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1巻
1-3
女の子同士の飲み会だと、かわいらしいグラスにビールを移し替えることも多いのだけれど、そういうことはしない。ピザだって、箱の一部をお皿代わりに使う横着っぷりだ。私と氷上がいかに気の置けない関係であるか示す光景だろう。
「だよな。蝋燭の炎で犯人の顔がチラッて見える演出、ゾクゾクした」
「ね! あのときの表情もよかったなぁ」
氷上とは、つくづく「いい」と思う感覚が合致する。同じ作品を見ても、正反対の感想になるのは珍しくないのに、まずそういうことがない。がっちりと噛み合っている歯車のように、彼の感想や意見には安心感を覚えるし、しっくりくるのだ。
「映像化したら楽しさ半減するかもと思ったけど、久々の当たりだった。教えてくれてありがとね、氷上」
「半年前、あれだけ悔しそうにしてたらいやでも覚えてるだろ、普通」
観てよかったし、一緒に観られてよかった。感謝の気持ちをこめてそう述べると、彼はそのときの私の様子を思い出しているのか、ちょっといじわるに笑う。
言われてみれば、「観たかったのに!」とか「氷上だけずるい!」とか、感情のままに愚痴ってしまったかもしれない。
だとしても、おかげで彼の印象に残って、こうして鑑賞できたわけだから、反省はしていない。
「こうやって一緒に映画観て、感想を語り合える友達がいるのって最高だよねぇ」
休みの日にビール片手にピザを食べながら、なんの気も遣わずに趣味の話に没頭する。女の子の友人でこれを一緒に楽しめる子がいるだろうか。脳内で検索をかけてみるけれど、ヒットはゼロ件。
氷上がいてくれて本当によかった。あのランチ直後の、殺伐とした感情が完全に浄化された。
欲を言えば、友達ではなく彼氏としてこの至福の時間を共有できればなお幸せなのだけど、さすがにそれは望みすぎだろう。
「……そうだな」
「なーに。不服そうな顔して」
個人的には同意がもらえそうな、いいことを言ったつもりだったのに。
氷上は表情を曇らせ、言葉少なにビールを呷っている。私が声色を変えて茶化すと、彼はふうっと小さく息を吐いた。
「別に」
……なにか気に障るようなことでも言っただろうか。いや、そんなことはないはずだけど。
「――ところで、今日はなにか特別な用事でもあったわけ?」
不思議に思っていると、氷上が仕切り直すように身体をこちらに向け、少し真剣なまなざしをする。
「どうしてそう思うの?」
「いつもと雰囲気違うなって」
彼の視線が私のシルエットをなぞった。
今日の私はブルーのストライプのワンピースに細めの黒いパンツを重ね、首元と手首にはゴールドの華奢なネックレスとブレスレット。普段はめったにしないフルメイクを施し、髪もしっかりブローして、濡れ髪風にスタイリングしている。
普段、氷上を含めた男友達と休日に会うときは、あまり気合を入れるのは場違いな気がして、パーカーとデニムが基本。メイクもファンデーションとリップだけ、なんてことが多く、髪もオフィスのときと同様、ひとつに結ぶか、キャップでごまかすかのどちらかだ。
明らかに外からの視線を気にした今の装いに、氷上が疑問を抱くのは当然だろう。
「あー……ま、ちょっと、ね」
「ふうん」
マッチングアプリで捜した相手と会ってました――とは、白状しづらい。
ふたりきりだと、お互いの異性関係の話になることがほぼないのだ。そういった話題が出るのは、鈴村や田所が加わったときだけ。だから、なんとなく言いにくくてはぐらかしてしまう。
氷上はうなずきながらも、納得はしていない様子だ。
「――もしかしてデート?」
「っ」
まさか深追いしてくるとは思わなくて、私は飲んでいたビールを噴き出してしまった。
「おい、大丈夫か?」
すぐに彼が近くのティッシュボックスに手を伸ばし、ワンピースの胸元に少しこぼれたビールを拭いてくれる。
私はビールの缶をテーブルに置くと、彼からティッシュを受け取り「ありがとう」と言いながら、もう一度自分で胸元を拭った。
「動揺するってことは、当たり?」
「ち、違うよっ。全然そんなんじゃない」
むきになって反論してから、これでは答えを教えているようなものだ、と思う。
……だめだ。核心を突かれると全然うそがつけない。
自分の単純さを心から呪った。
「そういや熊谷って、今彼氏いないって言ってたよな。作ろうって気はないの?」
だいたい染みを拭き取れたところで、ごみ箱代わりにしていたビニール袋にティッシュを丸めて捨てた。直後、氷上がさらに問いを重ねてくる。
「すっごいタイムリーなこと訊いてくるじゃん」
