僕の輝かしい暗黒時代

阿波野治

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 翌日、レイたち進藤一家は引っ越していった。

「長いあいだお世話になりました」と、午前十時ごろにレイの母親が曽我家まで知らせに来たと、昼食の席で母親は僕に伝えた。
 僕とレイに親密な付き合いがあると知らなかった母親は、その知らせを息子に伝えるのを後回しにしたのだ。
 引っ越し先はどこかとたずねたが、レイの母親はあいまいに笑ってはぐらかし、会釈をするとさっさと曽我家を辞したという。

 僕は手にしていた箸を放り出し、進藤家へと走った。
 インターフォンを鳴らしたが、応答はない。何度も何度も押したが、結果は同じだ。玄関ドアのノブを回したが、びくともしない。
 裏口に回ってみようかとも思ったが、足は動かない。他人の家の敷地内を無断で歩き回るのが憚られたのではない。レイはもうこの場所にはいないと悟ったからだ。

 レイの連絡先は知らない。一年以上、あんなにも深く、なおかつ頻繁に交流していながら、電話番号すら交換していなかった。……家がすぐ目の前にあるからと油断していたせいで。

 レイは家族ともども引っ越し、新しい住まいがどこかは進藤一家しか知らない。
 進藤レイとの繋がりは永久に断ち切られてしまったのだ。


* * *


 覚束ない足取りで自室に入り、力なくベッドに倒れこみ、僕は泣いた。ふられたときも一滴も出なかった涙が、冗談みたいに大量に、とめどなく流れ出した。
 泣き出したばかりのころはひたすら悲しくて、悲しみが僕の心を離してくれなくて、ただただ泣いた。

 涙と悲しみが一段落すると、思い出と後悔が絡まり合いながら逆流した。
 思い出は、重大な出来事・ささいな瞬間、近い過去・遠い過去、春夏秋冬――それらが完全なるランダムで甦った。
 後悔の内容は、レイとなにがしたかった、どこに行きたかった、どんなことをしゃべりたかったといった、彼女としたかったができなかったことが大半を占めた。

 僕たちは来る日も来る日も、同じことばかりをして過ごしてきた。飲食しながら、僕はゲームで遊び、レイは漫画を読みつつ、他愛もないおしゃべりに耽る。ずっとそればかりだった。それで満足だった。
 でも、やっぱり、いろんなことをしてみたかった。いろんな場所に行ってみたかった。なぜ、一度たりともまともに提案しなかったのだろう? 
 悔やまれて、悔やまれて、悔やまれてならなかったが、もはや後の祭りだ。

 手は届かない。声も届かない。目で見ることは叶わない。体臭や髪の毛のにおいだって嗅げない。
 そう思うと、また悲しみがこみ上げてきて、涙がぶり返した。果てしがなかった。


* * *


 窓外がすっかり暗くなったころ、自室のドアがノックされた。永遠に続くかと思われた涙がとうとう涸れ、それに伴って悲しみも一段落していた。
 心を支配していた感情が消えたとはいえ、やっとのことで消えたばかり。はっきり言って誰の顔も見たくなかったが、ノックはしつこい。母親だ。
 怒鳴って、黙らせて、追い返したかったが、あいにく声が出てこない。逆に母親が、ドアを開けるよう口頭で要求した。怒鳴るわけではないが、ノックと同じく執拗だ。

 応対に出たほうが、結果的に速やかに静けさを取り戻せるのだろう。ただ、そうしたくはなかった。居留守を使うように無視してしまおうと思った。
 しかしその決意も、母親がその名前を口にするまでの命だった。

「レイちゃんから大輔宛の手紙! 読むでしょう?」

 矢も楯もたまらず、ドアを開けた。ひったくるように水色の便箋を受けとってドアを閉ざし、黙読する。
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