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序
しおりを挟む梅雨の合間を縫って、久しぶりに雲のない夜空に、星が煌めいていた。
下弦の月は更待月。山の端から昇るにはまだまだ間がある。
昨日までの雨のせいで空は澄み、白い真砂を散りばめたような星空が実に美しい。
「――星が流れた、な」
暗闇の中、天を仰ぎながら涼やかな声でそう呟いたのは、一人の童だった。
「熒惑星が逆行しておったから、どうなることかと思っておったが――なるほど、大星のほうが墜ちた、か」
「おや、羅睺が現れた、他の星を喰らってまわる、と星を読んでいたのは何処の誰だったかな?」
答える声は甲高く、やはりこれも童のようだ。しかし、姿は見えぬ。
「そうだったな。やはり羅睺だ。おお怖や、おお怖や」
童はくつくつと笑うと、再度視線を天に向ける。
艶やかな黒髪がさらりと額を流れる。
闇の中に浮かび上がる白い肌。どこか青く底光りしている宝玉のような眼。希代の仏師が掘りだしたかに見える静謐な美貌。
今はまだ六つ、七つ、というところだが、あと十年、いや、五年もしたら、さぞや周囲の耳目を驚かすだろうというほどの、美しい童だった。
「ただでさえ今の世は乱れきって、天も地もない。羅睺でもなければ、すべてを流しきることなぞ出来まいよ。すべてを流しきって、消し去って、灰燼の中から新たななにかを生み出すことなぞ、な」
「そちらこそ、天下泰平を祈る陰陽師の言葉とも思えんが。おお、怖や怖や」
「儂はべつに陰陽師ではないぞ」
揶揄するような言葉に、童は赤い唇を尖らせた。そうすると、年相応に幼い顔になる。
「そりゃあ仕官してるわけではないが。官位を持たねば陰陽師ではないということではなかろう?」
「陰陽師は父様じゃ」
童はぺろり、と小さく赤い舌を出した。
「儂はその娘にすぎぬ」
さあ、そろそろ帰ろうか。乳母やがうるさい、と歩き出した童の後ろから、声が追いかける。
「おい、肝心の星見はいいのか? もちっと身近な星を見に来たんじゃろ?」
「あ、忘れておった」
童は足を止め――小さく頭を振った。
「やはり止めよう。自らのことは、知らぬほうが楽しい」
「あとで泣きべそかいても知らぬぞ?」
「そうなったら慰めてくれ」
「泣きつくような可愛げがあるのかお主に」
「さあ」
くつくつという笑い声が闇に遠ざかる。
後は、静寂に星が瞬いているだけだった。
永禄三年五月二十日。
桶狭間にて織田信長が今川義元を破った翌の夜のことであった。
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