赤と夜と過去

阿波野治

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赤い花 十二

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「ママ」
 出し抜けの声に、磨り硝子に映る像が乱れ、風呂用の椅子が音を立てた。
「……ダリアちゃん? 急に声がしたからびっくりした。どうかしたの?」
「あのね、ママ。ダリア、ママといっしょにお風呂に入りたい」
 驚きと困惑の相半ばした短い声が小さく聞こえた。扉越しに相対する二人のあいだに沈黙が流れる。

「久しぶりだね、ダリアちゃんといっしょにお風呂も。最後にいっしょに入ったのは小学校二年生のとき、だったかな」
 ひとり言のようなつぶやきが静寂を払った。声には驚きや困惑の感情は微塵も含まれていない。
「いいよ、入っておいで。体を洗ってあげるから、タオルを持ってくるようにね」
 ダリアは返事をしない。了承の意が示されたと受け取ったのか、母はそれ以上の言葉をかけてはこない。やがて、バスルームから朗らかなハミングが聞こえはじめた。

 ダリアは右手をバスルームのドアの把手にかけた。磨り硝子越しに母がいる位置を確かめる。洗い場で、風呂用の椅子に座っている。バスタブに移動する気配は当面なさそうだ。
 右手に力を込め、一気に扉を開く。折り戸が全開され、母の白い背中が視界いっぱいに広がった。
 ほとんど突進するような勢いで、ダリアはバスルームの中へ飛び込んでいく。
 母が素早く、上体をねじって振り向いた。その懐を目がけて、ダリアは体ごとぶつかる。左手に握り締めていた包丁の刃が、母の白い脇腹に根本まで埋まった。子を上に、親を下にして、二人は洗い場の床の上に倒れ込む。風呂用の椅子が転がり、派手な物音を撒き散らした。

「わー、深い……」
 ダリアはそうつぶやき、包丁を抜こうとしたが、指が滑って引き抜けない。握り直し、力を込めて再び引っ張る。強情だったが、ひとたび抜けはじめると滑らかに動き、母の脇腹から離れた。鈍色の刃は一面鮮やかな赤色に塗り替えられている。
 床を手で押すようにして立ち上がる。包丁を握っていない右手を腰に当て、仰向けの母の裸体を冷然と見下ろす。母は全身に水滴をまとっている。脇腹に目を移すと、刺創が刻まれているのが認められる。そこから血液が絶え間なく流出し、一条の細い川となって排水口へと流れ込んでいる。

 母は驚愕に両眼を見開いてダリアの顔を凝視している。床に倒れ込んだ瞬間の体勢のまま、傷口に手を宛がうことすらせずに。今はまだ血色のいい唇は、病的なまでに震えている。
 ダリアは刃に付着した血を右手の人差し指の腹でこそげ、指先で弾いた。血は母の顎から胸にかけて、十足らずの赤い水玉模様を咲かせた。そのうちの一つは、右の乳房の中央真横に描かれたために、乳首が二つに増えたかのようだ。
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