8 / 14
三章
モンティ・ホール問題
しおりを挟む
「たとえばA、B、Cの三つの扉があって、どれか一つだけが当たり、新車が貰える。それで俺がAを選ぶとする。すると司会者が残りのドアのうち外れを教えます、と言ってCの扉を開けてヤギが出てくる。……そしたらチャンス! 今なら扉を変えてもいいですよ、と言われる。そしたら俺は、AをBに変えたほうが当たりの確率は倍になる」
ダミアンは広いリビングのソファにゆったり座って、窓から外を眺めていた。暴言を吐くオリヴィアがいないおかげで静かなひとときだった。雲一つない青空に、爽やかな太陽。階下では、豆粒ほどに見える車が何台も通りを行き交っていた。
エリオットはなぜか椅子に座らず、硬いフローリングの上で体育座りをしていた。親指の爪を噛みながら、柱の影に隠れていた。じっとりした視線をダミアンに向けている。
「モンティ・ホール問題なら知ってます」
ダミアンはため息混じりに答えた。そう、嫌というほど知っている。現実は机の上と違ってうまくいないということを。ブラックジャックでカウント行為をすればカジノを出禁になるということを。金は持ちすぎるとロクなことにならないということを。
この家に来てから数週間が経過した。特に変わり映えのしない毎日がすぎていくだけだった。ラスベガスのボロアパートに住んでいた時期よりも、ずっと穏やかな時間が流れている。ダミアンの人生に初めて訪れた、退屈な日常でもあった。
「小学生のとき、この話をしたら異常者扱いをされた。確率は1/3のまま変わらないって。そのとき、自分がおかしいんだと気がついた」
エリオットは新しい家族に慣れたのか、ときどきこうやって話しかけてくるようになった。とりとめのない、オチのない話だったがダミアンは嫌いじゃなかった。エリオットは間違いなく、〝天才〟と呼ばれるタイプの人間だった。数々の奇行も、整形手術を繰り返した人間離れした顔もその一言で許される。
「お前はその前からおかしかっただろ。蛇の脱皮した皮とか集めてたし」
コンラッドの酒やけ声が部屋に響いた。いつの間にか、キッチンカウンターの椅子に座ってタバコを蒸かしている。エリオットは兄に視線を移し、大きくため息をついた。
「んだよその態度」
「……いや」
ピリピリした空気が流れた。この二人もまた、仲が良い兄弟とは言えなかった。エリオットは俯いて、親指の爪を噛んだ。
「言いたいことがあるならハッキリ言えよ」
コンラッドはイライラしている様子だった。いつものように昼間からアルコールの匂いを漂わせている。鼻息を荒くして、床に座り込んでいるエリオットの胸ぐらを掴む。
「なんか文句あんのかよ? あ?」
気持ち悪いくらい、不自然に整った顔に唾が飛ぶ。兄に凄まれても、エリオットは普段のおどおどした態度を表に出さなかった。静かに凪いだ目を向ける。静かに口を開いた。
「ロールス・ロイスを乗り回してバイアグラのセールスをして回ってるやつは、世界中探したって兄さんしかいない」
「……」
「高額な慰謝料を請求されてるとか」
コンラッドは顔を青くして指の力を緩めた。エリオットは兄を蔑んだ目で見上げて鼻で笑った。初音ミクのTシャツの胸元がだるだるに伸びきっている。
「お前だって、Googleに垢BAN食らってAmazonの物乞いリスト公開してんじゃねーか!」
コンラッドは大声を張り上げた。ダミアンはソファに座ったまま腕を組んだ。言い争いや喧嘩は、この家では日常茶飯事だった。
オリヴィアの言う通り、コンラッドは不倫の慰謝料、エリオットは整形のローン代で金に困っている。
「既婚者なのにバイアグラとコンドームを持ち歩いてる気持ち悪い奴に言われたくない」
ボソッと呟いた。コンラッドは明らかに動揺し、目を白黒させている。手がぶるぶる震えている。
「そりゃ仕事だから。仕方ないだろ」
「仕事ね、仕事」
エリオットはやれやれと肩をすくめた。余裕そうな表情はそう長く続かなかった。コンラッドが力任せに顔を殴ったからだ。大きな鈍い音が鳴る。エリオットは床に仰向けに倒れた。顔を押さえ、呻き声を上げる。
「うぅ゛……いてーな。プロテーゼずれたらどうすんだよ」
上半身を起こした。太陽の光に照らされて苦しそうに見える。目からぼろぼろ涙を零している。
「クソッ、コンタクトが外れた」
コンラッドは顔を青くしたり赤くしたり忙しい。自分が殴りつけたくせに、エリオットの様子を気にかけている。ゆっくり立ち上がり、床に転がったエリオットを見下ろした。盛大なため息を吐く。
