僕の輝かしい暗黒時代

阿波野治

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 県外にキャンパスがある大学の入学試験だから、当然県外で行われる。
 人と口頭でコミュニケーションをとるのが病的に苦手で、それゆえの恐怖と不安を慢性的に抱えている僕にとって、一人で県外まで遠征する精神的負担はかなりのものだ。
 入念な下調べと、極力人との接触ならびに会話を避けるなどの工夫を併用すれば、いくらか負担を減らせるだろう。しかし、入学試験という大一番を控えた身としては、必ずしも割く必要のない行為のために精神力を消費したくない、というのが率直な気持ちだ。

 その意味で、父親が大学までの送り迎えを買って出てくれたのはありがたかった。常識を重んじる人だから、「四月から一人暮らしをする身だというのに、親に頼るとは何事だ」とかなんとか言って、単独行動を強要してもおかしくなかった。しかし、そのときは僕の気持ちを理解してくれて、全面的にサポートしてくれた。
 未知の事物事象に対して不安感を覚える僕にとって、こまかな点では相違があるとはいえ、二回試験を経験しているのはアドバンテージだった。さすがに面接試験は平常心ではいられなかったが、かすり傷一つ負わずに切り抜けられた。

 実技試験では、テーマをもとに短文を作成しろ、という課題が出された。
 思うようにいかなかった。規定の文字数を超える文字をマス目に刻むので精いっぱい。起承転結はなっていないし、キャラクターは欠陥だらけの人形のようで、そもそも文章が下手くそだ。完成した文章を読み返してそう評価を下したのではなく、書きながら下手だ、下手だと絶えず思っていたから、そうとう下手だったと思う。ライティング学科志望でもなんでもない、国語が得意な高校生のほうが、よっぽど気のきいた文章を書き上げられただろう。
 覚悟していた結果だった――その時点ではまだ出ていなかったが、出る前から分かるほどひどい出来だった――とはいえ、気分は落ちこむ。

 手を伸ばせば届く場所まで来たものの、すんでのところで指をすり抜けるのではないかと、不安で仕方がなかった。しかし、その後の学力試験では、思っていた以上に解答欄を埋められたので、テンションの低下を補って余りある自信を得た。
「まあまあかな。結果が出るまで安心はできないけど、点数はとれたと思う」
 帰りの車中で自分から父親にそう伝えたくらい、手応えはあった。


* * *


 合否発表までのあいだ、レイは明らかに関連する話題に触れることを避けていた。合格する自信はあったし、すべてをやり遂げた解放感もあって、僕としてはまったく気にしていなかったのだが、気づかってくれる優しさが素直にうれしかった。その気持ちに応えたかったし、強いて話題にする理由もなかったので、僕も黙っていた。
 規制された話題は一つで、しかも厳しい規制ではないにもかかわらず、口数が少なくなったような印象をそのころから感じていた。

 あとになって思えば、あのころに異変に気がついていれば、危機感を抱いていれば、ぎりぎりで挽回できた気もする。
 しかし、すべてが終わった今となっては、たらればの話は、脱力感を伴った虚しさを運んでくるだけだ。
 とにもかくにも話を先に進めよう。


* * *


 合否通知は平日の昼下がり郵便で届いた。その情報は事前に承知していたはずだが、合否は大学のウェブサイトを見て確かめるもの、という思いこみがなぜかあったので、大学から自分宛に届けられた郵便物だと判明した瞬間、心臓が早鐘を打ちはじめた。第一志望の大学からだ。
 動悸が治まると、さっそく開封した。もったいぶる理由はなかった。
 結果は、合格。
 正直、喜びよりも安堵感のほうが大きかった。

 学力試験は合格で、実技試験は不合格だった。
 やっぱりな、と思った。
 もともとその公算が高いと踏んでいたし、合格は勝ちとっているから、落胆はしなかった。実力を過信させず、新しい奮発材料を提供するという意味では、好ましい一敗だ。そうポジティブに捉えることができた。 

 大学で書くことを学ぶという目標が叶った。
 残るは、もう一つの目標だけ。

 合格通知が届いたのが昼下がりだと覚えていたのは、そのあとにレイと過ごした記憶があるからだ。
 ただし、遺憾ながら、愉快な記憶はわずかしか残っていない。
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