愛せるのかわからないって言うし、俺もひとりっ子で自分の子どもって言われてもピンとこなくてな。それに俺の身体のこともあるし。そんなわけで俺たちふたりとも、子どもを持つことに消極的だったんだ」
「俺んちも、どっちかといえばそんな感じかな……」
「それでもやっぱり自分たちの子どもなら愛せるに違いないって、それなりに励んではいたわけ」
少し恥ずかしそうに鈴木さんが言った。きっと鈴木さんはとても優しく舞さんを愛するのだろう。
料理が届いて、いったん会話は中断だ。俺はパスタを取り分けた。つぶしたアボカドがソースになっていて、海苔の佃煮がトッピングされている。それが意外とアボカドとの相性がいい。
「で、授かったんだ」
だが、鈴木さんに子どもはいない。ということは……。
「場所が悪かったんだな」
「場所……?」
子宮外妊娠だったという。着床したのが卵管だったため、舞さんは片方の卵管を摘出せざるを得なかった。
「ごめんな、こんな生々しい話」
「いえ。大丈夫です」
俺はビールを飲み、トルティーヤチップスをワカモレにつけて食べた。鈴木さんはアヒージョを食べて、小さく首をかしげた。
「それからしばらく俺たち夫婦の暗黒時代でさ」
寂しそうに鈴木さんが笑う。
よかれと思って舞さんにかけた言葉が逆効果だったり、かといって何も言わないでいると今度はそのことを責められたり。俺も入院していた時は似たようなことがあったから、舞さんの気持ちもわからなくはないが、やはり男なので鈴木さんに同情してしまう。
「うわぁ。それはきついわ……。だけど、今は……?」
「うん。まさに雨降って地固まるって感じ。俺も舞も、お互いが健康で過ごすことが一番望ましいことだってわかったから」
しみじみとそう言って鈴木さんはパスタを食べた。
「海苔の佃煮、合うな」
「えぇ。これは再現レシピ決定ですね」
俺はアヒージョをつまむ。アボカドとエビのほかにはれんこんが使われている。オリーブオイルが使われていると思って口にしたら……。
「これ、ごま油だ」
「ごま油だったのか! どうりでさっき、何か違うなと思ったんだ……」
さっきの鈴木さんの話を脳内で反芻した。
「ねぇ、鈴木さん。俺ちょっと思ったんですけど、全ての出来事ってタイミングと縁かなって」
「どういうこと?」
「俺、交通事故に遭ってこんなふうになっちゃって、それこそ死にたいくらいつらかったんです。けど、そのおかげかそのせいかはまだよくわからないけど、香織さんと出会えたし、鈴木さんとも出会えました。それに、事故に遭っていなくて事務所でカメラマンを続けていたとしても、俺はきっと中身のない写真ばかり無駄に撮っていた……。けど今は、本当に大切なことに気づけました。撮りたい写真だって、やっと輪郭が見えてきました。事故に遭ったのは本当に嫌だったし、正直今でもこの身体が大嫌いですけど、だけど、事故に遭うっていう運命から逃れられないとしたら、一番いいタイミングで事故って、それで香織さんや鈴木さんとの縁に気づけたんじゃないかって最近思うんです」
そこでいったん言葉を区切って、ビールを飲む。そして俺はジョッキを置いて、鈴木さんの目をまっすぐに見つめた。
「だから、鈴木さんも子どもを授かりたいってずっと思い続けていたら、きっと一番いいタイミングと一番いい縁で、授かるんだと思います」
「なるほどなぁ。真也の言うことだから、やたら説得力あるわ」
鈴木さんもビールを飲み、遠くを見つめるような目をして言った。
「また来てくれるかな」
「はい、きっと。って、勝手なこと言えませんけど」
「そりゃそうだ」
