黒猫リズの流浪録

阿波野治

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山と小屋

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 東の空が白み始めた。獣臭さが大分薄れていることに気づき、リズは緩慢に体を起こし、歩き出した。
 マトリが家から出てきた場面が思い出される。父親が殺された予感を抱いていたのだろう、彼女の足取りは覚束なかった。自分も彼女と同じなのではないか、とリズは考えたが、現実の彼女の足運びはしっかりとしている。
 言い様のない悲しみが胸を過ぎったが、歩くのは止めない。

 マトリの母親の遺体の前で足を止める。出血は止まっているが、切断面はグロテスクで痛々しい。

(短期間とはいえ、親しく接した人間の亡骸を前にしたのに、悲しみに胸が締めつけられないのはなぜなのだろう。ぼくが異端だからか。種族が違うからか。首から上がないせいで、死体というより肉塊の印象が強いからか。……単に現実を受け入れきれていないだけか)

 深い悲しみはないが、可哀想だ、という思いはあった。地面に横たわったままだなんて、惨めすぎる。布団の上に寝かせるか、それが無理なら、布団を被せるだけでも。
 しかし、異端とはいえ、猫でしかないリズの体力では、どちらの目的を達成することも不可能。諦めて、その場を去るしかなかった。

(マトリは怪物の胃の中に消え、父親は深い谷底に横たわっている。ぼくが何かしてあげられるとしたら、母親だけだったのが……)

 無念だと思ったが、できないものは仕方ない。

『たとえ異端だろうと、神ではない以上、限界というものはあるのだから』

 長老の言葉を思い出し、溜息をつく。
 人間にも不可能なことはあるのだから、彼らよりも体が小さく、知能に劣る猫に、できないことがたくさんあるのは当然だ。

 人が定住している他の地域から隔たっているという立地もあり、惨劇は集落の外の人間にはまだ知られていないようだ。しかし、マトリと母親が買い物に出かけていたことからも分かるように、外部との交流がある以上、いずれ知れ渡る時が来る。
 リズとしては、その前に集落から去りたかった。唯一生き残った一匹として注目されるのが嫌だから、ではなくて。

(あの時、例えばマトリが橋から落ちていたら、あのような惨劇は起こらなかったのだろうか)

 橋を渡る際、リズの胸にそんな思いが過ぎったが、考えを巡らせても虚しいだけだと気がつき、頭の中を空にした。

*

 山を沿う道をひたすら歩く。似たような景色が続くが、風景や匂いは微妙だが確実に違っていて、前進しているのだと実感できる。
 しばらく歩くと、郵便物を遠方に配達しているらしい、一台の馬車が猛スピードでリズを追い抜いた。それを境に、道を通行する車両や人を見かけるようになった。早朝から朝へと緩やかに移行するのに比例して、その頻度は上昇していく。

 やがて、右手に見える山の傾斜が緩やかになってきた。山という地形が終わりを迎えるらしい。では、終わった先には何が待ち構えているのか。
 カーブを曲がったリズの瞳に飛び込んできたのは、新たな山だった。山頂付近だけが塔のように尖るという、いささか奇異な姿だった先程までの山と比べれば、外観はよくも悪くも平凡。少し低いせいか、佇まいは穏やかな印象だ。
 山中へと細道が分岐していて、奥に建物らしきものが見える。リズはそちらに向かった。

 辿り着いたのは、木造のログハウス風の小屋。
 十数名ほどの老若男女が建物の内外にいて、談笑に耽ったり、軽食をとったり、荷物の整理をしたりしている。和やかだが活気がある、といった全体の印象だ。
 建物の外にあった看板を見たり、人々の話を盗み聞きしたりするなどして、情報収集に徹した結果、建物は登山者が集まる基地のようなものだと判明した。地元の人間と登山愛好家が交流する場にもなっていて、前者は軽装で後者は重装備と、明確に見分けられた。

 リズは建物入口の大きな看板の前に座り、描かれた地図を凝視する。
 それによると、先程までの山と現在の山は同じ山脈に属するが、別々の名前がつけられて明確に区別されていた。山中に足を踏み入れてもプレッシャーを感じなかったのは、それが理由らしい。
 登山道は三本。山頂を経由するルートと、最短のコースで山を抜けるルート。もう一本は、一筆書きで模様を描くように複雑に曲がりくねっていて、終点は山中にある。

 山を越えた先には、町があるようだ。ただ町の名前が記されているだけなので、規模までは定かではない。
 リズとしては、広場を取り巻く町を思い出さざるを得ない。

(町、か。ぼくにとって好ましくない思い出もあったが、多種多様な人や物に溢れていて、見ていて飽きなかった。昨日から山沿いの道ばかり歩いているし、そろそろ人が多い場所に行ってみるのも悪くないが――さて、どうしよう?)

「あら、こんなところに猫が」

 突然声をかけられた。振り向くと、エプロン姿の中年の女性が膝に両手をついてリズを見ていた。軽装だったので、地元の人間だと一目で分かった。

「見かけたたことがない猫ね。どこの家の猫かしら」
「おっ、黒猫だ。おばさんの飼い猫?」

 今度は三十前後の男性が近づいてきた。重装備。登山者だ。
 それを合図に、続々と人が集まってきて、あっという間にリズは取り囲まれた。

「違うわよ。あたしは猫なんて飼っていないもの」
「逃げませんね。飼い猫かな?」
「首輪はつけていないから、迷い猫だろう」
「この子、痩せてるわね。お腹を空かせているのかな」
「おばさん。悪いけど、この猫に何か食べるものを用意してあげて」

(全く、人間はどうして、猫を見るとすぐに食事を与えたがるのだろう。ぼくが細身なのは、飢えているからではないのに。だいたい、人間たちが虐殺される場面を見た後で、食欲が湧くはずもない)

 不満を抱いたリズではあったが、善意からの施しだと理解してはいたので、それに応えるつもりで口をつけた。薄く味がついた肉や魚が多く、登山者が山に持参するらしい、味はまずまずだが栄養価が高そうな保存食も提供された。
 善意に応えるという目的を優先させるあまり、少々食べ過ぎた。小屋の裏手、涼風が吹き抜ける日陰で横になっていると、

「あらっ、こんなところで寝てる!」

 エプロン姿の中年女性に見つかり、抱きかかえられた。

「せっかくの綺麗な毛が汚れるじゃない。中で寝なさい、中で」

 そのまま小屋の中に連れ込まれる。
 空間にはコーヒーの香りが漂っていて、四・五人が椅子やソファでくつろいでいた。余計なものが置かれていないからか、小屋の大きさと比べると広く感じられ、清潔感がある。

「ほら、ここで寝なさい」

 隅に置かれていた、一人用のソファで解放される。明らかに人間用だが、中年女性は気にしていないようだ。

「みなさん、この子の邪魔はしないでくださいね。お昼寝の時間ですから」

 女性はおどけた表情ながらも真剣な口振りで、小屋の中にいる全員に告げる。告げられた方は、微笑ましそうに表情を緩め、忠告に従う旨を言葉やジェスチャーで示した。

(どうやらぼくは受け入れられたらしい。言葉に甘えて、一眠りさせてもらう)

 しかし、彼らが口にした話題に、リズは安眠を妨げられることとなる。
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