魂魄シリーズ

常葉寿

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第二章「待希望砂星(まちのぞむきぼうすなぼし)」

【魂魄・参】『時空を刻む針を見よ』10話「常磐」

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 ――さかのぼること数日前

 雪が降り積もる――真っ白な雪が全てを包み込む白銀の世界。

 暖かな家屋の中から眺めるのであれば美しい景色も、外にいれば命に係わる。吹き荒れる吹雪の中、子供三人を抱えた女性が覇道皇の手から逃れるために、支配域境界にある宗清むねきよの関所にさしかかっていた。

「お母さん、寒いよ」

「しっかりなさい……今若いまわか、弟を見てやって」

「はい、母さま」

 母親は若く美しかった。だからこそ覇道皇に目を付けられた。

 彼はこの大地――日ノ本を自らの手中におさめようと、ヒトや半獣など各種族を攻めては支配し、急速に勢力を広げていた。

 支配下に置く土地の女を自分の妻に加えようと、若い娘だけでなく、既婚者や子連れの母でさえ、好みに合えば問答無用で捕まえていた。

「早く……ここから逃げ出さないと」

 母親は真っ白な息を吐き、幼い赤子を抱きしめながら新雪を踏み分ける。

 夫は覇道皇の手下に殺された。元はその地域を治め、誰からも慕われる棟梁とうりょうであったが、覇道皇の大群の前に、成すすべなく一瞬のうちに淘汰とうたされた。

 そして自分の妻を覇道皇から守るために果敢に向かい、儚く露と消えていった。

「母さま……あそこに灯りが見えます」

「そう、助かった……」

 空腹と疲労が限界に達し、視界がぼやけ朦朧としていていると、長男の今若が灯りを指して母の腕を引き上げる。

 まだ幼いにも関わらず、彼はしっかりとした眼差しで雪に埋もれる母親を掘り起こした。

 頼もしい長男今若、甘えん坊の次男乙若おとわか、そして生まれたばかりの三男牛若うしわか、この子たちだけが彼女に残った唯一の希望だった。

 なんとしても救いたい――信念だけが母を奮い立たせていた。

「お願いします。開けて……開けてください」

 灯りの正体は屋敷から漏れたものだった。今若に手を引かれた母親――常磐ときわは、残された力を振り絞り固く閉ざされた扉を必死で叩く。しばらくすると召使いがそっと開いた扉から顔を覗かせ、雪塗れの母子を見て雪以上に冷たく言った。

「なんの用ですか」

「た、助けてください……一晩だけ宿を……」

「無理です。旦那様はもうお休みです」

「そんなッ、お願いです……子供だけでもッ」

「なりませんッ、静かになさい」

 寝巻で気怠そうな召使いが母子を突っぱねる。母親が涙を流し懇願するが、涙はすぐに氷となり、どんなに辛くても悲しくても召使いの同情を買うことはできなかった。すると閉じかけられた扉を老人のものと思われるゴツゴツとした手が押し留める。

「だ、旦那様ッ」

「音がして見れば、こんな夜更けに子供を連れた女か」

「一晩だけでいいのです。子供たちだけでも……お助け下さい」

「入れ。この者たちに何か温かいものを」

「……かしこまりました」
 
 召使が渋々と母子を中に通す。

 門を潜ると庭に大きな松の木が立ち、隣には立派な屋敷があった。常磐と息子たちはホッと胸を撫で下ろし、一晩の許しを得たことに安堵した。

 明朝、きっと雪はやむ。そうしたらすぐにおいとまし、覇道皇の魔手から少しでも遠く逃げきろう。ここが皇の敷いた関だということに気付かぬ常磐は、不用心にも張りつめた緊張の糸を緩めてしまう。