ふたりではははっと笑った。鈴木さんの笑顔は寂しかったが、とても優しかった。きっと俺もそんな顔で笑っていたのだろう。
「追加、頼むか」
「そうですね」
またメニューをのぞき込み、俺たちはアボカドの豚肉巻き、アボカドとサーモンの生春巻きを選んだ。
アルコールのページを見ていた鈴木さんが、あるカクテルを指さして言った。
「真也、これどうかな?」
鈴木さんが指さすところを見ると、アボカドジュースを使ったカクテルと書いてあった。
「いってみましょう」
俺は呼び出しボタンを押した。
「何か、いろいろ重い話をして、悪かったな」
「いえ。俺だってこれまで鈴木さんにいっぱい話を聞いてもらったし」
「ならいいんだけど。いやさ、俺も真也と出会ってよかったよ」
気恥しくなり、俺は頭をかいた。
「ってか、鈴木さんも友達には心のうちを話すことができなかった、とか?」
「うん、じつはな。病気になったのも高校生の頃だったし、今の会社で働き出してからも、なまじ普通の人と同じ生活ができていただけにな」
「けど、やっぱり病気の前とは違いますもんね。周りの人がそれほどでなくても、自分で壁を作ってしまう」
「そうそう、それ! やっぱり真也はわかってくれる」
先にカクテルが来た。アボカドジュースを使ったカクテルは、白みがかった緑色をしていて、とても美しい。
カクテルを前にして、鈴木さんが声を弾ませた。
「これ、前に舞が作ってくれたスムージーみたいな色だ」
「あぁ、アボカドが栄養あるからっていっときはまっていたってやつ?」
「そうそう」
カチン、とグラスを重ねてから味わった。アボカドのさわやかな香りにラム酒の甘味。さらにほかに何か入っているようだったが、俺にはわからなかった。
「何か懐かしい味がする。舞が作ってくれたスムージーに似てる」
「アボカドとラム酒ですよね。あとほかにも何か入っていると思うけど……」
ちょうど料理を持ってきた店員に教えてもらった。
「バナナジュースも入ってるんです。割合は、企業秘密ですけどね」
店員がテーブルに料理を置いて去ると、鈴木さんが嬉しそうに言った。
「バナナかぁ。確かに、舞もバナナとか入れてたわ」
「今度は鈴木さんが舞さんに作ってあげたらどうですか?」
生春巻きをひとつ手に取って、添えられていたわさびマヨソースにつけて食べた鈴木さんが意外そうな顔をする。
「俺が、か……?」
「はい。小さく切ったアボカドとバナナと牛乳なんかをミキサーに入れて、ガーッと回せばいいんです。……きっと」
俺も生春巻きを口に入れた。わさびマヨソースがいい仕事をしている。
「それなら俺にもできるかも」
「舞さん、惚れ直しますよ」
続いて豚肉巻きも頬張った。こちらは照り焼きソースがこってりしていて美味しい。男の俺には、やっぱり肉の方がいい。それは鈴木さんにとっても同じだったようで、最後は取り合う形となった。
俺は最後のひとつを鈴木さんに譲って、生春巻きを箸でつまんだ。豚肉巻きは、家で再現してみようと思った。肉が好きな香織さんもきっと喜ぶはずだ。
無言で豚肉巻きを食べている鈴木さんの様子に、俺は何かまずいことを言ったかと直近の会話を思い出そうとする。あ、最後のひとことがまずかったか。「惚れ直す」なんて、ラブラブな夫婦に言う言葉ではなかった。
「すみません、舞さんは鈴木さんにずっと惚れてるんでしたね」
ハッと我に返ったように、鈴木さんが俺の顔を見た。
「あぁ、ごめん。いや、俺もここんとこちょっと倦怠期っていうの? 何かなおざりになっていたから、いろいろ考えてしまった」
「そうなんですか?」
「まぁ、結婚してだいぶ経つからな。仲はいいんだけど、ちょっとマンネリになっていたっていうか……」
