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電車
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決め手になったのは、タカツグに深く根を下ろした臆病さだった。
「分かったよ」
溜息混じりの声で沈黙を破る。彼女からすれば数秒、彼からすれば十数分にも匹敵する時間を経てのことだ。
「すぐにニイミさんのところまで行くから、あと少しだけ待ってて」
通話はニイミさんの方から切った。途端に、靴音・人声・その他の音声が一斉に耳に飛び込んできて、雑音が一時的にミュートされる現象が発生していたことを知った。スマートフォンを仕舞うまでは心が酷く憂鬱で、誰かから何らかの要求をされない限り何もしたくない気分だったが、仕舞ってしまうと前向きな気持ちが戻ってきた。
仕方ない。何もかも仕方ない。
さ迷い歩いた時間が嘘だったかのように、呆気なくホームに辿り着いた。五分ほど待つと電車が到着したので、乗り込む。車内は思いの外混雑していて、座れるかどうか微妙だったが、車両の中程に空席を発見した。座席は一見粗末だが座り心地は柔らかく、人心地がついた。
スニーカーの底が通路の床を小幅に滑り、小気味のいい音が立った。音源を見向くと、女性が今まさに車内に足を踏み入れたところだった。大柄で、肌が白く、金髪碧眼。ジョギングウエアのような服装に身を包み、バックパックを背負っている。手に持っている地図は、スマートフォンではなく紙だ。
白人女性は値踏みをするように左右の座席を確認しながら、通路を前へ前へと進む。香水などをつけている客は他にも多数いるはずなのに、女性の体から発せられるココナッツの臭いの存在感が不自然なまでに強い。
僕に話しかけるんじゃないぞ。絶対に僕に話しかけるな。僕に話しかけるなら他の乗客に話しかけろ。絶対に、絶対に僕に話しかけるなよ。
素知らぬ顔をしているのが、恐れている事態を回避する最善の方策だと理解していたが、タカツグは彼女の一挙手一投足を目で追うのをやめられない。届くはずのない念を送らざるを得ない。
女性は誰かに話しかけたそうな素振りを見せているが、誰にも話しかけない。ココナッツ臭が次第に高まっていく。両の掌が汗ばんできた。外国人が困難に直面した際に、話しかける相手を選ぶ基準は何なのか。それが分からず、不安は現在進行形で増進する。
白人女性がタカツグの眼前に差しかかった。金髪、碧眼、彫りの深い顔。外国人の女性に多く見られるような、下品なまでに巨大な乳房ではなく、野球のボールほどの二つの塊が胸部から突出しているのが、上半身に貼りついた衣服越しに見て取れる。目を惹いたのは臀部で、幅が広く肉も分厚い。子供の臀部二人分といったボリュームで、疾患を罹っている可能性さえ疑ってしまう。
女性はタカツグの目の前で足を止めた。前屈みになって顔の高さを合わせ、英語で話しかける。その相手は、タカツグではなく、彼の隣に座る若い男性。安堵の息を吐いたのを合図に電車が走り出した。
田舎すぎない田舎、とでも形容するのが適当な景色が窓外を流れていく。黒い影が車両のフロントを掠め、飛び去った。車窓越しにそれを目撃したタカツグは、烏だ、と咄嗟に判断した。次の停車駅で車掌がホームに下り、衝突した部分を目で確認していたが、電車は何事もなく次の駅を目指して走り出した。
吉野川に架かった鉄橋に差しかかる。大勢の乗客を収容し、高速で移動する車両を支えるにはどこか心もとなく感じられたが、何の問題もなく渡り切った。
近景は田畑、遠景は黒煙を吐く工場という地域を、電車はひた走る。蓮畑があり、紺色の作務衣を着た男女が作業に勤しんでいる。蓮の葉が大きすぎるせいで、小人が立ち働いているように見える。
目的地の一つ前の駅で、電車はプラットホームに停車したまま動かなくなった。アナウンスを待ち受けたが、流れない。タカツグは訝しく思い、車内を見回した。
乗客は、彼が乗り込んだ時の三分の二ほどに減っている。微かに苛立っているらしい顔はいくつか見受けられたが、状況に困惑している様子ではない。白人女性の姿は確認できず、彼女に話しかけられた若い男性もいつの間にか消えている。ドアが開け放たれているため、寒風が容赦なく吹き込んでくる。
最初は寒さにただ震えるだけだったが、体がいくらか適応すると、予告もなく過酷な環境に置かれた理由や、過酷な環境から脱する目途に関するアナウンスが一切されない不条理に、憤りを覚えた。
ホームから声が聞こえてきた。ドアに注目した途端、甲高い声を発する塊が車内に雪崩れ込んできた。幼稚園児たちだと理解するまでに、タカツグは十数秒もの時間を要した。園児たちは、寒い、寒い、と叫ぶように喚いているが、彼らの体が壁となり、風と冷気を遮蔽したため、長らく続いた苦痛からタカツグは自由になった。