思わず笑ってしまった。全部見透かされているみたいな気がして、隠しているのがバカバカしく思えてくる。
「――実はさ、今日は男の人と会ってたんだ。マッチングアプリで知り合った人」
ふたり合わせて缶ビールの空き缶は六本。いい感じにアルコールが回り始めていることもあって、いっそ全部話すことにする。
彼に対して、具体的な恋愛のエピソードを話すのは本当に珍しい。もしかしたら初めてかもしれない。それくらい記憶にないからちょっと緊張して、氷上の顔を見られなかった。
足元の、シンプルなベージュのラグに視線を落としながら続ける。
「最初はいい人だなぁ、好きになれそうだなぁと思ってたんだけど、お昼ご飯食べて、お店出てすぐにホテルに誘ってきたんだよ。最悪でしょ?」
「…………」
「氷上? 聞いてる?」
返事がなかったので促しながら、ここでようやく氷上の表情を窺った。
彼は微かに眉間に皺を寄せ、なにかに耐えるように押し黙っている。怒りや苛立ち、そんな類の感情が、表情から感じ取れた。
……もしかして、友人の私が不本意な扱いを受けたことに憤ってくれているのだろうか。だとしたらうれしい。
彼はその表情のまま、聞いているという意思表示で一度だけうなずいた。
「どうせ、私みたいな女ならすぐにヤれそうって思ったんでしょ。あー、やだやだ」
例えば私が超のつく美人なら、相手だってもっと大切に扱ってくれたのかもしれない。「この程度の女ならすぐについてくるだろう」と思われていたとしたら心外だ。平凡な容姿の女にだって選ぶ権利くらいはある。
先刻の苛立ちを発散すると、氷上がソファの背もたれに寄りかかりながら、大きくため息を吐いた。
「……マッチングアプリなんか使うからだろ」
「しょうがないじゃん。この年齢になると自然な出会いなんてなかなかないし。それに、趣味が合う人を見つけるには最適でしょ」
今の私の環境では、すぐに相手を見つけるために、これ以上の方法は考えられない。
……そりゃ、氷上みたいに目を引くイケメンなら、道端で声をかけられたり、他の友達から「紹介して!」とかせがまれたりすることもあるんだろうけど。
「熊谷は趣味が合う彼氏がほしいんだ?」
「うん。さっきも映画観て、ちょこちょこ感想言い合いながら思ったけどさ……好きなものとか、ワクワクするものを分かち合える相手がいるのっていいよね。だから、彼氏にするなら、そういう人がいい」
今の時間で再認識した。私が一緒にいたいと思うのは、氷上みたいに、お互いが楽しいと思うことを共有して、膨らませることができる人。
梨生奈ちゃんが顔面偏差値と内面のスペックが絶対に譲れないポイントだと断言するのと同じように、私が相手にいちばん求めるものはやはりフィーリングなのだ。
「なら、俺だって」
「え?」
「……いや。なんでもない」
もどかしそうに言いかけた言葉を、氷上はすぐに呑み込んでしまった。
どういう意味だろうと一瞬考えるけれど、アルコールで蕩けてきた思考はそんな疑問などすぐに忘れ、意識は自然と缶ビールに向く。
「……お前、飲みすぎだぞ。その辺でやめとけ」
「今夜は飲まなきゃやってられないよ」
缶ビールの中身を一気に飲み干すと、その缶を潰して傍らに置いた。それから、冷蔵庫にも入れずテーブルの上に置きっぱなしの新たな缶に手を伸ばす。氷上の制止も聞かず、プルタブを開けて飲料水を飲むがごとく、ぐびぐびと飲み下していく。
先週の飲み会で田所がむしゃくしゃしていた理由が、今ならわかる気がする。自分の力ではどうにもならないことで落ち込んでいるときは、お酒の力を借りるしかない。
「――ほーんと、氷上はいいよね。昔から女の子にモテモテで、今だって周りのCAにちやほやされててさ。こんな悩みを持ったことなんてないでしょ?」
怒りの矛先は、いつしか氷上に向いた。
八つ当たりなのは十分に承知しているけれど、だいたい、私が焦ってアプリを始めたのは、氷上が私を恋愛対象外だとバッサリ斬り捨てたところに起因している。
こんないやな思いをしているのは氷上のせいだ。酔っぱらいの脳内では、そんな飛躍した理論が正当化されつつあった。
「俺に当たるなよ」
氷上は困ったように笑うだけだ。
それはそうだろう。本当のところ、彼はちっとも悪くない。
「当たりたくもなるよ。ずーっと彼氏がいない私の身にもなってよ」
だけど今の私にはそんなこと関係ないのだから、感情の赴くまま愚痴を吐き続ける。
「ずーっといない?」
「うん。ずーっと。高校のときからね」
一瞬だけ、氷上の表情が驚きに満ちたような気がした。この十年、誰とも付き合っていないなんて、モテ男の彼には信じがたいのだろう。
――もっと言うと、男性とお付き合いしたこと自体がないんですけどね!