ごにょごにょと口ごもる鈴木さんにピンときた。鈴木さんは夫婦の営みについて言っているのだ。
「それはまぁ、夫婦それぞれのことだから……。いつもよりも丁寧にするとか……」
「だよな。やっぱ、丁寧に、だな。うん」
「今夜帰ったらさっそく?」
自分で言った言葉に、使いものにならない下半身が反応した気がして、俺はそっと手で触れてみる。だが奇跡が起こるはずもなく、俺自身はふにゃりと縮んだままだ。
そんな俺の葛藤を知る由もなく、鈴木さんは相変わらず恥ずかしそうだ。
「そうだな、久しぶりに……」
「いいじゃないですか。ってか締めの飯、何にします?」
すっかり食べ尽くしてきれいになった食器を見て、俺はメニューを手に取った。濃厚なアボカド料理が続いて腹具合も限界が近い。だがここまで食べたなら、最後までアボカド料理を極めたい。
「そうだな。俺、あっさりしたのがいいわ。腹いっぱいだし」
「お茶漬けありますよ」
「まじか。それにする」
俺はアボカドと鮭、鈴木さんはアボカドとマグロのお茶漬けに決めた。アルコールは梅酒。
注文を済ませて、空いた食器やグラスが下げられてきれいになったテーブルで、鈴木さんと向き直る。直前の会話がそれなりの内容だったために、俺も鈴木さんも少しだけ恥ずかしい。鈴木さんはマンネリだとか久しぶりだとか言っていたが、香織さんを満足に抱けない俺は、それさえもうらやましかった。俺は何となくおしぼりでテーブルを拭きながら、そんなことを考えていた。
我慢していたつもりだったが、ついにぽろりと本音がもれてしまった。
「けど、いいなぁ。俺、どうやったって無理だから」
「あ……。そっか……。腰から下の感覚がないって、つまり、そういうことか……」
とたんに申し訳なさそうな表情になる鈴木さん。
「大丈夫です。その、いわゆる本番行為はできないけど、俺たちなりの愛し方って一応あるんですよ。それに、俺たちだって子どもがほしいって思ったら、方法もあるし」
「そうなのか?」
「医師の香織さんが言うのだから、確実です」
その方法は生々しかったのでさすがに口に出すことはなかったし、鈴木さんもそれ以上聞きたがる様子はなかったので言わなかった。
現実問題として、身体の不自由な俺に満足な子育てができるとは思えないし、香織さんは香織さんで仕事が大事だから、子どもは持たないつもりだ。だが、どうしてもという時に頼ることのできる方法があるというだけで、気分的に楽になるのも確かなことだ。
お茶漬けと梅酒が運ばれてきた。
「おぉ。美味そう」
俺の鮭茶漬けは焼いて粗くほぐした鮭とアボカド、鈴木さんのマグロ茶漬けは角切りにしたマグロとアボカドだった。どちらも刻み海苔とやっこねぎ、いりごまがトッピングされていて、急須に入った熱々のほうじ茶と一緒に提供された。
ほうじ茶を注いで、さらさらとかき込む。香ばしい鮭の風味と香ばしいほうじ茶の風味の中で主張を忘れないアボカドがいい。鈴木さんも美味しそうにかき込んでいる。濃厚なアボカド料理を散々食べたにもかかわらず、お茶漬けは瞬く間に胃におさまった。
「何だかんだ言って、鈴木さん全部食べたじゃないですか」
「真也だって」
梅酒のグラスをちびちび傾ける。
「で、アボカド料理の参考になったか?」
「はい。明日さっそく作ってみようかな」
「そりゃよかった。でも、増井先生も幸せだよな。再現料理をささっと作ってくれる料理上手の旦那がいてさ」
頭に手をやって答える。
「いやぁ。俺の料理なんて、適当ですよ」
俺はふとあることを思いついた。
「鈴木さん。もしよかったら、来月は俺んちで忘年会しません? 俺、ちょっと頑張ってみます」
