破滅への道程

阿波野治

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幼稚

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 入梅の時季はおろか、衣替えの季節さえまだ到来していないが、少し蒸し暑い。教室に着いて飲む、プラスチック製の水筒の蓋に注がれた一杯の冷たい緑茶は、文句なしに美味しいだろう。
 雨に濡れたブロック塀の側面には苔が疎らに生えていて、ヨーロッパを中心にした世界地図が描かれているようにも見える。オーストラリア大陸は丸っこく、南アメリカ大陸は錐のように細く、日本列島は四国が消失している。インド洋を西に向かって這っていたカタツムリは、タカツグの視線に射抜かれたとでもいうように、マダガスカル島の東の海上でその遅々とした歩みを突如として停止させた。体も殻も白く、ネイルを施していない爪を思わせた。
 視線が感じられなくなったのに前後して細道を抜け、タカツグの意識は胸に抱いた紫陽花へと注がれる。青紫色の小さな花の隙間にアマガエルは潜んでいないだろうかと、存在しないと承知しながら熱心に目で探す。三日前、駐車場で遊んでいた時に、そのようなシチュエーションに遭遇した影響だろう。
 赤紫色の花だった。黄緑と赤紫は掛け離れているのに、カモフラージュに成功していると思い込んでいるのか、至極大人しかったため、素手で容易に捕獲できた。
 予想外の事態に驚いたらしく、アマガエルは一転して激しくもがき始めた。気味が悪くなり、叩きつけるように地面に擲った。
 飛び跳ねながら、急ぐでもなく紫陽花から遠ざかる黄緑色の小さな生き物を、タカツグについて駐車場まで来ていたクロが目敏く発見した。前足でじゃれつかれ、引っくり返って白い腹を見せながらも、アマガエルは移動をやめようとはしない。
 クロは早々に飽きたらしく、軽やかにブロック塀の上に飛び乗り、鉄工所の方へと去っていった。あるいはタカツグと同様、気味が悪くなったのかもしれない。
 物心がついた頃から猫と暮らしを共にしてきたから、知っている。猫は自らが恥だと認識する失敗を犯した時に、その場に他の猫や人間が居合わせた場合、決まり悪さを誤魔化す行動を取ることがある生き物だと。
 小学校が近づき、ランドセルを背負った児童を多く見かけるようになった。彼らが殆ど絶え間なく、耳に響くような甲高い声を発しているのはいつものことで、紫陽花を手にしているのはタカツグだけだ。遅まきながら羞恥の念が込み上げてくる。
 道路脇の茂みに横たえ、何食わぬ顔で立ち去ろうか。考えてみただけで、行動に踏み切ることはない。彼が紫陽花の花を教室まで届けているのは、祖母に依頼されたからだ。義務や命令の力が働ければ、恥ずかしさも我慢可能な程度にまで縮小する。
 教室のドアを潜ると、普段よりもいくぶん早かったにもかかわらず、クラスメイトの大半が既に登校していた。寄せ書きじみた文章やイラストが、普段は滅多に使われない赤色や黄色のチョークを動員して、黒板いっぱいに展開している。
 一同は明白に浮かれていて、タカツグはやるせない気持ちになった。呆れ、苛立ち、両方あったが、露わにする気力は湧かない。それ故に、余計にやるせない。
 やがて椎野先生が教室にやって来た。あまり感情を表に出さない彼は、卒業式という特別な日にどのような振る舞いを見せるのだろうと、タカツグは密かに関心を抱いていた。椎野先生は普段通り、そこはかとなく不機嫌そうな、気怠そうな表情を浮かべていたが、不機嫌さと気怠さの度合いは普段よりも高いように見受けられる。
 僕と同じように、たかが卒業を迎えたごときではしゃぐ生徒たちの幼稚さを不愉快に思っているのかもしれない。
 タカツグは椎野先生と学校生活を共にして初めて、彼に対して共感らしき感情を抱いた。期待に胸を高鳴らせながら先生の顔を注視した。
 しかし十数秒後、生徒全員が着席を完了したのを受けて、椎野先生からの口から発せられた言葉を聞いて、自分もクラスメイトとは異なる意味合いから浮かれていたに過ぎなかったことを思い知った。

「緊急の全校集会があるから、今すぐに体育館まで移動するように。この前うちのクラスであった盗難事件について話があるそうだ」
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