嘘つきと口なし

阿波野治

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三日目の日記③

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 たとえば、僕が幼稚園のときにこんなことがあった。

 同級生にNくんという男児がいた。Nくんは幼稚園児にしては立派な体格の持ち主で、「体が大きい」というイメージがそう思わせたのか、実際に大きかったのかは今となっては謎だけど、話し声が大きかった。つまり、視覚と聴覚の両面から存在感があった。臆病で引っ込み思案な僕からすれば少し怖い印象の同級生だった。
 そのNくんと、年少組から年長組に進級したさいに同じ組なった。

 もう十年も前だし、幼かったころのことなので、いきさつは忘れてしまった。たぶん、たまたま目について、なんとなく言葉を交わしたい気分になったのだろう。休み時間にいきなりNくんが僕に話しかけてきた。
 僕は恐怖を感じて泣き出した。自分でも信じがたいけど、同じ組の男の子に話しかけられただけで泣き出してしまったのだ。記憶を掘り起こしたかぎりでは、僕の人間関係での最古のつまずきだ。

 それがトラウマになった、ようするに場面緘黙症発症のスイッチなったのだと考えたことが過去にはあったけど、今となっては完全に否定している。その出来事があってからも、登園を渋ることなんてなかったし、Nくんとのあいだにトラブルが起きた記憶もない、というのがその根拠だ。
 Nくんとは小学校と中学校も同じだった。彼はときどき悪さもしていたけど、その年ごろの男子なら誰もがやっているような、笑って済ませられるいたずらに過ぎなかった。Nくんは積極的に人に嫌がらせをしたり、体の大きさを武器に他者を威圧したりする子ではなかった。あの一件がトラウマになったなんて、あり得ない。

 この結論を受けて、僕が罹患している病は実は場面緘黙症とは異なるなにかなのではとか、フロイト心理学よろしく物心つく前の体験が無意識の影響を及ぼしているのではとか、特定の一つの出来事ではなく、心にダメージを与えるような小さな出来事が積み重なった結果、臨界点を越えたことで病が発症するという、専門書に記載されているのとは違うメカニズムから場面緘黙症を発症したのではとか、さまざまな可能性に思いを巡らせた。
 もしかしたらと思うものもあったし、絶対に違うと思うものもあった。そのすべての真偽が不明なうえに、本題からは逸脱してしまうため、このタイミングでわざわざ記述する意義は見出せない。書くべきことを書くのに専念したほうがよさそうだ。

 人見知りの程度でいえば間違いなく重度、対人コミュニケーション能力に問題を抱えている身ではあったけど、幼稚園さらには小学校と、学校という制度に対する過度の拒絶、明らかな不適応などはなかったと思う。
 問題は、ひとえに人間関係。

 Nくんの件に関してはもはや笑い話でしかないけど、看過できないと感じる事件や出来事もたくさんある。わざわざ書き留める価値があるかは疑問なものも含まれているけど、積み重ねることで見えてくるものがあるかもしれないという漠然とした期待、そして書きたいという意欲を満足させるためにも、ペンを動かし続けよう。場合によっては濃密に、あるいは逆に駆け足に、時には割愛することもあるだろう。それでも気力が許すかぎり誠実に、基本的には時系列に沿って記述していきたい。
 今日の執筆時間は長くなりそうだ』
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