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第一章 黒獄の天秤

十二話 安定

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 ふと瞼を開ける。視野は天井に映り、今俺は寝ていたということを自覚する。上半身を起こし、周りを確認する。カーテンの仕切りに囲われ、俺の下半身の上には黒い布団が敷かれてある。やや薬品の臭いでここは保健室だということを理解する。

「俺は……どうしてたっけ」

確か俺は第二部『テウルギア・ゴエティア』を詠唱させ、暗黒星を落としたつもりだ。なのにこの世界は滅んでいない。……そうだ。思い出した。時空が歪み、時が逆再生され、暗黒星は落ちるどころか召喚するシーンまで戻されたんだ。ウァサゴは時を操る力を持つことが判明したときだった。

「そうか……俺は、負けた、のか……」

俺は、負けてしまった。この世界の半分を滅ぼすどころか、生徒会入会の運命となってしまった。俺はこれまでどおりの学生生活を演じなくてはならない。三年を通して生徒会で嫌々ながら貢献しなくてはならないというわけか。

 しかし、なぜ俺は保健室で寝ていたのだろう。誰がわざわざご丁寧に闘技場から保健室まで運んでくれたのだ。

 そのとき、カーテンの奥からガチャリと鉄が響く音がした。誰かが居る。おそらく奥に居る者が俺を運んでくれた。悪魔であっても一応は礼を言っておく必要があるな。

 下半身を床に下ろし、立ち上がる。カーテンを横に引き、保健室を見る。すると、椅子に座っている角が生えた女の悪魔が起き上がった俺を待ち構えて見ていた。

 角は大きく羊のようにうずまいている。服装は改造されていない普通のゲーティア制服で、胸がパツパツに張り大きさを強調している。初めて見る悪魔だ。咄嗟に警戒し、声をかける。

「アンタは?」

するとその女性はニヤリを笑みを浮かべ、脚を組んだ。

「私はアスモデウス。色欲の大罪を背負う哀れな者」

「色欲の大罪……?」

色欲の名に恥じない、胸の強調に綺麗で艶のある肌。実に色気のある悪魔だ。見る者を魅了する、危険な悪魔のように感じた。

「七つの大罪の一人か」

この魔界にはヒトを殺しても罪には問われない。そういう法律は存在しない。だが、この魔界の偽王国には七つの大罪が存在する。傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、そしてアスモデウスなる悪魔が背負う色欲。一度それらの罪を犯し、その危険度に応じて牢獄にて閉じ込められる。だが七つの大罪者の能力は強く、その身を封じるのは不可能。結果誰にも捕らえることができず、自由気ままに動かれている。更には、傲慢の大罪を背負う者が今の偽王国の王だ。誰にも捕らえることなどできはしない。

「そっ。で、あなたが倒れていたから看護してあげたってわけ」

「看護?」

言われてみれば、お腹や手腕には黒い包帯が巻かれて、怪我の治療までされている。

「お前が俺を助けた、のか」

「何よ、そのもっと他の女性が良かったみたいな言い方」

「違う。色欲の大罪者がなぜ人間の俺を看護した。お前、明らかに怪しいぞ。お前サキュバスだな。」

胸の強調に艶に怪しい色気、これらはサキュバスの特徴だ。サキュバスは人間の精子を糧に生き、犯して殺す悪魔だ。この魔界において人間の俺はサキュバスの狙いの的だ。サキュバスにとって色欲の大罪はむしろ誉め言葉のようなものだ。

「まさか、俺が眠っている間に精子を抜き取ったのか?」

断言して睨み付ける。するとアスモデウスは「オホホホ」と笑う。

「さあ、どうだろうねえ」

曖昧な答えを示し、俺を戸惑わらせる。

「はっきりしろ」

「抜こうが抜くまいが、あなた生きているじゃない。だから別に怒らなくてもいいでしょ。別に減るものじゃあるまいし」

言われてみれば確かに俺は暗殺されていない。犯されて殺されればそれはアスモデウスの暗殺成功だ。だが俺は生きている。いや、むしろ、サキュバスの前で俺は殺されずに済み、生かされた、というべきか。ではなぜ俺は生きているのだ。俺が眠っている間に犯して殺せばよかったのに。

「まあはっきりな答え、私はあなたに惚れた。だから看護してやったというわけ」

アスモデウスは笑みを抜き、真顔でそう答えた。

「惚れた?」

「人間のくせにあのウァサゴを追い詰め、更には大虐殺を図った。今まで人間は無力だと思っていたけど、あなたの戦いぶりを見て考え方が変わったわ。あなたいったい何者なの……?」

このアスモデウスとやらもどうやら観客席に居たらしい。よく無事で怪我一つなく生き延びられたな。そればかりか、俺はこいつさえ殺そうとしたのに、俺を看護した。どういう精神しているのか理解できない。

