僕は君を殺さない

阿波野治

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 九条さんが歩み寄ってきた。僕の前まで来るのではなく、給水タンクが作る陰に静かに腰を下ろす。僕は九条さんの真正面、ぎりぎり日陰になっている場所に胡坐をかき、レジ袋を床に置いた。

「自分の意思とは無関係に、九条翡翠を殺してしまったらどうしよう、とは思わなかった?」
「心配性だっていう自覚はあるけど、さすがにそれはないね。殺す気もないし、殺すだけの力もないのに」
「凶器、レジ袋の中に隠し持っていたりして」
「ないよ。昼食が入っているだけ。菓子パンに野菜ジュース」

 商品を順番に取り出してみせ、袋に戻す。

「九条さん、お弁当持ってこなかったんだね。昼食を食べながら話をするのかな、と思っていたんだけど」
「私はもう食べたから。タブレット菓子」
「タブレット菓子? それって――」

 商品名を口にすると、九条さんは頷いた。そして右手の、親指を除く指を垂直に立てて、

「四粒。お昼はエネルギーが必要だから、少し多めに」

 冗談なのか、真実をありのままに語っているのか。笑うべきなのか、「もっと食べなきゃだめだよ」とお節介を焼くべきなのか。掴めなくて、鏡を見れば不細工な苦笑いが見返してくるのだろうな、という表情を返すことしかできない。

「でも」
 束の間の沈黙を、九条さんの無感情な声が過去へと押し流す。

「たとえその気がなくても、この場所なら、それが現実と化すかもしれない」
「……ああ、『君は私を殺すよ』のことね。誰からも邪魔をされないシチュエーションなら、心の闇が解放されやすい、という意味?」
「そうじゃなくて」

 彼女は自らの肩越しに後方を指差した。指し示されたのは、屋上を囲繞する金網フェンス。

「あそこによじ登って、地上へと飛び降りれば、ほぼ確実に私は死ぬ。それを阻止できなかったら、変則的な形にはなるけど、遠藤くんが私を殺したとも言えるでしょう」
「――それだ。それだよ、九条さん」

 なにかを言いかけていた唇の動きが止まった。

「九条さんは『君は私を殺すよ』と言って、その発言は予知能力に基づくものだと説明したよね。でも僕は、よくも悪くも現実的な人間だから、非現実的な能力を持っていますと言われても、はいそうですか、と受け入れられない。どうしても、現実的な意味や理由を求めてしまう。自分勝手な推理だし、話が長くなるかもしれないけど、我慢して聞いてほしい」

 相槌の一つも打ってくれないのはやりにくいが、それが九条さんと会話をするということなのだろう。一つ息を吐き、僕は語り始めた。

「最初、僕と友達になりたいのかな、と思ったんだよ。九条さんは転校してきたばかりだから、多分そういうことなのかな、と。だけど九条さんは、積極的にも消極的にもクラスメイトとは仲よくなろうとしていない。クラス委員長の井内さんなんて、文句をつけようがないくらいいい人だけど、その井内さんにすら心を開こうとしない。なのに、僕に話しかけた。しかもわざわざ下校途中に」

 浅く頷く、という反応が漸く示された。しかしそれは、事実確認を求められたから応えたというような、極めて事務的な仕草に過ぎなかった。

「井内さんや他のクラスメイトになくて、僕にあるものって、なんなんだ? それは多分、孤独ということだと思うんだ。たとえば井内さんは、友達が多いし、優しくてしっかり者だから、男子女子を問わず人気があるよね。高木さんは井内さんとはタイプが全く違うけど、他のクラスにも友達がたくさんいて、交友関係は広いみたいだし。でも僕は、二人とは違って友達なんて一人もいないし、誰からも慕われていない。休み時間は一人で机で寝たふりをしているか、スマホを弄っているだけの、目立たなくて暗い男子生徒だ。転校してきてからある程度日にちが経って、僕がそういう人間だと分かったからこそ、九条さんは僕に話しかけたんじゃないかなって、ふと思ったんだ。九条さんって、顔にも声にも感情があまり出ないから、人から誤解を受けやすいタイプだと思うんだよ。今はそうでもないけど、転校してきたばかりのころは、よく高木さんたちからちょっかいをかけられていたよね。人付き合いが苦手なせいで感情表現が苦手になったのか、感情表現が苦手なせいで人付き合いが苦手になったのか、それは分からないけど」

 失礼なことを言っているな、という自覚はある。しかし、九条さんは無表情、無声、無反応。内側でなんらかの感情が蠢く、といった様子も観測できない。
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