いや、そこまで暴露したら引かれるか。さすがにぶっちゃけすぎだろう。
「……そうなんだ。俺も似たようなものだよ」
同調するようにうなずくと、彼は私を安心させるみたいにそう言った。
「氷上と一緒にしないでよ。その気になればいつだって彼女作れるくせに」
私と氷上のどこが似ていると言うのか。私はスイッチを押されたみたいに口調を荒らげる。けれど彼は、主張を曲げずに首を横に振る。
「そうでもないよ。好きな女にはなかなか振り向いてもらえないし」
「好きな人いるんだ。知らなかった」
この間の飲み会でさえ、そんな話は一言も出なかった。声のボリュームが大きくなってしまうのを意識しつつ、内心で動揺する。
……そうか。好きな人いたんだ。じゃあどっちにしろ望みはなかったわけだよね。
できれば知りたくなかった事実だ。胸に、重たくて苦いものが落ちていく。
「告白しないの? その子に」
こうなったら開き直ってあれこれ訊くしかない。でなければ、ショックのあまり黙り込んでしまいそうで、無理やり明るく振る舞うしかないのだ。
「勝率は低そうだから」
「当たって砕ければいいのに」
「他人ごとだからって」
氷上が笑いながら突っ込む。どうせ相手は自分じゃないのだし、という投げやりな思いで質問したため、確かに適当すぎるアドバイスだ。
「勝ち目がない戦はしないタイプなんだ」
「できればな。もう少し距離を縮めたい、とは思ってるけど」
「へぇ」
――羨ましいなぁ。この世に、氷上にそんなふうに想われている女の子がいるっていう、その事実が。
いったいどんな子なんだろう。とても気になるけれど、知ったら知ったで後悔しそうだから、これ以上は追及しないほうが自分のメンタル的にも正解だろう。
「……そっか。頑張ってね。応援してる」
「どうも」
まったく感情がこもっていないエールに、氷上が気が付かなくてよかった。
……なんか急に疲れた。
私も氷上がそうしているように、ソファの背もたれに寄りかかる。
この家のソファはリクライニング機能がついていて、頭までしっかり支えてくれる作りなのが心地いい。カバーがヴィンテージっぽいレザーなのも、個人的には好みだ。
「あぁ……彼氏ほしいなぁ……」
天井を仰ぐと木製のシーリングライトが視界に入った。その煌々とした明かりを見つめながら、ぼそっとつぶやく。
氷上の片想いが成就して彼女ができたら、こんなふうにふたりで過ごす時間は確実に減るはずだ。というか、彼女の気持ちを考えるなら、いくら気の置けない友人だとしても、異性とふたりきりで会うのは不誠実だろう。
……そうか。そうだよね。頭では理解しているつもりだけど、実際そうなってしまったらすごく寂しいんだろうな。
孤独感に苛まれる前に、私も早く相手を見つけなきゃ――
あー……なんか、頭がふわふわしてきた。一気に飲みすぎたかな……
まぶたが重くなってきて、ゆっくりと目を閉じる。
「そんなにほしいならさ」
それまでよりもずっと近くで、氷上の声が聞こえた。
反射的に目を開けると――鼻先が触れそうなほど、彼の顔が近づいていることに気が付く。
「俺でよくない?」
「氷上……?」
それってどういう意味?
脳内で繰り返し考えつつ、今の私には、その言葉が本当に氷上の口から放たれたものなのかどうか、判断がつかない。
思考がクリームのようにとろとろと溶けていく。アルコールがもたらした恍惚によって、徐々に視界が暗くなり――なにも見えなくなった。
目を覚ましたとき、自分がどこにいるのかまったくわからなかった。
視界に映し出される真っ白な天井と、おしゃれな木製のシーリングライトで、ここが自宅以外のベッドであることだけはすぐに理解する。
……あれ。私、なにしてたんだっけ……?
――あぁそうだ。アプリの人と会って、その帰りに氷上の家に行って、ご飯食べて、お酒を飲んで……そのあと……?
「……っ⁉」
記憶を辿っていると、なんだか肌寒い。
思わず両腕を擦ったとき、シーツの下の自分が素っ裸であることに気付き、言葉を失う。
――服、着てない。なんで……?
愕然としながら寝返りを打つ。
「っ!」
そこにはもっと衝撃の光景が広がっていた。シーツに包まり全裸で寝ていた私のすぐとなりで、氷上が私のほうへ身体を向けて眠っている――あろうことか彼も、上半身が裸で。
え? え? どうして? なにが起きてるの?
慌てて辺りを見回してみる。
見慣れない部屋だ。ここはどうやら寝室らしい。薄いグレーのカーテンの隙間から差し込む陽の光によって、朝になったことを知る。
……思い出せない。私、昨日なにをしたの?
どうしてこんな状況になってるの……?
最新の記憶を必死に呼び起こす。
……えっと確か、けっこう酔っててなんでも話せちゃうテンションだったから、彼氏がほしいって話をしたんだ。そしたら――
『俺でよくない?』
氷上に迫られて、そう訊かれたような……いや、でもわからない。その辺りの光景はぼやーっとしていて、私の脳が勝手に作り上げた幻想なのかも。
久々に彼の部屋に呼ばれて少しドキドキしてたから、その可能性が高い。
二日酔いになっていないことだけが唯一の救いだ。これで体調にまで影響が出ていたら、目も当てられない。
ベッドの周辺に、私が着ていたワンピースやら、下着やらが散乱している。
私はすぐそばにいる彼を起こさないように慎重にベッドから這い出たあと、そっと床に着地した。それから、点々と散らばる衣服をかき集める。
――早く着なきゃ。そしていったん外に出て落ち着こう。このまま氷上と同じ空間に留まるなんて耐えられそうにない。
ブラとショーツ。キャミソール。ワンピース。デニム。それらを順番に身に着けていく。
コートは確かリビングのハンガーにかけてあるはずだ。このまま部屋を出て、リビングへ――
「おはよう」
――向かおうとしたところで、背後から声をかけられる。
私は錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく振り返った。
「っお、……おは、よう」
もっと自然に発したつもりが、実際はほとんど音にならなかった。
いつの間にやら目を覚ましたらしい氷上が、そこに立っている。手を伸ばせば触れられる距離だ。
「もう帰るの? ちょっと待って」
彼は私の手首を取って引き寄せると、そうすることが自然であるかのようにそっとハグした。
「きゃあああああ!」
私は悲鳴を上げながら彼の胸を押す。厚みのある胸板に指先が触れると余計にドキドキして、ただでさえ鈍い思考が停止する。
……め、目のやり場に困る。
極力、彼の首から下を見ないように努めながら、一歩下がって距離を取った。
「声デカすぎ」
「ご、ごめ……だって、氷上が急にそういうことするからっ……」
外国人じゃあるまいし、挨拶代わりにいきなりハグされたら戸惑う。
思ったよりも彼の背丈が高いことに、今さらながらびっくりした。
これまでの接し方では、体格の差を感じる場面はほとんどなかったから、彼が異性であることをまざまざと見せつけられた気分だ。
っていうか、氷上はなにを考えてるの? どういうつもりでハグなんて……
「そういうことって、どういうこと?」
「だ、だから……だ、抱きしめたりする、ことっ……」
氷上がしらじらしく訊ねるので、口ごもりながら答える。すると彼は、残念そうに眉を下げた。
「傷つくな。夕べはあんなに積極的だったくせに」
「え……⁉」
……積極的、とは?