「それにあなたはサキュバスにとって恰好の餌。しかも男ときた。そんな最凶の魔術師の精子をたっぷりと抜いたら、ああどんだけ幸せなことやら。さすがに私も興奮するわ」

まさに色欲。犯すことしか考えていない。ドン引きも避けられない。

「そんなあなたを今犯して殺すのはもったいないわ。あなたがまだ若いうちに、たっぷりと熟成させて、あなたを愛して、犯してあげる。お楽しみは最後に取っておく主義なの」

まさかの性行為宣言を喰らう俺。どうやら今は犯さず、俺の精子を熟成(?)させてから犯すつもりらしい。いや意味が分からないんだが。しかも愛するってまさかの告白かよ。

「特別にあなたを私の彼氏と任命する。サキュバスの彼氏が人間だなんてもう最高じゃない。ねえレハ」

更には俺はアスモデウスという彼女を持つようにさせられた。別にサキュバスが彼女だなんて嬉しくないんだが。それただのセフレだから。

「ふざけるな。なぜ俺がお前の彼氏にならなくてはならない。告白ならNOだ」

「NOでもなんでも言いなさい。私はあなたをずっと見ているから……」

思ったより愛が重いな。サキュバスが人間に惚れるなんて、既に動機が大罪だ。もう精子のことしか考えていない。

「私のおっぱいは百六十センチよ。どうバランスボール並にデカいでしょ」

「ああはいはいデカいデカい」

胸がバランスボール並に大きいとか、どんだけ肥えているんだ。

「じゃあ、今後ともよろしくねぇ。私の人間ちゃん」

「やめろ。気持ち悪い。」

アスモデウスと一緒に居るだけで不愉快だ。看護をしてくれた礼を言わずに、この部屋から出ようと考える。しかし俺の手元にはレメゲトンが存在しない。ベット付近にもレメゲトンはなかった。

「あらどうしたの。探し物?」

「俺の魔術書を知らないか?」

「ああレメゲトンのことね。私の尻にあるわ」

「……は?」

レメゲトンは悪魔が触れると無気力になってしまう。なのに尻で踏んで平気でいられるだなんて、それはあり得ない話だ。いやそれ以前になぜ魔術書を尻で踏んでいるのだ。いったいなんの嫌がらせなのだ。

「このレメゲトン、皮膚で触れば無気力になるのは知っているわ。でも私はスカートを履いてその上で乗っかっている。だから無気力にはならない。手袋を使って持ってきたわ。」

レメゲトンの弱点が今明らかになった。他の方法で触れることができるのか。それは大変悲しいことだ。いやそれよりも、なぜアスモデウスはレメゲトンを下敷きに尻で踏んでいるのだ。

「レメゲトンを返してほしければ私の唇にキスをして」

「……本気で言っているのか?」

「だって、私たちもうカップルでしょ?サキュバスだもの、そりゃあ人間の唇からも栄養たっぷりもらいたいわ」

アスモデウスの目も本気だと語っている。

「断る。そういうのいいから返してくれ」

「ヤだ」

嫌がらせもヤラしい奴め。普通の男なら喜んでキスをするだろうが、キスをした瞬間栄養が奪われるなり、その女性に魂を売るなり、結果残酷な運命になるというものだ。しかしこのアスモデウスは俺を殺さなかった。つまりキスをしようが俺は殺されないというわけだ。だがこんなヤリマンに魂を容易く売る俺ではない。

「ほらほら、早くキスしないとレメゲトンが尻圧で潰れちゃうよ」

アスモデウスは俺に向けて唇を立てて、瞼を閉じる。いつでもキスしてきてということか。

 レメゲトンがないと俺は生きていけない。さてどうするか、キスをしてアスモデウスに魂を売るか、レメゲトンを捨てるか。否。俺はレメゲトンを捨てるわけにはいかない。しかしキスもしたくない。

「キスは絶対なのか」

そう質問してみると、アスモデウスは無言でうなずいた。仕方ない。ここはキスをして魂を一度売るか。なに、本気で売るわけではない。このキスはあくまでレメゲトンを取り返すというものだけだ。平常心を保て俺。

 座るアスモデウスに恐る恐る接近しながら、俺の唇をアスモデウスにくっつけた。

 思ったより唇が柔らかかった。どこまでも沈むのではなかろうかというほど。そして悪魔がファーストキッスということになり、俺の歴史はより更に汚れていった。しかし一瞬だけくっつけて、すぐさま体ごと後退させた。

「さあこれでいいだろう。レメゲトンを返せ」

アスモデウスはやや不満げな表情で俺に睨み付けてくる。

「もっと濃いキスがしたかったなあ。たったの一瞬だけだったじゃん」

「この俺が本気でするわけがないだろう。さあ返せ」

「クーデレねえ。まあいいわ。これから毎日キスしてもらうつもりだし。ね」

アスモデウスは椅子から立ち上がり、横にどく。俺は椅子に近寄り、尻圧で本板が潰れたレメゲトンを手に入れる。すると触った途端潰れた本板が修復しピンと張った。

「潰したのに直った。へえ便利な魔術書ね」

尻圧でやや温かい。何気に良い香りもする。しかし尻だ。おならでもされたらと思うとこのレメゲトンはダイレクトアタックで汚れてしまう。おならはいわば霧状のダイだ。汚染は避けられない。

