キスで終わる物語

阿波野治

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六日目

二人の出会い

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 十八歳の春、陽奈子は就職活動に失敗し、日々を無為に過ごしていた。
 母親が働け、働けと口うるさいので、必然に外出する時間が多くなった。

 風が強い日だった。悪天候にもかかわらず、桜の木がある公園に陽奈子がわざわざ足を運んだのは、今年その花を一度も見ていないからでもあるが、暇を持て余しているというのが一番の理由だった。
 当初の予定では、通り過ぎる際に軽く眺めて、そのまま近くのショッピングセンターまで行き、スイーツを食べて帰るつもりだった。しかし、公園の中に佇む人物を認めて、陽奈子の両足の靴底は歩道のアスファルトに貼りついた。
 十歳くらいの少女が桜の木の下に佇み、頭上を見上げている。吹き抜ける強風にあおられて、艶やかな長い黒髪と、桜の花の色に似たワンピースの裾がはためいている。
 同性の陽奈子が息を呑むほど、少女は美しい顔をしていた。大人びているというわけではないが、かわいいとか、綺麗ではなく、その形容詞が相応しいと思った。
 絶え間なく強く吹く風のせいで、花の大半は地面に落ちていた。だから、花を観賞しているわけではないとすぐに分かった。では、なにを見ているのだろうと、少女の視線を辿ってみると、木の枝に白いものが引っかかっていた。ハンカチだ。

 少女はおもむろに背伸びをし、めいっぱい手を伸ばした。ハンカチには全然届かない。その場でジャンプをしたが、目的物と指先との距離は三十センチ以上はあった。
 少女の視線が木の幹へと移動した。横顔からは、なんらかの強い決意が宿っていることが窺えた。

「ハンカチ、引っかかっちゃったの?」

 声をかけると、少女は反射的に振り向いた。陽奈子の姿を認めた瞬間、端正な顔と小さな体が同時に強張った。陽奈子は百七十九センチもある自分の体の大きさが悲しくなった。しかし、ネガティブな感情を顔に出しても、怯えさせるだけなのは分かり切っていたので、強いて微笑んで言葉を続けた。

「木に登ろうとしたでしょ。危ないから、地上からどうにかする方向でいった方がいいと思う。あたしがやってみるよ」

 少女へと歩み寄る。固く握り締めた拳を胸に宛がい、陽奈子の一挙手一投足を目で追うその姿は、脚を怪我して動くことができず、肉食動物を食べられるのを待つばかりの草食動物を連想させる。
 陽奈子は勿論、少女に危害を加えるつもりは毛頭ない。困っている人がいるから、助けたい。その思いだけだった。あとになって考えてみれば、就職活動失敗してからというもの、他人になにかと迷惑をかけてばかりいたから、誰かの役に立ちたいという気持ちが強かったのかもしれない。

「ちょっとごめんね」

 少女に横に避けてもらい、ハンカチの真下に立つ。垂直に手を伸ばしてみたが、指先は白いものには達しない。ただ、ジャンプをすればなんとかなりそうな高さに思える。
 陽奈子は軽く助走をつけ、ハンカチの真下まで来るとともに跳躍、さらに右手を伸ばした。人差し指と親指に柔らかな感触を覚え、枝から外れた。
 着地をそつなく決め、救出したものを広げてみる。汚れも傷もついていない。

「ありがとうございます!」

 少女が駆け寄ってきたので、ハンカチを手渡した。陽奈子がしたように念入りに目に確認したあと、折り畳んで胸ポケットに仕舞う。畳み方がいかにも丁寧で、育ちがいい子なんだな、という感想を陽奈子は持った。

「ありがとうございます。今日は風が強いから、飛ばされちゃって。まさかあんな高い場所に引っかかるとは思っていなかったから、凄く焦って」
「無事に回収できてよかったね。一人でお花見でもしていたの?」

 少女が語ってくれた話は、こうだ。
 家の人間とショッピングセンターまで買い物に来た直後、近くに桜の木が植わっている公園があることを思い出した。風が強いので、今日を逃すと今年は桜の花を見られないかもしれない。寄り道をすると家の人間に怒られるので、買い物に行く代わりに一人で桜を見に行くことにした。
 道に迷うことなく、目当ての公園に辿り着いた。桜の花は殆ど散っていて、少し悲しい気持ちになった。その感情が引き金となって、大事な人と別れた日の記憶が甦った。偶然にも、その時の思い出の品――ハンカチを持参していた。
 悲しいが、忘れがたい過去にもう一度浸りたくて、ワンピースのポケットから取り出した。ハンカチはきちんと畳まれていなかった。大切な過去を思い出したあとだけに、思い出の品を大切に扱いたい気持ちが芽生えた。そこで畳み直そうとしたところ、充分に気をつけていたにもかかわらず、ハンカチは風に飛ばされ、桜の木の枝の高い位置に引っかかってしまった。
 なにがなんでも救い出したかったが、自分一人の力ではどうしようもない。困り果てていたところ、陽奈子が現れ、一回のジャンプでハンカチを枝から外した。

「そっか。ハンカチ、大切なものだったんだね。取り戻せてよかった」
「はい。重ね重ね、ありがとうございます」

 早くも三回目の礼を述べ、恭しく頭を下げる。
 嬉しくないわけではないが、必要以上に持ち上げられるのはどうも苦手だ。「どういたしまして」と告げ、その場から去ろうとすると、呼び止められた。

「あの。……えっと」

 少女は俯き、頬を少し赤らめ、もどかしそうな表情を見せている。言いたいことがあるが、感情に邪魔されて言い出せない。そんな様子に見える。
 やがて、意を決したように顔を上げた。途端に、激しく荒れ狂っていたのが嘘のように風がやんだ。
 少女が口にした提案は、陽奈子にとって全く思いがけないものだった。

「もしよければ、わたしの家でメイドとして働きませんか?」
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