心当たりがまったくないため、もう一度昨夜の記憶を辿ってみる。
けれど、記憶そのものを持ち合わせていないわけだから、確認のしようがない。
「熊谷のほうから誘ってきたのに、その反応はないだろ」
誘うって――えっ、えっ? そういう意味の誘う? 男女的な意味で?
……バカな。私がそんな大胆なことを、よりにもよって氷上に仕掛けるはずがない。
「まさか覚えてないなんて言わないよな?」
そう思うのに、目の前の氷上の表情は至って真剣で、とてもうそを吐いているようには見えない。
――全然、覚えてない!
……とは、言えるわけがない。
この年になって、酔って男友達を誘い一線を越え。しかもそれをまるっと忘れてしまうとか……あまりにも情けなさすぎる。
「もちろん覚えてるよ。あ、当たり前じゃない」
起きてしまったことはもう変えられない。なら、少しでも傷が浅いほうを選ぶのみだ。
私は狼狽を押し隠し、もっともらしく虚勢を張った。
「へぇ?」
すると、氷上が意外そうに眉を上げた。私の様子から、忘れているだろうと予測していたのかもしれない。
「じゃあもちろん、身体の相性が抜群だったことも、覚えてるんだよな?」
――えっ、そうなの?
口に出して問いかけそうになるのをなんとか堪えた。
「……熊谷の気持ちよさそうな顔、今思い出してもそそられる」
昨夜の出来事を脳裏で辿っているのだろうか。氷上は興奮を帯びた掠れ声でそうつぶやきながら、私の顔を熱っぽくじっと見つめる。
「と、当然。覚えてるけどっ」
平静を装いつつも、私の心臓はバクバクと激しい音を立てていた。
――なに、その視線と声。こんな雄っぽい氷上、初めてなんですけど……?
「なら話は早い。そこで提案なんだけど」
氷上はうっすらと笑みを浮かべてこう言った。
「俺たちお互い、今は恋人がいないだろ。どっちかに相手ができるまでの期間限定で、こういう関係を続けるっていうのはどう?」
――は……?
「な、なに言ってるの。それってつまり……セ、セフレってこと……?」
「平たく言えばそうだな」
私は耳を疑った。
あっさりと肯定する氷上に、ぶるぶると激しく首を横に振る。
「む、無理無理っ。身体だけの関係なんて、そんなのっ」
氷上の言っていることがまったくわからない。
私たちはこの十年、健全な友人関係を築いてきたはずだ。なのにどうして、そんな不埒な真似をしなければならないというのか。
しかも私の最後の記憶では、氷上には好きな人がいるはずだ。なかなか思いが通じなそうだと話していたその女性の存在があるにもかかわらず、なんで関係のない私なんかと……?
「じゃあ熊谷は忘れられるの? 昨日のこと」
断固拒否する私に、氷上は思わせぶりに問いかけてくる。
「今さら潔癖ぶったって、一度シてるんだから意味ないよ。ふたりであんなに気持ちよくなれるってわかったんだから、また触れ合いたいと思うのは自然なことだろ」
「な……」
――ふたりであんなに気持ちよく……? それくらい盛り上がったのか……
って言われても! その昨夜の記憶がないんだからわからないんだってば!
「それぞれフリーなんだし、誰かを裏切ってるわけじゃないよな。セフレって言うと聞こえが悪いけど、俺たちが友達であることは変わらないわけだし、メリットしかなくない?」
妄想ばかりを膨らませていると、氷上が解せないとばかりに私を説得する。
「え、でもっ」
「それとも、熊谷にはなにか不都合がある? あるなら教えて」
そう言われてよく考えてみたが……明確な不都合というのはないのかもしれない。
むしろ、私にとっては好都合のように思えてくる。
好きな人と恋人同士のように触れ合えるのだ。そこに気持ちが伴っていなかったとしても、形だけでも氷上に求められる存在になれる。
……それって悪いことではないのでは?
そんなふうに思いかけて、もうひとりの私が「いやいや!」と騒ぎ立てる。
普通にだめでしょ! だめだめ。だめ!