「えっ? まじで?」
久しぶりに写真以外のことで気分が盛り上がるのを自覚した。
「はい。香織さんもいる時に、舞さんも呼んで。うちでぱあっと」
鈴木さんの表情も少年のように輝く。
「いいじゃん、いいじゃん。舞もきっと喜ぶ」
「香織さんだって。いつもふたりで飲みにきてるから『ずるい』って」
とんとん拍子に話が進んだ。新しい仕事が決まる時のような緊張をはらんだわくわく感が俺を包んだ。この緊張感がやはり俺は好きだ。
忘年会、何を作ろう。早くも料理のことで頭がいっぱいになる俺だった。
「いやぁ、今日は冷え込むなぁ」
「そうですね。このまま一気に寒くなっちゃうんですかね」
「やだなぁ。俺寒いの苦手だし。ってか、真也は身体壊したりしてないか?」
「えぇ。今のところ大丈夫です。俺、前よりもちょっと賢くなって、ちゃんと冷える前に対策してますから」
「そっか。偉いな」
事故のあと、約一年にも及ぶ長期入院を経て退院した当初、俺は後遺症のひとつである体温調節機能がうまく働かないということが、理解できていなかった。それに下半身の感覚がないので、冷やしているという実感もない。だから風邪をこじらせて肺炎を起こしてしまい、入院することもたびたびだった。
そんな俺が気をつけるようになったのは、もちろん香織さんに心配をかけたくないという気持ちもあったが、じつはほかでもない鈴木さんのおかげだ。鈴木さんと毎月飲みに行くようになってから、俺はいっそう身体の調子を整えることに真剣になった。鈴木さんと美味しい酒と料理を楽しみ、ちょっとおバカで意外と真面目な会話をすることは、いつしか俺にとってかけがえのないものになっていたからだ。だが、こんなこと、鈴木さんに言ったら調子に乗るだろうな。そう思った俺は黙っておくことにした。
店員がおしぼりとお通しを持ってきた。いつものようにビールと数種類の料理を注文する。
温かいおしぼりで顔を拭きかけた鈴木さんを、俺は慌ててたしなめた。
「鈴木さん! それはさすがに……」
「しまった。つい……」
鈴木さんが腕を下ろして周りを見た。
「よかった、ひんしゅくを買ってないみたいだ」
俺も周りのテーブル席を見回した。女性だけのグループが大半を占め、残りはカップル。野郎ふたりで来ているのは俺たちだけだった。
「まぁ、俺たちなんてそんなに目立たないですよ」
車椅子生活になった当初は、やたらと他人からの視線が気になっていた俺だ。そんな俺が「目立たない」などと心から思えるようになるなんて。俺は自分で言った言葉に少し驚く。
お通しはアボカドの刺身。そして注文した料理全てにアボカドが使われている。俺たちが今夜訪れたのは、アボカド料理専門店だ。
「写真とか撮らなくていいの?」
「俺、カメラ持つと鈴木さんをほったらかしにするから、ここぞといった時にしか撮りません」
俺がそう宣言すると、鈴木さんが笑った。
「食べた味を頭で記憶するってわけか。さすがだな」
先に届いていたビールで乾杯してから、刺身を食べる。まだ少し若いアボカドのスライスにかかっているのは塩とごま油。
俺は今回、香織さんから与えられたミッションを背負ってここに来た。それは美味しいアボカド料理を覚えて帰り、家で再現するというものだ。だからスマホのカメラで撮影しながら食べるのもありかもしれないが、俺はあくまで鈴木さんとの時間を楽しむためにここにいる。
「鈴木さんこそ、カロリー高すぎって舞さんに怒られません?」
「いや、確かにカロリーも高いけど、それ以上に栄養素が豊富だからしっかり食べてこいって」