「お前さ、遺言書の偽造ってできねーの?」
その言葉に反応したのはダミアンだった。傍目にはわからないが大きく目を見開き、ハッと息を飲む。エリオットは涙を拭い、太陽の光を避けるように柱の影に移動した。ボソボソ小さい声で返事をする。
「偽造は簡単だけど、俺には弁護士を欺くトーク力がない」
「それはおれがなんとかするよ」
コンラッドは乱れた手首のカフスボタンを直しながら答えた。あの堅物そうな弁護士を説得するのは不可能に思えた。ただ、コンラッドの営業成績は縁故入社とは思えないほど優れているのもまた事実だった。
「あのー、せめて僕のいないところで話してくれます?」
ダミアンはとうとう耐えきれなくなり口を挟んだ。コンラッドが初めてダミアンのほうへ視線を向け、目を細めた。小さく鼻を鳴らす。
「あぁ、いたの? 気づかなかったわ」
「ノンデリ厄介野郎……デュフ」
エリオットが自身の爪をガリガリ噛みながら、気味の悪い笑い声を漏らした。整形顔に不釣り合いな言動。猫背でオタクっぽい、どこからどう見ても不審者だった。
「あ? 厄介? そりゃ厄介だろうよ。ヤクばら蒔いてんだ。アメリカにいる保守的なキリスト教徒の、ざっと一億人には嫌われてる」
コンラッドは弟を見て嘆息した。エリオットとは違う、いかにも真面目そうなサラリーマンの顔をしている。今しがた人を殴ったとはとても思えない。
そして二人とも、父親を殺された息子の顔をしていなかった。金のことしか考えていない。
ダミアンは広いリビングのソファにゆったり座って、窓から外を眺めていた。暴言を吐くオリヴィアがいないおかげで静かなひとときだった。雲一つない青空に、爽やかな太陽。階下では、豆粒ほどに見える車が何台も通りを行き交っていた。
エリオットはなぜか椅子に座らず、硬いフローリングの上で体育座りをしていた。親指の爪を噛みながら、柱の影に隠れていた。じっとりした視線をダミアンに向けている。
「モンティ・ホール問題なら知ってます」
ダミアンはため息混じりに答えた。そう、嫌というほど知っている。現実は机の上と違ってうまくいないということを。ブラックジャックでカウント行為をすればカジノを出禁になるということを。金は持ちすぎるとロクなことにならないということを。
この家に来てから数週間が経過した。特に変わり映えのしない毎日がすぎていくだけだった。ラスベガスのボロアパートに住んでいた時期よりも、ずっと穏やかな時間が流れている。ダミアンの人生に初めて訪れた、退屈な日常でもあった。
「小学生のとき、この話をしたら異常者扱いをされた。確率は1/3のまま変わらないって。そのとき、自分がおかしいんだと気がついた」
エリオットは新しい家族に慣れたのか、ときどきこうやって話しかけてくるようになった。とりとめのない、オチのない話だったがダミアンは嫌いじゃなかった。エリオットは間違いなく、〝天才〟と呼ばれるタイプの人間だった。数々の奇行も、整形手術を繰り返した人間離れした顔もその一言で許される。
「お前はその前からおかしかっただろ。蛇の脱皮した皮とか集めてたし」
コンラッドの酒やけ声が部屋に響いた。いつの間にか、キッチンカウンターの椅子に座ってタバコを蒸かしている。エリオットは兄に視線を移し、大きくため息をついた。
「んだよその態度」
「……いや」
ピリピリした空気が流れた。この二人もまた、仲が良い兄弟とは言えなかった。エリオットは俯いて、親指の爪を噛んだ。
「言いたいことがあるならハッキリ言えよ」
コンラッドはイライラしている様子だった。いつものように昼間からアルコールの匂いを漂わせている。鼻息を荒くして、床に座り込んでいるエリオットの胸ぐらを掴む。
「なんか文句あんのかよ? あ?」
気持ち悪いくらい、不自然に整った顔に唾が飛ぶ。兄に凄まれても、エリオットは普段のおどおどした態度を表に出さなかった。静かに凪いだ目を向ける。静かに口を開いた。
「ロールス・ロイスを乗り回してバイアグラのセールスをして回ってるやつは、世界中探したって兄さんしかいない」
「……」
「高額な慰謝料を請求されてるとか」
コンラッドは顔を青くして指の力を緩めた。エリオットは兄を蔑んだ目で見上げて鼻で笑った。初音ミクのTシャツの胸元がだるだるに伸びきっている。
「お前だって、Googleに垢BAN食らってAmazonの物乞いリスト公開してんじゃねーか!」
コンラッドは大声を張り上げた。ダミアンはソファに座ったまま腕を組んだ。言い争いや喧嘩は、この家では日常茶飯事だった。