私は氷上の彼女になりたいわけで、セフレになりたかったんじゃない。
身体のみ求められたってうれしくもなんともない。
だってそれは、私に特別な感情があるからじゃなくて、欲望を満たすためだけの行為なのだから。あまりにも空しい。
……でも。身体の関係を続けていれば次第に心も接近する――なんてこともあり得るのではないだろうか。
氷上にとって私は恋愛対象外で、なおかつ別に好きな人がいる。
どうせ叶わない恋なのだ。それならこれをチャンスに変えて、一発逆転を狙ってみるのはアリなのかもしれない。
「だよな。蝋燭の炎で犯人の顔がチラッて見える演出、ゾクゾクした」
「ね! あのときの表情もよかったなぁ」
氷上とは、つくづく「いい」と思う感覚が合致する。同じ作品を見ても、正反対の感想になるのは珍しくないのに、まずそういうことがない。がっちりと噛み合っている歯車のように、彼の感想や意見には安心感を覚えるし、しっくりくるのだ。
「映像化したら楽しさ半減するかもと思ったけど、久々の当たりだった。教えてくれてありがとね、氷上」
「半年前、あれだけ悔しそうにしてたらいやでも覚えてるだろ、普通」
観てよかったし、一緒に観られてよかった。感謝の気持ちをこめてそう述べると、彼はそのときの私の様子を思い出しているのか、ちょっといじわるに笑う。
言われてみれば、「観たかったのに!」とか「氷上だけずるい!」とか、感情のままに愚痴ってしまったかもしれない。
だとしても、おかげで彼の印象に残って、こうして鑑賞できたわけだから、反省はしていない。
「こうやって一緒に映画観て、感想を語り合える友達がいるのって最高だよねぇ」
休みの日にビール片手にピザを食べながら、なんの気も遣わずに趣味の話に没頭する。女の子の友人でこれを一緒に楽しめる子がいるだろうか。脳内で検索をかけてみるけれど、ヒットはゼロ件。
氷上がいてくれて本当によかった。あのランチ直後の、殺伐とした感情が完全に浄化された。
欲を言えば、友達ではなく彼氏としてこの至福の時間を共有できればなお幸せなのだけど、さすがにそれは望みすぎだろう。
「……そうだな」
「なーに。不服そうな顔して」
個人的には同意がもらえそうな、いいことを言ったつもりだったのに。
氷上は表情を曇らせ、言葉少なにビールを呷っている。私が声色を変えて茶化すと、彼はふうっと小さく息を吐いた。
「別に」
……なにか気に障るようなことでも言っただろうか。いや、そんなことはないはずだけど。
「――ところで、今日はなにか特別な用事でもあったわけ?」
不思議に思っていると、氷上が仕切り直すように身体をこちらに向け、少し真剣なまなざしをする。
「どうしてそう思うの?」
「いつもと雰囲気違うなって」
彼の視線が私のシルエットをなぞった。
今日の私はブルーのストライプのワンピースに細めの黒いパンツを重ね、首元と手首にはゴールドの華奢なネックレスとブレスレット。普段はめったにしないフルメイクを施し、髪もしっかりブローして、濡れ髪風にスタイリングしている。
普段、氷上を含めた男友達と休日に会うときは、あまり気合を入れるのは場違いな気がして、パーカーとデニムが基本。メイクもファンデーションとリップだけ、なんてことが多く、髪もオフィスのときと同様、ひとつに結ぶか、キャップでごまかすかのどちらかだ。
明らかに外からの視線を気にした今の装いに、氷上が疑問を抱くのは当然だろう。
「あー……ま、ちょっと、ね」
「ふうん」
マッチングアプリで捜した相手と会ってました――とは、白状しづらい。
ふたりきりだと、お互いの異性関係の話になることがほぼないのだ。そういった話題が出るのは、鈴村や田所が加わったときだけ。だから、なんとなく言いにくくてはぐらかしてしまう。
氷上はうなずきながらも、納得はしていない様子だ。
「――もしかしてデート?」
「っ」
まさか深追いしてくるとは思わなくて、私は飲んでいたビールを噴き出してしまった。
「おい、大丈夫か?」
すぐに彼が近くのティッシュボックスに手を伸ばし、ワンピースの胸元に少しこぼれたビールを拭いてくれる。
私はビールの缶をテーブルに置くと、彼からティッシュを受け取り「ありがとう」と言いながら、もう一度自分で胸元を拭った。
「動揺するってことは、当たり?」
「ち、違うよっ。全然そんなんじゃない」
むきになって反論してから、これでは答えを教えているようなものだ、と思う。
……だめだ。核心を突かれると全然うそがつけない。
自分の単純さを心から呪った。
「そういや熊谷って、今彼氏いないって言ってたよな。作ろうって気はないの?」
だいたい染みを拭き取れたところで、ごみ箱代わりにしていたビニール袋にティッシュを丸めて捨てた。直後、氷上がさらに問いを重ねてくる。
