春日遅々

阿波野治

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 帰り道の途中にある児童公園のベンチに腰を下ろす気になった理由を問われれば、エミルは返答にまごついたに違いない。人気のない場所で一息つきたかったのかもしれないし、単に「公園のベンチに座って読書」という行為をしてみたかっただけかもしれない。確かなのは、今日が三月中旬にしては暖かな気候でなければ、エミルは児童公園を一瞥すらせずに帰宅していた、ということだ。

 さっそく袋から『アルジャーノンに花束を』を取り出し、読み始める。ストーリーは入り込みやすく、文章も読みやすかったが、読書に専念できない。遠くから人声や物音が聞こえるたびに、それが気になって集中力が途切れてしまうのだ。何事もないと分かり、文字に注目を戻しても、注意力は元の水準まで回復しない。ページをめくる手は次第に鈍くなる。

(帰ってから読んだ方がいいよね、絶対)

 そう思ったものの、すっぱり諦めるのは悔いが残る気がして、辛抱強く文章を目で追いかけ続けた。すると、慣れとは不思議なもので、次第に雑音が気にならなくなってきた。

「だい三けえかほおこく」まで読み終えた時、突然、動物の鳴き声が聞こえた。

 エミルは目をページに落としたまま耳を澄ませた。再び同じ鳴き声。犬の鳴き声だ、と分かった。なおも耳を凝らしたが、三回目は聞こえてこない。
 しかし間もなく、別の音が耳に届いた。何者かが地面を軽やかに蹴る音だ。次第にエミルがいる方に近づいてくる。顔を上げた。

 視界に飛び込んできたのは、茶色い毛のポメラニアン。ピンク色の細長いものを引きずりながら、まっしぐらにエミルに駆け寄ってくる。
 ポメラニアンはベンチに到着すると、二本足で立ち、エミルの右脚に両の前脚をかけ、ちぎれんばかりに尻尾を振った。

「わわっ……。ちょっと……」

 なにを訴えているのか。なにを欲しているのか。真意が掴めず、どう対応すればいいか分からない。黒く円らな瞳を見返した限り、エミルに敵意を持っているわけではないらしい。とはいえ、剥き出しの脚に軽く食い込む爪の感触は、痛みこそ感じないものの、少々気がかりだ。
 ポメラニアンはピンク色の首輪をつけている。首輪には同色のリードが接続している。

(どうしよう。この子、飼い主さんとはぐれたんだ。それとも、もしかして、捨てられたの? ……どうしよう。もし飼い主さんが見つからなかったら、エミルが飼わなきゃいけないのかな? でも、エミルが住んでるマンション、動物を飼うのは禁止だし――)
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