「放屁なんてしていないわよ。さすがのサキュバスも放屁なんかしないわ」

俺の心配を読んだのか、放屁なんてしていないと断言する。まあ美女なら放屁なんて人前ではしない、と信じておく。

「でぇこれからどうする? 外は夜だけど」

窓を見ると外は真っ暗。そうか、俺は夜の学校の中で安静にされていたのか。となるともう体育祭は終了したのか。俺が殺してやった悪魔たちの死体も気になるが、体育祭後の状況が知りたい。

「体育祭後、なにか変化はあったか」

「とりあえず救急隊が駆け付け、生徒たちを抱えて病院へ行ったわ。なかには本当に死んだ者もいるけど」

「悪魔は死ぬ方が人間界も助かる」

今回の件について、俺は全く反省もしていない。黒獄の天秤で観客席に悪魔が集うことは知っていた。だから一網打尽にしてやった。悪魔達の混沌に満ちた悲鳴はもう格別だった。

「まっ、それもまた一興ね」

レメゲトンの本背を右手で持ち、左手で引き戸を触る。

「これからどこにいくの?」

「病院だ」

第三部『アルス・パウリナ』による怪我者が集う病院へ向かう。べつに怪我者を嘲笑うつもりで行くわけではない。

「なんで行くの?」

「ウァサゴに会いに行くためだ」

アスモデウスは意外そうに静かに驚き、「へええ」と納得したかのようにうなずく。

 今回の件でウァサゴの怪我について気になることがある。ウァサゴの体にレーザービーム放射させまくったせいで瀕死状態のはずだ。おそらく病院で治療中だろうが、それでも一応は顔を合わせに行く。

「病院は薬臭いから行かないわ。一人で行ってらっしゃい」

「もとよりそのつもりだ」

引き戸を引き、夜の廊下を歩く。真夜中の学校門を出て、病院へ向かう。

 病院内は包帯で巻かれた生徒が多く、杖で突いて歩いたり車椅子に座って移動したりしている悪魔が病院内をウロウロしていた。多くの悪魔は俺の魔法で傷ついたということはまだ気が付いていない。もっとも、気が付いたところで文句は受け付けないが、レメゲトンを所持しているということは生徒会二人となぜかアスモデウスのみ。しかし大虐殺は成功したかと思ったが、意外と悪魔たちは生き残ったものだ。惜しくも命を拾ったな。

 上の階を使い、ウァサゴが眠っているという治療室の引き戸にノックする。しかし応答がない。

「俺だ。レハベアムだ」

引き戸の前で名乗っても応答がしない。まさか後から死んでしまったのか? 確認するために、少し引き戸を開け、覗き見してみる。が、しかし治療室の中には誰も居らず、ベットの上にも誰も寝ていない。引き戸を完全に開き、勝手に入る。正面の窓だけが開いており、そこから強い風が突き通る。

「……?」

一階のカウンターの悪魔から聞いた話と違うではないか。ウァサゴはここにはいない。じゃあどこに居るのだ。俺はウァサゴと話がしたいのだ。

 そこで俺はベットの上に紙切れを見つける。その紙切れにはこう書かれていた。

『ウァサゴの体内にあるというフライングチケットは俺が頂く。俺が先に卒業して、人間界を滅茶苦茶に荒らしてやる。悪いな人間。それでもウァサゴを返してほしければ俺のアジトに来い。アモン』

「な、なんだって……!」

驚愕すべき内容が記載されていた。なぜアモンがフライングチケットがウァサゴの体内にあると知っているんだ。そのことは誰にも知らないはず。

「はっ、まさか……。」

あの時、ウァサゴがフライングチケットを体内に入れたとき、生徒会室の外にアモンが居て、内容を聞いていたのか。でなければありえない状況だ。

「レハさん!」

背後から俺を呼ぶ声がした。振り向くと、汗びしょびしょになって息切れしているシトリーが治療室へ入った。

「シトリー、今ウァサゴが大変な目に」

「はい知っています。私はレハさんに救出をお願いするために探していました。」

「探していた?」

「アモンのアジトには複数の部下が居て、私一人では救出は無理なんです。だから、お願い致します! ウァサゴ先輩を……助けて!」

「ああ。分かった。俺に任せろ。―あっ。」

自分自身が、この俺ともあろうものが、ウァサゴ救出のためにいとも容易く心を向けたことに驚いた。なぜ俺はこんなことを言ったんだ。前の俺なら普通に断るはずなのに。

「……? どうかされたのですか。」

「いや、なんでもない。で、アモンのアジトとはどこだ」

「私についてきてください!」

既に場所は把握済みか。なら話は早い。すぐに追いかけよう。

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