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「それで、遠藤くんはどうしたいの?」
臆することなく僕の顔を見つめながら、九条さんはおもむろに問うた。
「えっと、どういう意味?」
「私が自殺願望を持っている人間である可能性が高い、と遠藤くんは判断したわけだよね。それを踏まえて、遠藤くんは私にどんな働きかけを行いたいと考えているの? 自殺の意思を手放すように説得する。関わり合いになりたくないから放っておく。信頼できる人間に相談するように促す。他にもいろいろ考えられると思うけど」
そう言われて初めて、その段階まで考えを推し進めたことが一度もない、という事実に気がつく。
さて、困ったことになった。
僕は黙考する。九条さんは会話の中断を快く容認してくれた。
選択肢はある程度絞られるので、驚くほど早く、おぼろげながらもビジョンが見えた。ただ、具体化していく作業ははかどらない。九条さんは寛大さを示してくれているとはいえ、納得がいく答えに辿り着くまで思案に耽るのはいかがなものか。
「こうするべきじゃないかな、という方向性は見えている。ただ、具体的にどうしたいのかって訊かれたら、答えるのは難しいかもしれない」
「難問なんだ」
「そうだね。少なくとも、今の僕にとっては」
発せられた吐息は無声だったが、ふぅん、という声が聞こえた気がした。九条さんは音もなく立ち上がり、義務感に促されたような手つきで尻を払う。
「九条さん、どうしたの?」
「暑い。教室はクーラーがきいているから、帰ろうかと」
「僕の答えは……」
「具体性がまだ伴っていないんでしょう? だったら、答えられるときが来るまで付き合う意味はないよね。今日中は無理そう?」
「えっと、どうだろう」
「長くなりそうだよね、遠藤くんのその感じだと。じゃあ、明日は終業式だから、明日の放課後を期限にしよう。昨日声をかけたあたりでまた呼び止めるから、話せるようだったら話して。それじゃあ」
九条さんの両足は靴音を奏でない。淀みのない指づかいでドアの鍵を開け、開いた隙間を潜り抜け、鉄製の障壁が閉ざされる。階段を下る足音は、すぐに無音と判別がつかなくなった。
* * *
蝉時雨がうるさい。不規則に吹きつける風は、心なしか、九条さんといるときよりも蒸し暑い。
ぬるい野菜ジュースで口腔に潤いをもたらしながら、昼食のパンをかじる。黙々と、淡々と。なにか考えるべきことがあるとき、よくこうなる。今回の対象は、言うまでもなく九条さんだ。
仮に彼女と一緒に食べていたとしたら、どんなふうに時間は流れていったのだろう? 願望を交えずに想像するならば、交わした言葉の数は少なかっただろう。下手をすると、始まりから終わりまで無言だったかもしれない。
しかし、気まずい雰囲気とは無縁だっただろう。少なくとも、日を跨いで尾を引くような深刻な気まずさとは。風や空気は蒸し暑く感じられたにせよ、不愉快ではなかったはずだ。聞こえてくる雑音は、聞いた直後には永遠に忘れてしまっていたに違いない。
この広い世界には、僕と九条さんの二人しか存在しない。そう心から勘違いした瞬間ですら、何度かあったはずだ。
パンの体積とパックの残量は、着実に減じ、不可逆的にゼロへと向かっていく。それらの推移と、混沌としていた想念が秩序を帯びていく変化の様相は、極論するならば反比例している。
とはいえ、九条さんに伝えられる程度のまとまりを獲得するには、もう少し時間がかかりそうだ。
明日まで待つ必要があると判断した彼女の慧眼には驚かされる。
やっぱり、予知能力の持ち主なのかもしれないな。
そう考える僕の心は、随分ゆとりがあるようだ。
* * *
共に過ごした時間は短かったが、それでも屋上でのひとときと比べると、学校生活は酷くくだらないものに感じられる。談笑する高木さんの大きすぎる声。古文教師の宮下の睡魔を召喚する語り口。気が弱い生徒ばかりが損を被る掃除当番。なにもかもがくだらない。
屋上でのひとときを演出してくれた張本人――九条さんと同じ空間に身を置きながら、この様とは。
コミュニケーションをとってこその九条さんなのだと、午後からの時間で僕は学習した。
帰り道で考えを話す日は、今日ではなく明日だ。的中させるのは至難の業に思える約二十時間後の自分を、それでも頭の一隅で漠然と想像しながら、問題の地点に差しかかる。なんの変哲もない民家。老朽化が進んだ木造アパート。空き缶が転がっている狭隘な空き地。なにからなにまで平凡で、運命の出会いが発生した場所らしくないし、約束の地らしくない。
しかしその事実は、九条さんに対する熱にはなんら影響を及ぼさない。
諍いは相変わらずだったが、珍しく帰宅時間が重ならなかったのもあり、両親の間に険悪なムードが漂っていた総時間は平均を下回った。口論の原因は世にもつまらないし、声が聞こえている間は嫌な気持ちになるのは避けられない。それでも、苦痛に晒される時間が短いのは、僕にとって歓迎するべきことだ。
そのおかげもあって、死んでしまいたい、と思うくらいに気分が落ち込む瞬間は、その日は一度も訪れなかった。
説明文がまだ整いきっていないだけで、方向性は定まっている。
僕の意識は、大地にどっかりと腰を落として、近い未来を見据えていた。
