乾坤一擲

響 恭也

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本能寺が変

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 京、本能寺。
 洛中の行事に参加するため、信長はここ本能寺に宿泊していた。もはや天下は定まり、わずかな手勢のみが周囲におり、寺内にも500ほどの兵がいるだけであった。
 同様に将軍信忠も妙覚寺に宿泊しており、こちらは1000ほどの兵である。また洛中の治安を維持するため、軽武装の兵5000を配していた。これは酔っ払いのけんかの仲裁や、それこそ夫婦喧嘩まで介入することもある。また災害時の救援や工事など、工兵の役割も持つ。

 払暁、洛中はざわめいていた。北西より1万ほどの兵が京に向かっているとの知らせを受けた。軍は二手に分かれ片方は本能寺を包囲し始める。
「敵は本能寺にあり!」
 軍を率いている大将が上げた声に兵が呼応した。

「何事か!?」
「謀反です! 敵は桔梗の家紋」
「明智か! 是非に及ばず…」
「大殿は落ちてくだされ!」
「光慶は凡庸なれど、秀満と利三は名将である。明智の両輪よ」
「なれば…」
「最後の戦と参ろうかのう」
「はは! お供いたします!」

 本能寺は織田の宿所とあって、堀と城壁を構え、城砦としても通用する備えであった。だがこちらは500。10倍の兵に取り囲まれ、さらに戦支度万全の相手に取り巻かれて抗しうるものではない。
 櫓に上がって弓を放つも、あっという間に鉄砲に制圧される。打って出るは愚の骨頂で、城門付近で何とか防ぐが、これもすぐに兵が討たれてゆく。
 信長自身も槍を振るい、敵兵を衝き伏せる。若いころから鍛え上げた武勇は壮年を過ぎ、老境に至るも衰えを見せなかった。
 城門を破られかけるが、内門と虎口で防ぐ。だが矢の備えもそれほどあるわけでなく、徐々に押されてゆく。
 払暁の兵の展開から白昼堂々の攻勢。だが信長自身の決死の抵抗によって夕刻に至るも本能寺は持ちこたえていた。

 喜六郎秀隆は騎馬武者を率いて洛中を駆け抜けていた。たまたま安土にいて変を聞いた彼は、手勢800ほどを率いて京に向かう。実は洛中に配していた兵は、秀隆子飼いの忍びが潜んでおり、彼らの情報網によって半日もすれば隣国に変事が届くのである。
 瀬田大橋を守る山岡兄弟はかつて光秀の与力であった。伝令は四方に飛んでいる。早ければ勝竜寺を守る長岡与一郎や、芥川の池田あたりの手勢が駆け付ける。秀隆はかつての本圀寺の変を思い出していた。そして敵兵はかつての三好のような弱卒でなく、精鋭の明智率いる丹波勢である。ひとえの望みとしては、本能寺には地下に外に出るための抜け道がある。あらかじめ小太郎の一手をそこの出口に配していた。

「良いか! 兄上を救うには一刻を争う。者ども駆けよ!」
「おおおおおおおおう!!」
 この半日がまさに勝負であった。ここで信長を討たれれば幕府の権威は地に落ち、信長の声望で収まっている地方がまた騒がしくなる。さらに妙覚寺の信忠が討たれれば戦国の世に逆戻りである。秀隆は内心の焦燥を隠しもせず、兵を叱咤した。

 息つく間もなく洛中に乱入する。南から松永勢が迫っていることは知らせが入っていた。秀隆は洛中警備隊に命じ、四方から援軍が来ていることを触れ回らせる。そして、池田勢1500が妙覚寺の敵勢の背後を衝いたとの知らせを受けた。同時に湖西から五郎秀信が兵を率いて合流する。
「叔父上、我が手勢1000は本能寺に向かいます!」
「よく来た。俺も行くが敢えて東から突っ切る。そなたは北から行け。まず兄上の離脱を最優先とする!」
 夕刻に入り、行く手に見える本能寺の周辺は篝火で明るく照らされていた。秀隆は騎馬武者の速度を落とさせず一気に突入させる。
 敵勢もまず東から来るものと備えがあり、陣容の一番分厚い地点を攻撃する形となった。最初は圧程度浸透できたが槍衾と密集陣形に阻まれ徐々に勢いが止まる。秀隆は采を振るい、兵の進行方向を左に曲げて、南へ突き抜けさせた。そのころ合いで北から五郎の兵が突入している。
 示し合わせたかのような挟撃に明智勢が動揺する。そして改めて南から突撃し、破られている城門から寺内に侵入を果たした。
「兄上、兄上!」
「おお、秀隆よ。よく入ってこれたな」
「御無事ですか!」
「ふん、このような浅手は怪我には入らんわ!」
「北から五郎の兵が攻め寄せております。手勢をまとめ五郎と合流し離脱を!」
「そうだな、我が身命をお主らに託す!」
「はっ!」
 本能寺生き残りの兵と合わせて、槍先を揃えて切り込む。内外から挟撃された形で、混乱する敵陣を一気に突っ切った。

 一方そのころ。妙覚寺では。
「勝三。頃合いかね」
「そうですな。本能寺周辺の旗指物が大きく動いています。あちらには援軍がいったものと」
「よし、流言を流せ。本能寺より信長が離脱した。逃がしてはならぬ、こちらから応援の兵を出せというところかね」
「よろしいかと」
 そして流言に踊らされた敵兵が移動を始める。そして手薄になった東側を池田輝政の兵が突破した。
 信忠は妙覚寺の兵をまとめ石山方面に退却を始める。そして勝竜寺の長岡藤孝と合流することに成功し、京都郊外まで離脱に成功した。

「それまで!!」

 審判の正親町上皇が声を張り上げる。
「これにて洛中防戦の訓練を終了とする。勝者は信長じゃ!」
「はは!」
「光慶よ。もうちと思い切りよく動くべきであったな。兵を完全に二分した挙句、さらにその兵力を分散したのは悪手であった」
「慎重に対応したつもりだったのですが…」
「そうだな、おそらく光秀であったなら…7000から8000を本能寺に差し向けたであろうよ。妙覚寺には抑えの兵でよい。最大の目標は儂の首であろうが。優先順位を間違えてはいかん」
「なるほど…やはり私は兵の指揮に向いていないようですね」
「まあ、お主は丹波開発に功がある。戦は得意なものに任せ、おぬしはその用意をしてやればよい」
「そうですね、兵站を整えるも立派な戦にござる」

 そして周囲では、明智の勝ちに賭けていた前田利家、丹羽長重、佐々成政あたりが悲鳴を上げていた。秀吉は信長の敗北に賭けるはずもなく、涼しい顔をしている。権六も笑いが止まらなくなっていた。
 さらに今上帝も見事に負け札をつかまされ、父である上皇にさらに頭が上がらなくなる。そんな夏の夜だった。
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