オリヴィアの言う通り、コンラッドは不倫の慰謝料、エリオットは整形のローン代で金に困っている。
「既婚者なのにバイアグラとコンドームを持ち歩いてる気持ち悪い奴に言われたくない」
ボソッと呟いた。コンラッドは明らかに動揺し、目を白黒させている。手がぶるぶる震えている。
「そりゃ仕事だから。仕方ないだろ」
「仕事ね、仕事」
エリオットはやれやれと肩をすくめた。余裕そうな表情はそう長く続かなかった。コンラッドが力任せに顔を殴ったからだ。大きな鈍い音が鳴る。エリオットは床に仰向けに倒れた。顔を押さえ、呻き声を上げる。
「うぅ゛……いてーな。プロテーゼずれたらどうすんだよ」
上半身を起こした。太陽の光に照らされて苦しそうに見える。目からぼろぼろ涙を零している。
「クソッ、コンタクトが外れた」
コンラッドは顔を青くしたり赤くしたり忙しい。自分が殴りつけたくせに、エリオットの様子を気にかけている。ゆっくり立ち上がり、床に転がったエリオットを見下ろした。盛大なため息を吐く。
「お前さ、遺言書の偽造ってできねーの?」
その言葉に反応したのはダミアンだった。傍目にはわからないが大きく目を見開き、ハッと息を飲む。エリオットは涙を拭い、太陽の光を避けるように柱の影に移動した。ボソボソ小さい声で返事をする。
「偽造は簡単だけど、俺には弁護士を欺くトーク力がない」
「それはおれがなんとかするよ」
コンラッドは乱れた手首のカフスボタンを直しながら答えた。あの堅物そうな弁護士を説得するのは不可能に思えた。ただ、コンラッドの営業成績は縁故入社とは思えないほど優れているのもまた事実だった。
「あのー、せめて僕のいないところで話してくれます?」
ダミアンはとうとう耐えきれなくなり口を挟んだ。コンラッドが初めてダミアンのほうへ視線を向け、目を細めた。小さく鼻を鳴らす。
「あぁ、いたの? 気づかなかったわ」
「ノンデリ厄介野郎……デュフ」
エリオットが自身の爪をガリガリ噛みながら、気味の悪い笑い声を漏らした。整形顔に不釣り合いな言動。猫背でオタクっぽい、どこからどう見ても不審者だった。
「あ? 厄介? そりゃ厄介だろうよ。ヤクばら蒔いてんだ。アメリカにいる保守的なキリスト教徒の、ざっと一億人には嫌われてる」
コンラッドは弟を見て嘆息した。エリオットとは違う、いかにも真面目そうなサラリーマンの顔をしている。今しがた人を殴ったとはとても思えない。
そして二人とも、父親を殺された息子の顔をしていなかった。金のことしか考えていない。
0
あなたにおすすめの小説
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~
朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。
婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」
静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。
夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。
「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」
彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。
ソウシソウアイ?
野草こたつ/ロクヨミノ
恋愛
政略結婚をすることになったオデット。
その相手は初恋の人であり、同時にオデットの姉アンネリースに想いを寄せる騎士団の上司、ランヴァルド・アーノルト伯爵。
拒否に拒否を重ねたが強制的に結婚が決まり、
諦めにも似た気持ちで嫁いだオデットだが……。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
【完結】番としか子供が産まれない世界で
さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。
何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。
そんなニーナが番に出会うまで
4話完結
出会えたところで話は終わってます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる