僕は君を殺さない

阿波野治

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「九条さん、全く動いていないけど、無事なんですか」
「無事だよ。命があるという意味では無事だ。殺してしまっては無意味だからね」

 男性は即答した。機械の音声ではない。しかし、ありふれた中年男性の声と評するには、いささか冷たすぎる。感情がないのと冷たいのは必ずしもイコールではないはずだが、感情以上に人間味がない。話が通じる人間かもしれないという期待は、たった一言で根幹から揺らいだ。

「私に訊きたいことが複数あるようだから、質問の内容を推測して答えさせてもらうよ。私はこの子の、九条翡翠の父親だ。この場所に来た目的は、娘を家に連れ戻すため。この子の頭部を岩に打ちつけたのは、私の許可なく長期間家に帰ってこなかったことと、連れ戻そうとした私に抵抗したこと、二つの行為に対する制裁の意味からだ」

 父親。顔の造作が似ていたのでもしやと思っていたが、やはりそうだったらしい。
 九条さんを虐待していた張本人。九条さんに僕との逃避行を決意させた元凶。その人間が、加虐者が、被虐待者本人を連れ戻しに来た。

「君の疑問に答えた見返りに、私の疑問にも答えてもらうよ。君はうちの娘とどういう関係なのかな?」
「その前に、一つだけ。どうして、九条さんの居場所が分かったんですか」
「ああ、そのことか。娘が行方不明になってから、娘のクラスメイトの何人かと極秘裏に、なおかつ個別に面会して、『娘が家出をした。娘に関する情報を得たら、どんな些細なことでも構わないから、私に報告してほしい。私が君に依頼したことは誰にも告げないでほしい』と伝えて回ったんだよ。見つけた暁には相応の報酬を支払う、という取引を交わした上でね。情報の提供者が誰なのかは、伏せさせてもらうよ。彼女とはそう約束したからね」

 井内さんだ、と直感した。
 井内さんは祖父の実家に遊びに来ていて、駅前で僕たちを偶然見かけた、と説明していた。僕たちが暮らしている拠点の場所と生活の様子を、彼女の性格を考えれば、異例ともいえるほど強く知りたがったことに、僕も九条さんも違和感を覚えたが、これで謎が解けた。純粋な好奇心に突き動かされたのではなく、他者に依頼されていたのだ。

 裏切られた。井内さんは善良な人だと信じていたのに、俗世では最も信頼がおける人間だと思っていたのに、金に目が眩んで僕たちを売るなんて……。

 怒りでも悲しみでもなく、徒労感にも似た脱力感に襲われ、膝を折りそうになる。
 かろうじてそれを堪えられたのは、横たわる九条さんが視界に映っていたからに他ならない。

「体調が悪いのかな? 差し障りがないなら、私の質問に答えてもらいたいのだが」

 感情の読み取れない声がいけしゃあしゃあと促す。僕は声の発信者の顔を睨むように見据え、

「友達です。僕と九条翡翠さんは、友人同士です」
「友人のためを思って、逃亡を助けた。逃亡の理由も、事前に聞かされているから把握している。そういうことかな」
「ええ。離婚した妻との復縁が絶望的になったのを機に、あなたから虐待を受けるようになった、それが耐え難い、と話してくれました。逃亡を提案したのは、僕からです。九条さんは多少驚いたり、戸惑ったりはしていましたが、反対意見は唱えませんでした」
「なるほど。主犯は娘でも君でもなく、共犯というわけだね」

 クラスメイトに聞き込みをしてまで探すくらい、我が子の奪還に執念を燃やしているのだ。首謀者は自分だと告白するさいには、決して弱くない恐怖を伴った。しかし、予想を裏切って、九条さんの父親は表情にも声音にも一切変化を表さなかった。それが逆に薄気味悪く、おぞましい。
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