わたしと姫人形

阿波野治

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四日目 その7

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 姫はベージュ色のラグマットの上に正座し、ガラス製のローテーブルに向かってお絵かきをしている。
 道具はノートと鉛筆。テーブルの中央にはピーチ味のジュースの空き缶が置かれている。中はよくすすいだが、それでもまだ桃の香りがほのかに漂っている。ノートのページを大きく使っての、空き缶のスケッチだ。
 昨日の夕方、リビングのローテーブルの上にいつも出しているメモ用紙とペンを使い、姫が落書きをしているのをわたしは見た。それが頭にあったので、寝室のキャビネットからまっさらなノートを引っ張り出し、「自由に使っていいよ」と告げてローテーブルの上に置いておいた。それを活用して、昼下がりのひとときを有意義に消費しているというわけだ。

 姫が描く空き缶は陰影のつけかたが拙く、立体感に乏しい。ただ、輪郭線は描けば描くほどシャープさを増していて、それに伴って空き缶らしさも増している。缶一本を描ききる速度も次第に上がってきた。
 姫はもう十ページ近くも空き缶を描いている。ノートを見据える顔つきも、ペンを動かす手つきも、一貫して真剣だ。

 わたしは初め、ほほ笑ましい気持ちで制作の様子を見守っていた。しかし今となっては、少々病的な気配を感じている。一つの作業に没頭する――子どもにありがちと言えばありがちなのだろうが。
 気がつけば午後三時半を回っている。
 姫はもう一時間近くも同じ作業を続けている。

 一方のわたしは、帰宅してからずっと、ソファに寝ころんで過ごしている。最初は座って携帯電話をいじっていたが、やがてそれにも飽きた。というよりも、大きいとはいえない画面を見つめながら、必要に応じて指を動かす作業をくり返すのが、ある瞬間を境にたまらなく億劫になった。
 姫は作業に没頭していてこちらには見向きもしない。声をかけて注意を引いたとしても、集中力が持続している現状、わたしの意に叶う行動をとってくれるかは疑問だ。とってくれたとして、絵を描く以上の喜びを姫に提供してあげられるかは、かなり怪しい。

 ……物憂い。
 厳密にはもう少し複雑なようだが、解明し、寸分の狂いもなく当てはまる言葉を探すのも面倒だから、その一言になる。
 その気分が今朝から――いや、昨夜からずっと続いている。姫の言動や、自発的な気持ちの切り替えなどが奏功して、晴れやかな気持ちでいられた時間帯もあったが、すべて一時的なものに過ぎなかった。
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