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第三章

ポーチュラカ

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 写真館とペインクリニックの出入り口に置いてあるプランターにはビオラが植えられている。これらのプランターは、開業する前に晴美さんに贈ってもらったものだ。俺たちは植物栽培に慣れないながらも、自分たちなりに愛情を注いで世話をしてきた。
 東京出張に行く少し前から花の数が減りつつあったビオラ。帰ってからは新たな花が咲く気配すら感じられない。それどころか葉の色も徐々に黄色くなり、全体的に元気がない。
 もっとも一般的なビオラの開花時期は五月中旬頃までなので、とても長く咲いてくれた方だ。だが、島に移住して以来ずっと愛情をかけて育ててきた花なので、俺も香織さんもすっかり情が移っていた。
 そんな俺たちを見やって、晴美さんは笑う。
「ふたりとも、そんな悲しそうな顔をしなくても」
「だって、俺たちなりに一生懸命育ててきたから……」
 スコップを使って勢いよくビオラを抜く晴美さん。「あぁっ」という悲鳴が俺と香織さんから漏れた。
「真也さんと香織先生が愛情をかけて育てたからこそ、この時期まで咲いてくれたんです。感謝して葬ってあげましょうよ」
 晴美さんは慣れた手つきでビオラを抜いて空いた場所に、持参したポーチュラカの苗を植えていく。
 そんな姿を眺めていた香織さんがぽつりと言った。
「確かに薬を使って延命させるのは、それを望まない患者さんにとっては酷なことよね……」
 香織さんはこのところ、終末期医療について学んでいる。
 ペインクリニックを開業している麻酔科医にとって、切っても切り離すことはできない終末期医療。香織さんの診察を受ける患者は多岐にわたるが、ステージ四のがん患者も少しずつ増えているという。先月東京で出席した学会もその関連のものだと、香織さんは言っていた。
 そしてそれは、晴美さんの伯母さんの看取りについて耳にしたことがきっかけだった。晴美さんの伯母さんは、一昨年慣れ親しんだ自宅で安らかな最期を迎えられたのだという。
「そうですね、わたしも伯母の安らかなお顔を見て、その選択が間違っていなかったんだって確信しましたから」
 何となくしんみりした俺たちに発破をかけるように、晴美さんが朗らかに言た。
「ふたりとも、ふさぎ込まない! 今抜いたビオラだって、わたしが持ち帰って肥料にするんですから」
「そうなんですか?」
 思わず俺は問う。
「亡くなった人がいつまでも生きている人の記憶に残るのと同じです。枯れゆく植物も、次世代を育てる大切な肥料になるんですよ」
 それなら、というわけではないが、勇気づけられたことは確かだ。
 枯れかけのビオラのプランターは、晴美さんの手によって、瞬く間に若くみずみずしいポーチュラカが梅雨明けを待っているような初々しいプランターへと生まれ変わった。
 ビオラの時はふたつのプランターで異なる色合いだったが、今回は同じ。どちらのプランターにもオレンジ、黄色、ピンク、白といった苗がバランスよく植えられている。今はまだ花の数は少ないが、きっと夏にはあふれんばかりの花を咲かせてくれるだろう。
「あれ? 今回はふたつとも同じ色なんですね」
 俺が首をかしげると、晴美さんは豪快に笑った。
「だって、ミチヨさんったら、色を分けてもいつも写真館に行っちゃうもん」
「確かに」
 ペインクリニックの常連患者である田中ミチヨさんは、いまだに俺の写真館に顔を出しては驚いた表情を見せ、「若いのに足腰が立たなくてかわいそうに」と俺を憐れんでくれ、迎えに来た山本さんに連れられてクリニックに通院している。
 七月に入ったばかりの空を見上げる。梅雨時だが今朝は曇り空で、俺は久しぶりに屋外の空気を楽しんでいる。
 雨が降ると外出もままならない俺にとって、梅雨は最も嫌いな季節だった。だがこの島に移住して、悪くはないのかなと思い始めている。
 心なしかのんびりとした時間の流れ。ペインクリニックもこのところどことなくのんびりしているという。
 雨で外出できなければ、仕事場でカメラの手入れをすればいい。そんな当たり前のことを、ここでの生活は俺に気づかせてくれる。
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