料理が運ばれる。アボカドと茹で玉子のサラダ、アボカドとたこのキムチ和え、アボカドと豆腐の韓国風サラダ、アボカドとマグロのユッケ風。全体的に黄緑色の画だ。
鈴木さんに断ってから、卵黄がトッピングされたユッケ風を混ぜて一口食べた。ねっとりとした卵黄がアボカドとマグロに絡まって美味しい。鈴木さんは茹で玉子のサラダを食べている。
「そうだ、鈴木さん。俺たち、この前ごろ寝してきましたよ」
「増井先生と一緒に行ったのか?」
「はい」
先月鈴木さんと一緒に行った、鈴木さんの幼馴染の実家である居酒屋。車椅子の俺にも座ることのできた座敷に感激して、行儀が悪いと知りながらごろ寝までさせてもらった。
「香織さんと並んでごろ寝して、『幸せだね』ってふたりで。もちろん料理も絶品尽くしでした」
「そりゃよかった。不便な場所だから俺も最初は迷ったけど、連れてってよかった」
「お気に入りの店がまたひとつ、増えました。それに、いい記念になったし」
俺はビールをあおる。そして韓国風サラダを食べた。淡泊な豆腐と濃厚なアボカドとの対比がいい。
「記念? 結婚記念日とか?」
「つき合った記念日です」
「へぇ~。けっこうそういうの、大事にしてるんだな。俺たち、つき合った日までは覚えてないや」
鈴木さんは、キムチがアボカドと合うといって気に入ったようだ。さっきから箸が止まらない。
「ずっと入院してて、ようやくつき合えることになったから、俺たちにとっては結婚記念日よりも大切にしている日なんです」
「あぁ、なるほど。それは大事にしないとな」
俺は横から奪うようにしてキムチ和えをつまむ。たこの歯ごたえとアボカドの食感が楽しい。もちろんキムチともよく合う。鈴木さんが切なそうな目で俺に訴えかけてきたので、箸を引っ込めた。
「つき合ってから結婚までは短かったの?」
「いいや、二年かかりました。だから、出会ってから三年ですね」
「出会ってから三年か。けっこう慎重だったんだな」
今度は茹で玉子のサラダを食べた。黒こしょうがいいアクセントになっている。
「ほら、俺がこんなだし、それに子どもを望むとなるとハードルが高すぎるし……」
「確かになぁ……。子どものことは、俺たちもいろいろあるからな」
前に子どもの話題を出した時に、鈴木さんがそれ以上話すのを拒絶しているように感じたことを思い出した。
「ちょっと暗い話になるけどいいか?」
俺の目をまっすぐに見つめてそう言った鈴木さんに、俺も覚悟を決めた。
「はい。俺でよかったら聞きます」
ふっと表情をやわらげて、鈴木さんが言った。
「まぁ、その前に追加の料理を注文しようか」
脱力しつつふたりでメニューをのぞき込んで、料理を決めていく。ワカモレ、アボカドソースのパスタ、アボカドとエビの和風アヒージョ。アルコールは、今回もビール。
残った料理をさらえながら、鈴木さんが話し出すのを待つ。
「舞がさ、子どもができてもちゃんと愛せるのかわからないって言うし、俺もひとりっ子で自分の子どもって言われてもピンとこなくてな。それに俺の身体のこともあるし。そんなわけで俺たちふたりとも、子どもを持つことに消極的だったんだ」
「俺んちも、どっちかといえばそんな感じかな……」
「それでもやっぱり自分たちの子どもなら愛せるに違いないって、それなりに励んではいたわけ」
少し恥ずかしそうに鈴木さんが言った。きっと鈴木さんはとても優しく舞さんを愛するのだろう。
料理が届いて、いったん会話は中断だ。俺はパスタを取り分けた。つぶしたアボカドがソースになっていて、海苔の佃煮がトッピングされている。それが意外とアボカドとの相性がいい。
「で、授かったんだ」