「すっごいタイムリーなこと訊いてくるじゃん」
思わず笑ってしまった。全部見透かされているみたいな気がして、隠しているのがバカバカしく思えてくる。
「――実はさ、今日は男の人と会ってたんだ。マッチングアプリで知り合った人」
ふたり合わせて缶ビールの空き缶は六本。いい感じにアルコールが回り始めていることもあって、いっそ全部話すことにする。
彼に対して、具体的な恋愛のエピソードを話すのは本当に珍しい。もしかしたら初めてかもしれない。それくらい記憶にないからちょっと緊張して、氷上の顔を見られなかった。
足元の、シンプルなベージュのラグに視線を落としながら続ける。
「最初はいい人だなぁ、好きになれそうだなぁと思ってたんだけど、お昼ご飯食べて、お店出てすぐにホテルに誘ってきたんだよ。最悪でしょ?」
「…………」
「氷上? 聞いてる?」
返事がなかったので促しながら、ここでようやく氷上の表情を窺った。
彼は微かに眉間に皺を寄せ、なにかに耐えるように押し黙っている。怒りや苛立ち、そんな類の感情が、表情から感じ取れた。
……もしかして、友人の私が不本意な扱いを受けたことに憤ってくれているのだろうか。だとしたらうれしい。
彼はその表情のまま、聞いているという意思表示で一度だけうなずいた。
「どうせ、私みたいな女ならすぐにヤれそうって思ったんでしょ。あー、やだやだ」
例えば私が超のつく美人なら、相手だってもっと大切に扱ってくれたのかもしれない。「この程度の女ならすぐについてくるだろう」と思われていたとしたら心外だ。平凡な容姿の女にだって選ぶ権利くらいはある。
先刻の苛立ちを発散すると、氷上がソファの背もたれに寄りかかりながら、大きくため息を吐いた。
「……マッチングアプリなんか使うからだろ」
「しょうがないじゃん。この年齢になると自然な出会いなんてなかなかないし。それに、趣味が合う人を見つけるには最適でしょ」
今の私の環境では、すぐに相手を見つけるために、これ以上の方法は考えられない。
……そりゃ、氷上みたいに目を引くイケメンなら、道端で声をかけられたり、他の友達から「紹介して!」とかせがまれたりすることもあるんだろうけど。
「熊谷は趣味が合う彼氏がほしいんだ?」
「うん。さっきも映画観て、ちょこちょこ感想言い合いながら思ったけどさ……好きなものとか、ワクワクするものを分かち合える相手がいるのっていいよね。だから、彼氏にするなら、そういう人がいい」
今の時間で再認識した。私が一緒にいたいと思うのは、氷上みたいに、お互いが楽しいと思うことを共有して、膨らませることができる人。
梨生奈ちゃんが顔面偏差値と内面のスペックが絶対に譲れないポイントだと断言するのと同じように、私が相手にいちばん求めるものはやはりフィーリングなのだ。
「なら、俺だって」
「え?」
「……いや。なんでもない」
もどかしそうに言いかけた言葉を、氷上はすぐに呑み込んでしまった。
どういう意味だろうと一瞬考えるけれど、アルコールで蕩けてきた思考はそんな疑問などすぐに忘れ、意識は自然と缶ビールに向く。
「……お前、飲みすぎだぞ。その辺でやめとけ」
「今夜は飲まなきゃやってられないよ」
缶ビールの中身を一気に飲み干すと、その缶を潰して傍らに置いた。それから、冷蔵庫にも入れずテーブルの上に置きっぱなしの新たな缶に手を伸ばす。氷上の制止も聞かず、プルタブを開けて飲料水を飲むがごとく、ぐびぐびと飲み下していく。
先週の飲み会で田所がむしゃくしゃしていた理由が、今ならわかる気がする。自分の力ではどうにもならないことで落ち込んでいるときは、お酒の力を借りるしかない。
「――ほーんと、氷上はいいよね。昔から女の子にモテモテで、今だって周りのCAにちやほやされててさ。こんな悩みを持ったことなんてないでしょ?」
怒りの矛先は、いつしか氷上に向いた。
八つ当たりなのは十分に承知しているけれど、だいたい、私が焦ってアプリを始めたのは、氷上が私を恋愛対象外だとバッサリ斬り捨てたところに起因している。
こんないやな思いをしているのは氷上のせいだ。酔っぱらいの脳内では、そんな飛躍した理論が正当化されつつあった。
「俺に当たるなよ」
氷上は困ったように笑うだけだ。
それはそうだろう。本当のところ、彼はちっとも悪くない。
「当たりたくもなるよ。ずーっと彼氏がいない私の身にもなってよ」
だけど今の私にはそんなこと関係ないのだから、感情の赴くまま愚痴を吐き続ける。
「ずーっといない?」
「うん。ずーっと。高校のときからね」
一瞬だけ、氷上の表情が驚きに満ちたような気がした。この十年、誰とも付き合っていないなんて、モテ男の彼には信じがたいのだろう。
――もっと言うと、男性とお付き合いしたこと自体がないんですけどね!
