キスで終わる物語

阿波野治

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一日目

夕食の席で

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『陽奈子、晩ご飯の時間だよー』

 床の拭き掃除の仕上げに先立ち、汚れた雑巾を洗おうとしたタイミングで、ミアとノアが陽奈子がいる部屋を訪問した。窓外を見ると、空はすっかり暗くなっている。

「わざわざありがとう。でも、今日の分の仕事がまだなんだけど」
「あとですればいいよ」
「だいたい九時くらいまでに片づければ、琴音からはお咎めなしだから」
「なるほど。……あ、もしかして、全員が揃わなければ食事が始まらないとか?」
『ううん』

 二人同時に言い、同時に首を横に振る。息ぴったりのリアクションに、知り合った当初は驚いたものだが、早くも当たり前の光景になりつつある。

「定刻を過ぎたら、まだ来ていない人がいても食べ始めるよ。でも、大抵の場合全員が揃うし」
「陽奈子は今日が初日でしょ? いきなり大遅刻っていうのもどうなのかな、と思って」
「気を利かせてくれたってことね。ありがとう」

 汚れた雑巾ではなく手を洗い、ミアとノアとともに部屋を出る。

「二人は新人のサポート役っていうか、お目付役? そういう役割でも課せられているの?」

 気になっていたことを尋ねてみたところ、ミアとノアはきょとんとした顔で左右から見つめ返してきた。

「だってほら、今日のお昼だって、食事の時間を知らせに来てくれたでしょ。だからそうなのかな、と思ったて」
『ううん、別に』

 二人はまた同時に頭を振った。

「昼間も今回もたまたま琴音と出くわして、そうするようにって言われたの」
「だから、琴音と出会ったのが私たち以外だったら、その子が知らせに来ていたと思うよ」
「ふうん、琴音が。メイド長だけあって、気配りが行き届いた人なんだね」
「気配りっていうか……」
「監視っていうか……」

 二人は苦笑をこぼして顔を見合わせる。意味深な仕草に、真意を問い質したい気持ちが芽生えたが、実行に移すよりも先に目的地に着いた。

 広いダイニングルームの中央に長方形のテーブルが据えられている。既に人が座っている椅子の方が多い。短辺の片側、上座と思われる席に真綾が着いている。その右の席には琴音が、左の席には弥生が、それぞれ座っている。
 席順はあらかじめ決まっていて、陽奈子の席は真綾の対面だった。とはいえ、長い長辺を持つ長方形の短辺同士、という位置関係。あまりにも距離が隔たっているせいで、向かい合っているという実感は湧かない。ミアとノアの両名の席は案の定隣り合っていて、弥生の二つ隣だ。

 テーブルの上には料理が盛りつけられた食器がひしめき合い、各人は既にフォークやナイフやスプーンを動かしている。陽奈子の席にはなにも用意されていない。
 自分の分は自分でとるのか。それとも、誰かが運んでくるのか。勝手が分からず、まごついていると、

「おまちどうさま」

 背後から声がした。振り向くと、若い女性が佇んでいた。純白のエプロンを着用していて、料理が載ったトレイを両手で持っている。肌は小麦色で、顔つきはどことなく不機嫌そうだ。慣れた手つきで素早く食器を並べ、足早に立ち去る。あの子が千紘だな、と陽奈子は合点した。

 本日の夕飯のメインは、牛肉と春野菜のソテー。副菜にはジャガイモとパプリカを粒マスタードで和えたサラダと、溶き卵が入った透明なスープが添えられている。
 順番に口に運んでみる。レストランで提供されるような洗練された味わいで、どれもとびきり美味しい。空腹も手伝って、陽奈子は夢中になって食べた。

 一同は物静かに食事をとっている。隣席の者と言葉を交わしている者も中にはいるが、声は控えめで、二言三言話しただけで食事に戻る。間違っても大きな笑い声を立てる者はいない。みな一様に、音を立てずにフォークやナイフやスプーンを操るのも、場が静かな要因の一つらしい。
 昼間の騒々しさを思うと、同僚たちの極めて上品な振る舞いは意外に思える。行儀よくしなければ、というプレッシャーを多少感じたが、同僚たちの態度自体には手放しで好感を抱いた。

 陽奈子が自らの料理を半分ほどに減らしたとき、空席だった右隣の椅子が引かれた。華菜だ。
 背筋を伸ばして座り、膝の上に両手を置く。陽奈子を一瞥したが、すぐにテーブルの上に視線を落とした。なんの感情も表れていない顔で、なにも置かれてない純白のテーブルクロスを見つめる。無言で、身じろぎ一つせずに料理の到着を待っている。
 ほどなく千紘が現れ、華菜の前に料理を並べた。華菜はフォークとナイフを手にとり、千紘は去る。口に入れられた一切れの牛肉が嚥下されたのを見計らって、陽奈子は話しかけた。

「遅かったね。ずっと仕事してたの?」

 華菜は顔を陽奈子に向けた。返事はない。

「大変だよね、部屋の掃除。華菜は体力がそんなになさそうだから、あたし以上に大変なんじゃない?」

 華菜は陽奈子から顔を背け、食事を再開した。
 あまりにも素っ気ない態度に、呆然としてしまう。周りのメイドたちは驚いた様子は微塵も見せない。陽奈子はルームメイトとコミュニケーションをとることを断念し、食事に戻った。

 華菜が無口なのは、今日半日でよく分かった。他人と関わり合うことを好まない性格なのも、おおむね察しがついている。
 一人が好きならば、それでも構わない。性格や嗜好を抑えつけてまで、社交的に振る舞う必要なんてない。
 でも、こっちだって悪意があって声をかけたわけじゃないんだから、もう少し愛想よく応対してくれてもいいのに。

 やがて華菜を除く全員が食べ終わったが、席を立とうとする者は誰もいない。手を動かす代わりに隣の者と話をしている。
 不可解に思いながらも、周りに合わせて座り続けていると、ほどなく謎が解けた。千紘がデザートを運んできたのだ。
 デザートはババロアで、小さなカップに入れられていた。さっそく銀のスプーンで一匙すくい、口に運ぶと、苺の優しい甘味と爽やかな酸味が口腔いっぱいに広がった。

 あっと言う間に平らげ、隣を覗うと、華菜は依然として牛肉のソテーを食べていた。まだ三分の一ほど残っていて、サラダもスープもパンもなくなっていない。
 デザートを食べ終えた者が続々と席を立ち、ダイニングから去っていく中、無表情で、急ぐ様子もなく、黙々と料理を食べている。
 華菜は、他のみんなとは違う人間なのではないか。
 そんな思いを抱かずにはいられなかった。
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