だが、鈴木さんに子どもはいない。ということは……。
「場所が悪かったんだな」
「場所……?」
子宮外妊娠だったという。着床したのが卵管だったため、舞さんは片方の卵管を摘出せざるを得なかった。
「ごめんな、こんな生々しい話」
「いえ。大丈夫です」
俺はビールを飲み、トルティーヤチップスをワカモレにつけて食べた。鈴木さんはアヒージョを食べて、小さく首をかしげた。
「それからしばらく俺たち夫婦の暗黒時代でさ」
寂しそうに鈴木さんが笑う。
よかれと思って舞さんにかけた言葉が逆効果だったり、かといって何も言わないでいると今度はそのことを責められたり。俺も入院していた時は似たようなことがあったから、舞さんの気持ちもわからなくはないが、やはり男なので鈴木さんに同情してしまう。
「うわぁ。それはきついわ……。だけど、今は……?」
「うん。まさに雨降って地固まるって感じ。俺も舞も、お互いが健康で過ごすことが一番望ましいことだってわかったから」
しみじみとそう言って鈴木さんはパスタを食べた。
「海苔の佃煮、合うな」
「えぇ。これは再現レシピ決定ですね」
俺はアヒージョをつまむ。アボカドとエビのほかにはれんこんが使われている。オリーブオイルが使われていると思って口にしたら……。
「これ、ごま油だ」
「ごま油だったのか! どうりでさっき、何か違うなと思ったんだ……」
さっきの鈴木さんの話を脳内で反芻した。
「ねぇ、鈴木さん。俺ちょっと思ったんですけど、全ての出来事ってタイミングと縁かなって」
「どういうこと?」
「俺、交通事故に遭ってこんなふうになっちゃって、それこそ死にたいくらいつらかったんです。けど、そのおかげかそのせいかはまだよくわからないけど、香織さんと出会えたし、鈴木さんとも出会えました。それに、事故に遭っていなくて事務所でカメラマンを続けていたとしても、俺はきっと中身のない写真ばかり無駄に撮っていた……。けど今は、本当に大切なことに気づけました。撮りたい写真だって、やっと輪郭が見えてきました。事故に遭ったのは本当に嫌だったし、正直今でもこの身体が大嫌いですけど、だけど、事故に遭うっていう運命から逃れられないとしたら、一番いいタイミングで事故って、それで香織さんや鈴木さんとの縁に気づけたんじゃないかって最近思うんです」
そこでいったん言葉を区切って、ビールを飲む。そして俺はジョッキを置いて、鈴木さんの目をまっすぐに見つめた。
「だから、鈴木さんも子どもを授かりたいってずっと思い続けていたら、きっと一番いいタイミングと一番いい縁で、授かるんだと思います」
「なるほどなぁ。真也の言うことだから、やたら説得力あるわ」
鈴木さんもビールを飲み、遠くを見つめるような目をして言った。
「また来てくれるかな」
「はい、きっと。って、勝手なこと言えませんけど」
「そりゃそうだ」
ふたりではははっと笑った。鈴木さんの笑顔は寂しかったが、とても優しかった。きっと俺もそんな顔で笑っていたのだろう。
「追加、頼むか」
「そうですね」
またメニューをのぞき込み、俺たちはアボカドの豚肉巻き、アボカドとサーモンの生春巻きを選んだ。
アルコールのページを見ていた鈴木さんが、あるカクテルを指さして言った。
「真也、これどうかな?」
鈴木さんが指さすところを見ると、アボカドジュースを使ったカクテルと書いてあった。
「いってみましょう」
俺は呼び出しボタンを押した。
「何か、いろいろ重い話をして、悪かったな」
「いえ。俺だってこれまで鈴木さんにいっぱい話を聞いてもらったし」
「ならいいんだけど。いやさ、俺も真也と出会ってよかったよ」
気恥しくなり、俺は頭をかいた。
「ってか、鈴木さんも友達には心のうちを話すことができなかった、とか?」
「うん、じつはな。病気になったのも高校生の頃だったし、今の会社で働き出してからも、なまじ普通の人と同じ生活ができていただけにな」
「けど、やっぱり病気の前とは違いますもんね。周りの人がそれほどでなくても、自分で壁を作ってしまう」
「そうそう、それ! やっぱり真也はわかってくれる」
先にカクテルが来た。アボカドジュースを使ったカクテルは、白みがかった緑色をしていて、とても美しい。
カクテルを前にして、鈴木さんが声を弾ませた。
「これ、前に舞が作ってくれたスムージーみたいな色だ」
「あぁ、アボカドが栄養あるからっていっときはまっていたってやつ?」
「そうそう」
カチン、とグラスを重ねてから味わった。アボカドのさわやかな香りにラム酒の甘味。さらにほかに何か入っているようだったが、俺にはわからなかった。
「何か懐かしい味がする。舞が作ってくれたスムージーに似てる」
「アボカドとラム酒ですよね。あとほかにも何か入っていると思うけど……」
ちょうど料理を持ってきた店員に教えてもらった。
「バナナジュースも入ってるんです。割合は、企業秘密ですけどね」
店員がテーブルに料理を置いて去ると、鈴木さんが嬉しそうに言った。
「バナナかぁ。確かに、舞もバナナとか入れてたわ」
「今度は鈴木さんが舞さんに作ってあげたらどうですか?」
生春巻きをひとつ手に取って、添えられていたわさびマヨソースにつけて食べた鈴木さんが意外そうな顔をする。
「俺が、か……?」
「はい。小さく切ったアボカドとバナナと牛乳なんかをミキサーに入れて、ガーッと回せばいいんです。……きっと」
俺も生春巻きを口に入れた。わさびマヨソースがいい仕事をしている。
「それなら俺にもできるかも」
「舞さん、惚れ直しますよ」
続いて豚肉巻きも頬張った。こちらは照り焼きソースがこってりしていて美味しい。男の俺には、やっぱり肉の方がいい。それは鈴木さんにとっても同じだったようで、最後は取り合う形となった。
俺は最後のひとつを鈴木さんに譲って、生春巻きを箸でつまんだ。豚肉巻きは、家で再現してみようと思った。肉が好きな香織さんもきっと喜ぶはずだ。
無言で豚肉巻きを食べている鈴木さんの様子に、俺は何かまずいことを言ったかと直近の会話を思い出そうとする。あ、最後のひとことがまずかったか。「惚れ直す」なんて、ラブラブな夫婦に言う言葉ではなかった。
「すみません、舞さんは鈴木さんにずっと惚れてるんでしたね」
ハッと我に返ったように、鈴木さんが俺の顔を見た。
「あぁ、ごめん。いや、俺もここんとこちょっと倦怠期っていうの? 何かなおざりになっていたから、いろいろ考えてしまった」
「そうなんですか?」
「まぁ、結婚してだいぶ経つからな。仲はいいんだけど、ちょっとマンネリになっていたっていうか……」
ごにょごにょと口ごもる鈴木さんにピンときた。鈴木さんは夫婦の営みについて言っているのだ。
「それはまぁ、夫婦それぞれのことだから……。いつもよりも丁寧にするとか……」
「だよな。やっぱ、丁寧に、だな。うん」
「今夜帰ったらさっそく?」
自分で言った言葉に、使いものにならない下半身が反応した気がして、俺はそっと手で触れてみる。だが奇跡が起こるはずもなく、俺自身はふにゃりと縮んだままだ。
そんな俺の葛藤を知る由もなく、鈴木さんは相変わらず恥ずかしそうだ。
「そうだな、久しぶりに……」
「いいじゃないですか。ってか締めの飯、何にします?」