いや、そこまで暴露したら引かれるか。さすがにぶっちゃけすぎだろう。
「……そうなんだ。俺も似たようなものだよ」
同調するようにうなずくと、彼は私を安心させるみたいにそう言った。
「氷上と一緒にしないでよ。その気になればいつだって彼女作れるくせに」
私と氷上のどこが似ていると言うのか。私はスイッチを押されたみたいに口調を荒らげる。けれど彼は、主張を曲げずに首を横に振る。
「そうでもないよ。好きな女にはなかなか振り向いてもらえないし」
「好きな人いるんだ。知らなかった」
この間の飲み会でさえ、そんな話は一言も出なかった。声のボリュームが大きくなってしまうのを意識しつつ、内心で動揺する。
……そうか。好きな人いたんだ。じゃあどっちにしろ望みはなかったわけだよね。
できれば知りたくなかった事実だ。胸に、重たくて苦いものが落ちていく。
「告白しないの? その子に」
こうなったら開き直ってあれこれ訊くしかない。でなければ、ショックのあまり黙り込んでしまいそうで、無理やり明るく振る舞うしかないのだ。
「勝率は低そうだから」
「当たって砕ければいいのに」
「他人ごとだからって」
氷上が笑いながら突っ込む。どうせ相手は自分じゃないのだし、という投げやりな思いで質問したため、確かに適当すぎるアドバイスだ。
「勝ち目がない戦はしないタイプなんだ」
「できればな。もう少し距離を縮めたい、とは思ってるけど」
「へぇ」
――羨ましいなぁ。この世に、氷上にそんなふうに想われている女の子がいるっていう、その事実が。
いったいどんな子なんだろう。とても気になるけれど、知ったら知ったで後悔しそうだから、これ以上は追及しないほうが自分のメンタル的にも正解だろう。
「……そっか。頑張ってね。応援してる」
「どうも」
まったく感情がこもっていないエールに、氷上が気が付かなくてよかった。
……なんか急に疲れた。
私も氷上がそうしているように、ソファの背もたれに寄りかかる。
この家のソファはリクライニング機能がついていて、頭までしっかり支えてくれる作りなのが心地いい。カバーがヴィンテージっぽいレザーなのも、個人的には好みだ。
「あぁ……彼氏ほしいなぁ……」
天井を仰ぐと木製のシーリングライトが視界に入った。その煌々とした明かりを見つめながら、ぼそっとつぶやく。
氷上の片想いが成就して彼女ができたら、こんなふうにふたりで過ごす時間は確実に減るはずだ。というか、彼女の気持ちを考えるなら、いくら気の置けない友人だとしても、異性とふたりきりで会うのは不誠実だろう。
……そうか。そうだよね。頭では理解しているつもりだけど、実際そうなってしまったらすごく寂しいんだろうな。
孤独感に苛まれる前に、私も早く相手を見つけなきゃ――
あー……なんか、頭がふわふわしてきた。一気に飲みすぎたかな……
まぶたが重くなってきて、ゆっくりと目を閉じる。
「そんなにほしいならさ」
それまでよりもずっと近くで、氷上の声が聞こえた。
反射的に目を開けると――鼻先が触れそうなほど、彼の顔が近づいていることに気が付く。
「俺でよくない?」
「氷上……?」
それってどういう意味?
脳内で繰り返し考えつつ、今の私には、その言葉が本当に氷上の口から放たれたものなのかどうか、判断がつかない。
思考がクリームのようにとろとろと溶けていく。アルコールがもたらした恍惚によって、徐々に視界が暗くなり――なにも見えなくなった。
目を覚ましたとき、自分がどこにいるのかまったくわからなかった。
視界に映し出される真っ白な天井と、おしゃれな木製のシーリングライトで、ここが自宅以外のベッドであることだけはすぐに理解する。
……あれ。私、なにしてたんだっけ……?
――あぁそうだ。アプリの人と会って、その帰りに氷上の家に行って、ご飯食べて、お酒を飲んで……そのあと……?
「……っ⁉」
記憶を辿っていると、なんだか肌寒い。
思わず両腕を擦ったとき、シーツの下の自分が素っ裸であることに気付き、言葉を失う。
――服、着てない。なんで……?
愕然としながら寝返りを打つ。
「っ!」
そこにはもっと衝撃の光景が広がっていた。シーツに包まり全裸で寝ていた私のすぐとなりで、氷上が私のほうへ身体を向けて眠っている――あろうことか彼も、上半身が裸で。
え? え? どうして? なにが起きてるの?
慌てて辺りを見回してみる。
見慣れない部屋だ。ここはどうやら寝室らしい。薄いグレーのカーテンの隙間から差し込む陽の光によって、朝になったことを知る。
……思い出せない。私、昨日なにをしたの?
どうしてこんな状況になってるの……?
最新の記憶を必死に呼び起こす。
……えっと確か、けっこう酔っててなんでも話せちゃうテンションだったから、彼氏がほしいって話をしたんだ。そしたら――
『俺でよくない?』
氷上に迫られて、そう訊かれたような……いや、でもわからない。その辺りの光景はぼやーっとしていて、私の脳が勝手に作り上げた幻想なのかも。
久々に彼の部屋に呼ばれて少しドキドキしてたから、その可能性が高い。
二日酔いになっていないことだけが唯一の救いだ。これで体調にまで影響が出ていたら、目も当てられない。
ベッドの周辺に、私が着ていたワンピースやら、下着やらが散乱している。
私はすぐそばにいる彼を起こさないように慎重にベッドから這い出たあと、そっと床に着地した。それから、点々と散らばる衣服をかき集める。
――早く着なきゃ。そしていったん外に出て落ち着こう。このまま氷上と同じ空間に留まるなんて耐えられそうにない。
ブラとショーツ。キャミソール。ワンピース。デニム。それらを順番に身に着けていく。
コートは確かリビングのハンガーにかけてあるはずだ。このまま部屋を出て、リビングへ――
「おはよう」
――向かおうとしたところで、背後から声をかけられる。
私は錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく振り返った。
「っお、……おは、よう」
もっと自然に発したつもりが、実際はほとんど音にならなかった。
いつの間にやら目を覚ましたらしい氷上が、そこに立っている。手を伸ばせば触れられる距離だ。
「もう帰るの? ちょっと待って」
彼は私の手首を取って引き寄せると、そうすることが自然であるかのようにそっとハグした。
「きゃあああああ!」
私は悲鳴を上げながら彼の胸を押す。厚みのある胸板に指先が触れると余計にドキドキして、ただでさえ鈍い思考が停止する。
……め、目のやり場に困る。
極力、彼の首から下を見ないように努めながら、一歩下がって距離を取った。
「声デカすぎ」
「ご、ごめ……だって、氷上が急にそういうことするからっ……」
外国人じゃあるまいし、挨拶代わりにいきなりハグされたら戸惑う。
思ったよりも彼の背丈が高いことに、今さらながらびっくりした。
これまでの接し方では、体格の差を感じる場面はほとんどなかったから、彼が異性であることをまざまざと見せつけられた気分だ。
っていうか、氷上はなにを考えてるの? どういうつもりでハグなんて……
「そういうことって、どういうこと?」
「だ、だから……だ、抱きしめたりする、ことっ……」
氷上がしらじらしく訊ねるので、口ごもりながら答える。すると彼は、残念そうに眉を下げた。
「傷つくな。夕べはあんなに積極的だったくせに」
「え……⁉」
……積極的、とは?
