復讐はスマートグラスとともに

暁ノ鳥

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第8章

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 その日の朝、開発部の空気は、奇妙な緊張感と戸惑いに満ちていた。
 その原因は、俺と、俺の目の前にいる男――田中部長だ。

「さ、佐藤さん。……おはよう、ございます。コーヒー、お持ちしました。お好みのキリマンジャロです」

 田中は、まるで壊れかけのロボットのようにぎこちない動きで、俺のデスクに淹れたてのコーヒーを置いた。
 その声は、昨日までの怒声が嘘のようにか細く、媚びへつらうような響きを帯びている。
 顔は青ざめ、俺と目を合わせようともしない。

 周囲の同僚たちが、信じられないものを見る目で、俺たちを遠巻きに観察しているのが分かった。
 ヒソヒソと交わされる囁き声、困惑と猜疑に満ちた視線。
 
 嵐のようだった田中が、なぜか俺に対してだけ、従順な子犬のように振る舞っている。
 その異常事態を、誰も理解できずにいた。

 当然だ。俺が、この男の魂の首輪を握っていることなど、知る由もないのだから。
 俺は、内心の愉悦を完璧に隠し、無表情のまま頷いた。
 
「ああ、どうも。そこに置いといて」
「は、はい! 失礼します!」
 
 田中は、慌てて頭を下げると、逃げるように自分の個室へと戻っていった。

 ――実に、愉快だ。

 俺は、奴が淹れたコーヒーを一口すする。
 うん、美味い。奴隷が主人に捧げた、屈辱の味がする。

 この、全てを意のままに操る感覚。
 昨日、初めて味わったこの快感は、もはや麻薬のように俺の心を蝕み、次の獲物を渇望させていた。

 俺の視線は、自然とフロアの一点に吸い寄せられる。
 そこにいたのは、白石美咲。

 彼女は、このオフィス内の異常な空気などまるで意に介さない様子で、背筋をピンと伸ばし、優雅な手つきでタブレットを操作している。
 その完璧な横顔は、まるで美術館に飾られた彫刻のように、冷たい美しさを放っていた。

 俺の心を最も深く抉った、あの女。

 俺は、ドミネーターに意識を集中させる。
 ターゲット、白石美咲。

『――PSYCHO-SCAN、実行』

 俺の視界に、彼女のパラメータが即座に表示される。
 
《TARGET: SHIRAISHI, MISAKI》
《STRESS LEVEL: 12% (VERY LOW)》
《EMOTIONAL STATE: 平静 95%, 集中 5%》

 ……なんだ?
 
 田中の時とは、まるで違う。
 感情の起伏が、ほとんどない。
 まるで、感情そのものが存在しないかのような、不自然なほどの平坦さ。

 俺は、さらに深層のデータを要求する。

《PSYCHO-ANALYSIS RESULT》
【演技制御: 85%】
【職業的冷静さ: 75%】
【感情抑制(リミッター): 90%】
【脅威評価(周囲): 65%】

「……なんだ、これは」
 
 思わず、声が漏れた。
 
 演技制御?
 感情抑制リミッター?
 
 まるで、彼女の内面に、もう一人の自分がいて、表に出てくる感情を意図的にコントロールしているかのようだ。
 普通の人間が持つ、感情の「揺らぎ」というものが、データからまったく感じられない。

 ――普通の秘書じゃないな。

 俺のエンジニアとしての探求心が、強く刺激された。
 この女、一体何者だ?

 俺は、すぐさま次の手を打つ。

『――INFO-HUNTER、起動。ターゲット、白石美咲の所持デバイスに接続』

 だが、ドミネーターが返してきた答えは、意外なものだった。
 
《CONNECTION FAILED》
《TARGET'S DEVICES ARE PROTECTED BY HIGH-LEVEL ENCRYPTION AND ACTIVE ANTI-INTRUSION SYSTEM》
《WARNING: FURTHER ATTEMPTS MAY BE DETECTED》

 ――防がれた?
 このドミネーターの侵入を防ぐだと?

 ありえない。並のセキュリティではない。
 これは、国家機密レベルの防御壁だ。
 
 ますます、怪しい。
 この女の正体を、絶対に暴いてやる。

 ◇

 その日から、俺の別の「仕事」が始まった。
 昼間は、従順になった田中を顎で使いながら、退屈なバグ修正をこなすフリをする。
 そして、その裏で、俺はドミネーターの全機能を駆使して、白石美咲という名の謎の要塞を、外堀から埋めるように調査し続けた。

 そして、ある日の夜。
 チャンスは訪れた。

 定時ぴったりにオフィスを出た美咲を、俺は気づかれないように尾行した。
 渋谷の雑踏に紛れ、一定の距離を保ちながら、彼女の完璧な後ろ姿を追いかける。

 ドミネーターの望遠機能と行動予測AIが、人混みの中でもターゲットを見失うことなく、的確に俺をナビゲートしてくれた。

 彼女が向かったのは、高級レストランでも、ブランドショップでもなかった。
 渋谷の喧騒から少し離れた、裏路地にある、古びたジャズ喫茶。

 こんな場所に、あの白石美咲が?

 俺は、店の向かいにあるビルの陰に身を隠し、店内の様子を窺う。
 彼女は、窓際の席に一人で座り、コーヒーを注文すると、慣れた手つきでスマホを取り出した。

 会社の支給品ではない。
 彼女個人のものだ。

 ――好都合だ。

 俺は、ドミネーターのINFO-HUNTERを、最大出力で起動する。
 今度は、物理的な距離が近い。
 いかに強固なセキュリティでも、至近距離からの集中スキャンには、綻びが生まれるはずだ。

《TARGET DEVICE DETECTED... INITIATING BRUTE-FORCE ATTACK...》
《ENCRYPTION... DECODING... 25%... 50%... 75%...》
《ACCESS GRANTED》

 ――やった!

 俺の視界に、彼女のスマホの画面がミラーリングされる。
 俺は、息を殺して、その画面に表示された情報に目を凝らした。

 彼女が開いていたのは、暗号化されたチャットアプリ。
 そして、その通信相手の名前に、俺は目を見開いた。

【S.D.G. - KAMIYA】

 S.D.G.――サイバーダイン・グループ。
 テクノロジアの、最大の競合企業。

 そして、神谷(KAMIYA)という名。
 確か、サイバーダインのセキュリティ部門のトップの名前だったはずだ。

 俺の脳内で、全てのピースが、カチリと音を立ててはまった。
 そういうことか。

 白石美咲。お前は、ただの高慢な秘書じゃない。

 ――敵対企業が送り込んできた、産業スパイだったのか。

 俺を「キモいオタク」と蔑んだあの美しい唇が、会社の機密情報を敵に売り渡していた。
 俺の純粋な技術への情熱を、スパイ活動の片手間に、せせら笑っていた。

 許せない。
 許せない、許せない、許せない!

 怒りが、体の芯から沸騰する。
 だが、その怒りは、すぐに氷のように冷たい、残酷な喜びに変わっていった。

 ――面白い。面白くなってきたじゃないか。

 ただの女を屈服させるだけでは、つまらない。
 エリートスパイのプライドを、その美しい仮面もろとも、完膚なきまでに叩き壊してやる。

 それこそが、彼女にふさわしい、最高の復讐だ。

 俺は、ビルの暗闇の中で、静かに、そして深く、笑った。
 白石美咲、お前の正体は掴んだ。

 さあ、ショータイムの始まりだ。
 お前の人生を、俺の好きなように、デバッグしてやる。
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