すっかり食べ尽くしてきれいになった食器を見て、俺はメニューを手に取った。濃厚なアボカド料理が続いて腹具合も限界が近い。だがここまで食べたなら、最後までアボカド料理を極めたい。
「そうだな。俺、あっさりしたのがいいわ。腹いっぱいだし」
「お茶漬けありますよ」
「まじか。それにする」
俺はアボカドと鮭、鈴木さんはアボカドとマグロのお茶漬けに決めた。アルコールは梅酒。
注文を済ませて、空いた食器やグラスが下げられてきれいになったテーブルで、鈴木さんと向き直る。直前の会話がそれなりの内容だったために、俺も鈴木さんも少しだけ恥ずかしい。鈴木さんはマンネリだとか久しぶりだとか言っていたが、香織さんを満足に抱けない俺は、それさえもうらやましかった。俺は何となくおしぼりでテーブルを拭きながら、そんなことを考えていた。
我慢していたつもりだったが、ついにぽろりと本音がもれてしまった。
「けど、いいなぁ。俺、どうやったって無理だから」
「あ……。そっか……。腰から下の感覚がないって、つまり、そういうことか……」
とたんに申し訳なさそうな表情になる鈴木さん。
「大丈夫です。その、いわゆる本番行為はできないけど、俺たちなりの愛し方って一応あるんですよ。それに、俺たちだって子どもがほしいって思ったら、方法もあるし」
「そうなのか?」
「医師の香織さんが言うのだから、確実です」
その方法は生々しかったのでさすがに口に出すことはなかったし、鈴木さんもそれ以上聞きたがる様子はなかったので言わなかった。
現実問題として、身体の不自由な俺に満足な子育てができるとは思えないし、香織さんは香織さんで仕事が大事だから、子どもは持たないつもりだ。だが、どうしてもという時に頼ることのできる方法があるというだけで、気分的に楽になるのも確かなことだ。
お茶漬けと梅酒が運ばれてきた。
「おぉ。美味そう」
俺の鮭茶漬けは焼いて粗くほぐした鮭とアボカド、鈴木さんのマグロ茶漬けは角切りにしたマグロとアボカドだった。どちらも刻み海苔とやっこねぎ、いりごまがトッピングされていて、急須に入った熱々のほうじ茶と一緒に提供された。
ほうじ茶を注いで、さらさらとかき込む。香ばしい鮭の風味と香ばしいほうじ茶の風味の中で主張を忘れないアボカドがいい。鈴木さんも美味しそうにかき込んでいる。濃厚なアボカド料理を散々食べたにもかかわらず、お茶漬けは瞬く間に胃におさまった。
「何だかんだ言って、鈴木さん全部食べたじゃないですか」
「真也だって」
梅酒のグラスをちびちび傾ける。
「で、アボカド料理の参考になったか?」
「はい。明日さっそく作ってみようかな」
「そりゃよかった。でも、増井先生も幸せだよな。再現料理をささっと作ってくれる料理上手の旦那がいてさ」
頭に手をやって答える。
「いやぁ。俺の料理なんて、適当ですよ」
俺はふとあることを思いついた。
「鈴木さん。もしよかったら、来月は俺んちで忘年会しません? 俺、ちょっと頑張ってみます」
「えっ? まじで?」
久しぶりに写真以外のことで気分が盛り上がるのを自覚した。
「はい。香織さんもいる時に、舞さんも呼んで。うちでぱあっと」
鈴木さんの表情も少年のように輝く。
「いいじゃん、いいじゃん。舞もきっと喜ぶ」
「香織さんだって。いつもふたりで飲みにきてるから『ずるい』って」
とんとん拍子に話が進んだ。新しい仕事が決まる時のような緊張をはらんだわくわく感が俺を包んだ。この緊張感がやはり俺は好きだ。
忘年会、何を作ろう。早くも料理のことで頭がいっぱいになる俺だった。
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