心当たりがまったくないため、もう一度昨夜の記憶を辿ってみる。
けれど、記憶そのものを持ち合わせていないわけだから、確認のしようがない。
「熊谷のほうから誘ってきたのに、その反応はないだろ」
誘うって――えっ、えっ? そういう意味の誘う? 男女的な意味で?
……バカな。私がそんな大胆なことを、よりにもよって氷上に仕掛けるはずがない。
「まさか覚えてないなんて言わないよな?」
そう思うのに、目の前の氷上の表情は至って真剣で、とてもうそを吐いているようには見えない。
――全然、覚えてない!
……とは、言えるわけがない。
この年になって、酔って男友達を誘い一線を越え。しかもそれをまるっと忘れてしまうとか……あまりにも情けなさすぎる。
「もちろん覚えてるよ。あ、当たり前じゃない」
起きてしまったことはもう変えられない。なら、少しでも傷が浅いほうを選ぶのみだ。
私は狼狽を押し隠し、もっともらしく虚勢を張った。
「へぇ?」
すると、氷上が意外そうに眉を上げた。私の様子から、忘れているだろうと予測していたのかもしれない。
「じゃあもちろん、身体の相性が抜群だったことも、覚えてるんだよな?」
――えっ、そうなの?
口に出して問いかけそうになるのをなんとか堪えた。
「……熊谷の気持ちよさそうな顔、今思い出してもそそられる」
昨夜の出来事を脳裏で辿っているのだろうか。氷上は興奮を帯びた掠れ声でそうつぶやきながら、私の顔を熱っぽくじっと見つめる。
「と、当然。覚えてるけどっ」
平静を装いつつも、私の心臓はバクバクと激しい音を立てていた。
――なに、その視線と声。こんな雄っぽい氷上、初めてなんですけど……?
「なら話は早い。そこで提案なんだけど」
氷上はうっすらと笑みを浮かべてこう言った。
「俺たちお互い、今は恋人がいないだろ。どっちかに相手ができるまでの期間限定で、こういう関係を続けるっていうのはどう?」
――は……?
「な、なに言ってるの。それってつまり……セ、セフレってこと……?」
「平たく言えばそうだな」
私は耳を疑った。
あっさりと肯定する氷上に、ぶるぶると激しく首を横に振る。
「む、無理無理っ。身体だけの関係なんて、そんなのっ」
氷上の言っていることがまったくわからない。
私たちはこの十年、健全な友人関係を築いてきたはずだ。なのにどうして、そんな不埒な真似をしなければならないというのか。
しかも私の最後の記憶では、氷上には好きな人がいるはずだ。なかなか思いが通じなそうだと話していたその女性の存在があるにもかかわらず、なんで関係のない私なんかと……?
「じゃあ熊谷は忘れられるの? 昨日のこと」
断固拒否する私に、氷上は思わせぶりに問いかけてくる。
「今さら潔癖ぶったって、一度シてるんだから意味ないよ。ふたりであんなに気持ちよくなれるってわかったんだから、また触れ合いたいと思うのは自然なことだろ」
「な……」
――ふたりであんなに気持ちよく……? それくらい盛り上がったのか……
って言われても! その昨夜の記憶がないんだからわからないんだってば!
「それぞれフリーなんだし、誰かを裏切ってるわけじゃないよな。セフレって言うと聞こえが悪いけど、俺たちが友達であることは変わらないわけだし、メリットしかなくない?」
妄想ばかりを膨らませていると、氷上が解せないとばかりに私を説得する。
「え、でもっ」
「それとも、熊谷にはなにか不都合がある? あるなら教えて」
そう言われてよく考えてみたが……明確な不都合というのはないのかもしれない。
むしろ、私にとっては好都合のように思えてくる。
好きな人と恋人同士のように触れ合えるのだ。そこに気持ちが伴っていなかったとしても、形だけでも氷上に求められる存在になれる。
……それって悪いことではないのでは?
そんなふうに思いかけて、もうひとりの私が「いやいや!」と騒ぎ立てる。
普通にだめでしょ! だめだめ。だめ!
私は氷上の彼女になりたいわけで、セフレになりたかったんじゃない。
身体のみ求められたってうれしくもなんともない。
だってそれは、私に特別な感情があるからじゃなくて、欲望を満たすためだけの行為なのだから。あまりにも空しい。
……でも。身体の関係を続けていれば次第に心も接近する――なんてこともあり得るのではないだろうか。
氷上にとって私は恋愛対象外で、なおかつ別に好きな人がいる。
どうせ叶わない恋なのだ。それならこれをチャンスに変えて、一発逆転を狙ってみるのはアリなのかもしれない。
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