臆することなく僕の顔を見つめながら、九条さんはおもむろに問うた。
「えっと、どういう意味?」
「私が自殺願望を持っている人間である可能性が高い、と遠藤くんは判断したわけだよね。それを踏まえて、遠藤くんは私にどんな働きかけを行いたいと考えているの? 自殺の意思を手放すように説得する。関わり合いになりたくないから放っておく。信頼できる人間に相談するように促す。他にもいろいろ考えられると思うけど」
そう言われて初めて、その段階まで考えを推し進めたことが一度もない、という事実に気がつく。
さて、困ったことになった。
僕は黙考する。九条さんは会話の中断を快く容認してくれた。
選択肢はある程度絞られるので、驚くほど早く、おぼろげながらもビジョンが見えた。ただ、具体化していく作業ははかどらない。九条さんは寛大さを示してくれているとはいえ、納得がいく答えに辿り着くまで思案に耽るのはいかがなものか。
「こうするべきじゃないかな、という方向性は見えている。ただ、具体的にどうしたいのかって訊かれたら、答えるのは難しいかもしれない」
「難問なんだ」
「そうだね。少なくとも、今の僕にとっては」
発せられた吐息は無声だったが、ふぅん、という声が聞こえた気がした。九条さんは音もなく立ち上がり、義務感に促されたような手つきで尻を払う。
「九条さん、どうしたの?」
「暑い。教室はクーラーがきいているから、帰ろうかと」
「僕の答えは……」
「具体性がまだ伴っていないんでしょう? だったら、答えられるときが来るまで付き合う意味はないよね。今日中は無理そう?」
「えっと、どうだろう」
「長くなりそうだよね、遠藤くんのその感じだと。じゃあ、明日は終業式だから、明日の放課後を期限にしよう。昨日声をかけたあたりでまた呼び止めるから、話せるようだったら話して。それじゃあ」
九条さんの両足は靴音を奏でない。淀みのない指づかいでドアの鍵を開け、開いた隙間を潜り抜け、鉄製の障壁が閉ざされる。階段を下る足音は、すぐに無音と判別がつかなくなった。
* * *
蝉時雨がうるさい。不規則に吹きつける風は、心なしか、九条さんといるときよりも蒸し暑い。
ぬるい野菜ジュースで口腔に潤いをもたらしながら、昼食のパンをかじる。黙々と、淡々と。なにか考えるべきことがあるとき、よくこうなる。今回の対象は、言うまでもなく九条さんだ。
仮に彼女と一緒に食べていたとしたら、どんなふうに時間は流れていったのだろう? 願望を交えずに想像するならば、交わした言葉の数は少なかっただろう。下手をすると、始まりから終わりまで無言だったかもしれない。
しかし、気まずい雰囲気とは無縁だっただろう。少なくとも、日を跨いで尾を引くような深刻な気まずさとは。風や空気は蒸し暑く感じられたにせよ、不愉快ではなかったはずだ。聞こえてくる雑音は、聞いた直後には永遠に忘れてしまっていたに違いない。
この広い世界には、僕と九条さんの二人しか存在しない。そう心から勘違いした瞬間ですら、何度かあったはずだ。
パンの体積とパックの残量は、着実に減じ、不可逆的にゼロへと向かっていく。それらの推移と、混沌としていた想念が秩序を帯びていく変化の様相は、極論するならば反比例している。
とはいえ、九条さんに伝えられる程度のまとまりを獲得するには、もう少し時間がかかりそうだ。
明日まで待つ必要があると判断した彼女の慧眼には驚かされる。
やっぱり、予知能力の持ち主なのかもしれないな。
そう考える僕の心は、随分ゆとりがあるようだ。
* * *
共に過ごした時間は短かったが、それでも屋上でのひとときと比べると、学校生活は酷くくだらないものに感じられる。談笑する高木さんの大きすぎる声。古文教師の宮下の睡魔を召喚する語り口。気が弱い生徒ばかりが損を被る掃除当番。なにもかもがくだらない。
屋上でのひとときを演出してくれた張本人――九条さんと同じ空間に身を置きながら、この様とは。
コミュニケーションをとってこその九条さんなのだと、午後からの時間で僕は学習した。
帰り道で考えを話す日は、今日ではなく明日だ。的中させるのは至難の業に思える約二十時間後の自分を、それでも頭の一隅で漠然と想像しながら、問題の地点に差しかかる。なんの変哲もない民家。老朽化が進んだ木造アパート。空き缶が転がっている狭隘な空き地。なにからなにまで平凡で、運命の出会いが発生した場所らしくないし、約束の地らしくない。
しかしその事実は、九条さんに対する熱にはなんら影響を及ぼさない。
諍いは相変わらずだったが、珍しく帰宅時間が重ならなかったのもあり、両親の間に険悪なムードが漂っていた総時間は平均を下回った。口論の原因は世にもつまらないし、声が聞こえている間は嫌な気持ちになるのは避けられない。それでも、苦痛に晒される時間が短いのは、僕にとって歓迎するべきことだ。
そのおかげもあって、死んでしまいたい、と思うくらいに気分が落ち込む瞬間は、その日は一度も訪れなかった。
説明文がまだ整いきっていないだけで、方向性は定まっている。
僕の意識は、大地にどっかりと腰を落として、近い未来を見据えていた。
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