破滅への道程

阿波野治

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野球

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 チケットに印字された座席番号と、座席の背もたれの上部に刻印された座席番号を交互に見ながら、自らに宛がわれた座席へと近づいていく。母親と姉が座ったので、タカツグもその隣に座る。グラウンドに人の姿は確認できず、観客席にいる人間の数は驚くほど少ない。
 母親は早速鞄から弁当を取り出し、姉と二人で食べ始めた。タカツグは薄いビニールを破らないまま膝に載せ、仄かな温かみをただ感じる。どちらかと言えば空腹だったが、ピクニック気分で食事をする心境からは程遠い。
 野球観戦に興味を持てない自分自身に、彼は戸惑っていた。父親とキャッチボールをしたことすらないし、体育の授業では足手まといだが、姉とチャンネル争いをしてまでプロ野球中継を観るほど、その球技には入れ込んでいるというのに。
 自分たちにとって何か不都合な事態が起きるのでは、という漠然とした懸念が胸に芽生えた。とっくの昔から芽生えていたが、一定以上の大きさになるまで気がつかなかっただけだ、という気もする。懸念は緩やかだが歩みを止めることなく勢力を拡大し、周囲に目を配ることを宿主に強いる。
 どこからか小太りの男が接近してきたかと思うと、営業スマイルを浮かべて母親に声をかけた。タカツグは心身を緊張させて男を観察する。顔が脂ぎっているが、不潔さは感じられず、それが却って無気味だ。
 男は真っ赤な色をした何かを母親に差し出した。タカツグの目には、体育科の教師が常に首から垂らしているような、玩具じみたプラスチック製のホイッスルに見えた。
 物体の受け渡しを終えると、男は一抹の未練もなさそうに母親のもとを去った。
 母親と男がやりとりをしている間に、観客の数が飛躍的に増加している。この状況下で弁当を開けるのは躊躇われたが、いつまでも膝の上に置きっぱなしにしておくのも恥ずかしい。さっさと食べてしまうのが最善策だったと気がついたが、後の祭りだ。
 タカツグは哀訴の眼差しを母親に注いだ。小太りの男から無償で提供されたホイッスルらしき物体が手元から消え、梅肉が混ぜ込まれた球形のおにぎりに取って代わっている。ハンドバッグに仕舞ったのだろうか。弁当も中に入れてもらえばいい、と気がつく。

「すみません」

 タカツグよりも先に母親に声をかけた者がいる。黒縁眼鏡をかけた貧相な男と、その子供と見受けられる、同じく黒縁眼鏡をかけた十歳前後の男児。
 何万人かの観客全員から注目されているような感覚に、タカツグは思わず息を呑んだ。男性は言った。

「ここ、私たちの席なのですが、間違えていませんか」

 タカツグの全身を羞恥の炎が包んだ。右手に割り箸、左手に弁当の容器を掴んだまま、母親は席から立ち、去っていく。すみませんの一言もなく、逃げるように。
 少し遅れてタカツグが立ち上がると、連れだとは思ってもみなかったとでも言うように、親子は揃って眼鏡の奥の瞳を丸くした。火勢が一層激しさを増した。弁当を置き去りにしていこうかとも思ったが、恥を上塗りするだけの結果になるのは目に見えている。移動を開始した時には最早、周囲の人間はタカツグ母子には全く無関心で、却って屈辱的だった。
 惨めな気持ちは、まだ優勝チームが確定していない時期にしては寂しい外野席の一画で、弁当を食べ、試合を観戦しているうちに薄らいできた。
 関西を本拠地とするチームと関東に拠点を構えるチームとの一戦は、互いに淡々と投げ、淡々と打ち、淡々と走り、淡々と守っている。気がつくと得点が入っている印象だったが、そのくせ総得点の伸びは鈍い。
 九月の終わりの日中にしては空気が冷たい。タカツグは次第に寒さを耐え難く感じ始めた。尿意を催したが、席を誤った一件が尾を引いて、小用に立った隙に席を奪われそうな気がして、この場から離れるのは躊躇われた。自由席という概念を彼は失念していた。
 無名のキャッチャーがツーベースを打ったが、三塁を欲張ったためにライトからの返球に刺された。スリーアウトとなってイニングが終わり、残すは九回のラスト一イニングのみとなった。
 それを潮にタカツグは席を立った。ゲームセットまで膀胱が保たないと思ったし、試合が終わればトイレに人が殺到するのではないか、と懸念したからだ。
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