「新しい着物に、温かいお食事……私たちのために何から何まで、ありがとうございます」

「よい。困った者を救うのは武人の務め。我がぬしもさぞお喜びだろう」

「え……主さまとは」

「この日ノ本を統一される未来の国皇こくおう……覇道皇さまだ」

「なんですってッ」

 常磐は急に顔を青ざめて今若と乙若を背中に隠す。声を荒げた母の心音に驚き抱いた牛若が大声で泣き始めた。彼女は屋敷の主を睨み付けると声を荒げて叫んだ。

「覇道皇の手下かッ」

「そう興奮するな」

 狂犬のように激しく息をする常磐を屋敷の主――宗清はそよ風が吹いたように涼し気に見つめる。

 そしておもむろに立ち上がると、雪見障子ゆきみしょうじを開けて縁側に出て庭の松を見つめた。その枝には真っ白な雪が降り積もっている。

「ここは覇道皇が探し人を得るために設けた関だ。お前が常磐だろう。我が皇が探しているぞ」

「私はあの邪悪な男のものにはなりませんッ」

「……あの制札を見ろ」

 宗清は庭に植えられた松の隣に刺さる制札を指さして言った。

 よく見みると「松を手折たおって松を助く」と書かれている。その意味も男の意図もわからずに、常磐は警戒を解くことなく男を睨みつける。

「私はずっと……あの制札に書かれた意味がわからなかった。だが、今ならわかる気がする。あの松とは……お前の事だ」

「なんですって」

「松の縁語えんごは常磐……これは常に揺るがぬ岩のようなの意思を表す。つまり……お前だ」

「えっ」

「覇道皇のめかけになり、側室となれば、宝玉も金銀も数百人の召使いでさえ手に入るものを……死んだ夫にみさおを立ておって」

「当たり前ですッ……私は亡き夫に全てを捧げるという覚悟で嫁ぎました……それを……あんな血の涙もない男に……凌辱りょうじょくされるわけには参りませんッッ」

 常磐はそう言って膳の上の箸を手に握ると、自分の首に突き立てようと構えた。宗清は眉一つ動かさずに一瞥いちべつし、再び視線を松に戻して静かに呟く。

「死んでどうなると言うのだ。その子供らも殺めるのか……生きていれば、生きてさえいれば悲願が成就することもあるだろうに」

「主人亡きいま悲願など……ないッ」

「……それでもお前は武人の妻かッッ!」

 それまで落ち着いた口調だった宗清は、突如として声を荒げて怒鳴りつけた。委縮いしゅくした子供たちはビクッと震え、牛若でさえピタリと泣き止むほどだった。

 彼は再び彼女の瞳をジッと見つめて呟く。

「断たれた家を再び興すのが、残された者の役目だろう……子供が生きていれば未来に希望を持つことも出来よう」

「じゃあ……じゃあ、私たちはどうすれば」

 常磐は今にも泣きだしそうな表情をする。もうそろそろ色々なことが限界に達しようとしていた。逃げ続ける旅も三人の子供を育てるのも生きることでさえ。それらが見えない鎖となり、彼女を容赦なく縛り上げる。

「松を手折たおって松を助く……この意味を考えてみよ」

「先ほど、松は私だと……」

「そう。常に揺るがない盤石ばんじゃくの意思、それを折るのだ……お前自身の手でな」

「……もう、私たちの負けですね。逃げることは出来ない」

「立ち向かえ。これは逃げでは無い」

「子供達はっ……子供達はどうなるのです」

「小枝も共に」

「……ッ」

「…………」

「ハハ……ハハ……ハハ母ハ母母ッ……ハッ」

「どうした。狂ったか……」

 常磐はゆっくりと立ち上がると素足のままで庭に降り立ち、降り積もった新雪の上を一歩一歩と松に向かって歩く。

 もう冷たさは感じなかった。

 彼女は松の前に立ち止まると、一本の枝を折り、積もる雪をはらって宗清を見つめた。その視線は怒りでも諦めの感情でもなかった。

 そんな様子を見守る宗清は奥へと通じるふすまを開け、枝を握りしめる常磐の手をとり、再び中へと招き入れるのだった――。
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