塵埃抄

阿波野治

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 人通りのない道を歩いていると、突然、婆が行く手に立ち塞がり、匙を貸してくれないか、と言った。腰が九十度近く曲がり、顔中に深い皺が刻まれた、かなり高齢の婆だ。
 鞄の中からペンケースを取り出し、開くと、銀色の金属製の匙が一本、ペンに埋もれている。抜き出し、手渡すと、婆は礼も言わずに去っていった。私の連絡先も知らないのにどうやって返すつもりだろう、と疑問に思ったが、匙は高価な代物ではないようだったので、返ってこなかったとしても恨み言は言うまいと心に決め、歩みを再開する。
 予備校に辿り着いた時には、既に授業が始まっている時間だった。予備校に嫌々通っている私は、途中から授業に参加する意欲を持てなかった。頭を振って溜息をつき、踵を返す。まだ十一時を回ったばかりだったが、外で食事をしてから帰ることにした。
 ファミリーレストランに向かう道の途中、コンビニエンスストアの店先で、爺が植え込みに向かって放尿をしていた。鼠色の襤褸切れを纏った、八十歳を過ぎていると思われる爺だ。目の前にコンビニエンスストアがあるのに、店内のトイレを利用せずに立ち小便をしているのはなぜだろう。長々と続く放尿を見るともなく見ているうちに、食欲が失せた。外食をするのではなく、弁当で済ませようと方針を転換し、店の自動ドアを潜る。
 四百五十円のおにぎり弁当とカスタードプリンを選び、レジで精算する。店員は「スプーンをおつけしましょうか」とは訊かなかった。それが引き金となって、思い出した。ペンケースに入っていた銀に匙は、七年前に病死した私の母の形見で、私はスイーツを食べる際に欠かさずそれを使っていたことを。
 匙を貸してくれないかと言った婆と、放尿をしていた爺は、共犯に違いない。婆の居場所を聞き出すべく、コンビニエンスストアを飛び出した。だが爺の姿は影も形もなかった。
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