園児たちは我先にと座席に座る。タカツグの右隣の座席は、魯鈍そうな面差しの男児が確保した。あっという間に空席が埋まり、椅子取りゲームに敗北した者は手すりに掴まる。
「分かったよ」
溜息混じりの声で沈黙を破る。彼女からすれば数秒、彼からすれば十数分にも匹敵する時間を経てのことだ。
「すぐにニイミさんのところまで行くから、あと少しだけ待ってて」
通話はニイミさんの方から切った。途端に、靴音・人声・その他の音声が一斉に耳に飛び込んできて、雑音が一時的にミュートされる現象が発生していたことを知った。スマートフォンを仕舞うまでは心が酷く憂鬱で、誰かから何らかの要求をされない限り何もしたくない気分だったが、仕舞ってしまうと前向きな気持ちが戻ってきた。
仕方ない。何もかも仕方ない。
さ迷い歩いた時間が嘘だったかのように、呆気なくホームに辿り着いた。五分ほど待つと電車が到着したので、乗り込む。車内は思いの外混雑していて、座れるかどうか微妙だったが、車両の中程に空席を発見した。座席は一見粗末だが座り心地は柔らかく、人心地がついた。
スニーカーの底が通路の床を小幅に滑り、小気味のいい音が立った。音源を見向くと、女性が今まさに車内に足を踏み入れたところだった。大柄で、肌が白く、金髪碧眼。ジョギングウエアのような服装に身を包み、バックパックを背負っている。手に持っている地図は、スマートフォンではなく紙だ。
白人女性は値踏みをするように左右の座席を確認しながら、通路を前へ前へと進む。香水などをつけている客は他にも多数いるはずなのに、女性の体から発せられるココナッツの臭いの存在感が不自然なまでに強い。
僕に話しかけるんじゃないぞ。絶対に僕に話しかけるな。僕に話しかけるなら他の乗客に話しかけろ。絶対に、絶対に僕に話しかけるなよ。
素知らぬ顔をしているのが、恐れている事態を回避する最善の方策だと理解していたが、タカツグは彼女の一挙手一投足を目で追うのをやめられない。届くはずのない念を送らざるを得ない。
女性は誰かに話しかけたそうな素振りを見せているが、誰にも話しかけない。ココナッツ臭が次第に高まっていく。両の掌が汗ばんできた。外国人が困難に直面した際に、話しかける相手を選ぶ基準は何なのか。それが分からず、不安は現在進行形で増進する。
白人女性がタカツグの眼前に差しかかった。金髪、碧眼、彫りの深い顔。外国人の女性に多く見られるような、下品なまでに巨大な乳房ではなく、野球のボールほどの二つの塊が胸部から突出しているのが、上半身に貼りついた衣服越しに見て取れる。目を惹いたのは臀部で、幅が広く肉も分厚い。子供の臀部二人分といったボリュームで、疾患を罹っている可能性さえ疑ってしまう。
女性はタカツグの目の前で足を止めた。前屈みになって顔の高さを合わせ、英語で話しかける。その相手は、タカツグではなく、彼の隣に座る若い男性。安堵の息を吐いたのを合図に電車が走り出した。
田舎すぎない田舎、とでも形容するのが適当な景色が窓外を流れていく。黒い影が車両のフロントを掠め、飛び去った。車窓越しにそれを目撃したタカツグは、烏だ、と咄嗟に判断した。次の停車駅で車掌がホームに下り、衝突した部分を目で確認していたが、電車は何事もなく次の駅を目指して走り出した。
吉野川に架かった鉄橋に差しかかる。大勢の乗客を収容し、高速で移動する車両を支えるにはどこか心もとなく感じられたが、何の問題もなく渡り切った。
近景は田畑、遠景は黒煙を吐く工場という地域を、電車はひた走る。蓮畑があり、紺色の作務衣を着た男女が作業に勤しんでいる。蓮の葉が大きすぎるせいで、小人が立ち働いているように見える。
目的地の一つ前の駅で、電車はプラットホームに停車したまま動かなくなった。アナウンスを待ち受けたが、流れない。タカツグは訝しく思い、車内を見回した。
乗客は、彼が乗り込んだ時の三分の二ほどに減っている。微かに苛立っているらしい顔はいくつか見受けられたが、状況に困惑している様子ではない。白人女性の姿は確認できず、彼女に話しかけられた若い男性もいつの間にか消えている。ドアが開け放たれているため、寒風が容赦なく吹き込んでくる。
最初は寒さにただ震えるだけだったが、体がいくらか適応すると、予告もなく過酷な環境に置かれた理由や、過酷な環境から脱する目途に関するアナウンスが一切されない不条理に、憤りを覚えた。
ホームから声が聞こえてきた。ドアに注目した途端、甲高い声を発する塊が車内に雪崩れ込んできた。幼稚園児たちだと理解するまでに、タカツグは十数秒もの時間を要した。園児たちは、寒い、寒い、と叫ぶように喚いているが、彼らの体が壁となり、風と冷気を遮蔽したため、長らく続いた苦痛からタカツグは自由になった。
園児たちは我先にと座席に座る。タカツグの右隣の座席は、魯鈍そうな面差しの男児が確保した。あっという間に空席が埋まり、椅子取りゲームに敗北した者は手すりに掴まる。
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