どうせみんな死ぬ

阿波野治

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白砂の埋葬

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 俯きながら帰り道を歩いていると、不意に潮の香りを感じた。
 顔を上げると、目の前には海が広がっていた。
 足元に視線を戻すと、アスファルトの上を歩いていたはずの私の両足は、白砂を踏み締めている。
 再び顔を上げる。
 右を向けば、平坦な砂浜が果てしなく続いている。左を向けば、百メートルほどは砂浜で、それから先は雑木林だ。
 体を九十度右に回し、再び歩き出す。

 数分歩くと、波打ち際に少年が佇んでいた。
 ローティーンだろうか。アーモンド型の目を私に向け、口元に柔和な微笑みを浮かべている。体長が一メートルはあろうかという、淡い紅色の魚を胸に抱き締めている。鯛に違いない。
 少年が歩み寄ってくる。

「これをマシロに届けてくれないかな」

 幼さの残る、澄んだ声。鯛が私の胸に押し付けられる。生々しい感触に、思わず小さく悲鳴を洩らしてしまう。

「悪いけど、頼むよ」

 なおも手渡そうとしてくるので、不承不承、両腕で受け取る。ずっしりと重たいが、持ち運びできないほどではない。

「引き受けてくれるんだね。ありがとう。じゃあ、よろしく」
「ちょっと待って」

 私に背を向け、立ち去ろうとしたので、間髪を入れず呼び止めた。

「どこへ行けば、そのマシロという人に会えるの?」
「教えなくても、あなたには分かっているはずだよ」
「分からないから訊いているんじゃないか。そもそも、マシロって誰なの?」

 少年は振り向いた。口元から微笑みが消えている。私はたじろいだ。何か言ってはいけないことを言ってしまっただろうか?
 少年は私に向き直り、口元に微笑みを復活させた。

「決まっているでしょう。猫だよ。真っ白な子猫」

 思い出した。私には可愛がっていた子猫がいて、マシロという名前だったことを。
なんのって


 私が暮らすアパートの庭に一匹の子猫が姿を見せたのは、今から数週間前のことだ。

 日曜日の夕方、リビングでくつろいでいると、不意に動物の鳴き声が聞こえてきた。子猫の鳴き声だ。私の部屋のすぐ外で鳴いているらしい。
 途切れることなく続く鳴き声に集中力を削がれ、とてもではないが読書どころではない。文庫本をローテーブルに伏せ、腰を上げ,気る。庭に面した硝子戸に歩み寄り、外の様子を窺う。
 硝子戸のすぐ向こうの地面に、新雪のように真っ白な子猫がいた。瞳は透き通るような青色。肋骨が浮き出るほど痩せている。首輪は付けていない。硝子戸越しに私を見上げ、懸命に鳴いている。
 痩せ細った野良猫が訴えるように鳴くからには、要求は一つしかない。食事にありつきたいのだ。見知らぬ人間に食料の提供を求めざるを得ないほどに、その子猫は空腹なのだ。

 アパートの規則により、室内で動物を飼育したり、敷地内で餌を与えたり、といった行為は禁止されている。
 しかしながら、相手は今にも力尽きかねないほど痩せ衰えた子猫だ。禁じられているとはいえ、彼の「生きたい」という必死の訴えを無視するのは、良心が咎める。
 一回きり。一回きりであれば、禁則を破っても許されるのではないか。

 キッチンへ移動し、冷蔵庫から夕食用の鯛の刺身を取り出す。包丁で一口大に切り、それを手にリビングに引き返す。硝子戸を僅かに開け、その隙間から刺身を投げ与えると、子猫は一心不乱に食べ始めた。
 刺身はあっという間に平らげられた。子猫は上機嫌そうに顔を洗い、庭から去って行った。
 あまりにも呆気ない別れだったので、少々物足りない気持ちだったが、規則のことを考えれば、彼が猫らしい素っ気ない態度を取ってくれたのは幸いだったかもしれない。彼は飢え死にの危機をひとまず回避し、私は彼とすっぱり縁を切れた。これでよかったのだ。そう自らに言い聞かせた。

 だが子猫は、この体験に味を占めたらしく、翌日も私のもとを訪れ、やかましく鳴いて餌をねだった。

 私が取るべき行動は、心を鬼にして、子猫を追い払うことだったのだろう。
 だが、できなかった。一度食料を施したことで、触れ合う機会を持ったことで、私は彼に深い愛情を抱いてしまっていた。
 私は冷蔵庫からつまみ用のチーズを取り出し、細かくちぎって子猫に与えた。彼は昨日と同じく、貪るように餌を食べ、顔を洗って庭を後にした。



 その日以来、庭にやって来る子猫に食事を提供するのが私の日課となった。
 雄だと判明したその真っ白な生き物に、私は安直にマシロと命名した。部屋に入れることは控えたが、膝に載せて体を撫でてやったり、猫じゃらしで遊んでやったりと、存分に可愛がった。戯れる私たちを目の当たりにした者がいたならば、私がマシロの飼い主だと信じて疑わなかったに違いない。
 大家から口頭で注意を受けたのは、マシロと出会って十日目のことだった。私が子猫に餌を与えているところを目撃したと、アパートの住人から報告を受けたという。

「二度と野良猫に餌を与えないでくださいよ。今度規則を破ったら、直ちに出て行ってもらいますからね」

 険しい表情、厳しい口調で大家は宣告した。私は平謝りに謝り、二度としません、と固く誓った。

 その出来事があった翌日の夕方も、マシロは私のもとを訪れ、鳴いて餌をねだった。
 私は彼の要請を無視した。人間の私は住む家がなければ生きていけないが、猫のお前は雨風を凌げる場所さえあれば生きていける。もう私のもとには来ないでくれ。私には頼らずに生きてくれ。そう心の中で祈りながら。
 だがマシロは、私に見切りを付けるどころか、無視されば無視されるほど激しく鳴いた。
 このままでは、鳴き声を聞き付けた大家が様子を見に来る。マシロと一緒にいるところを目撃されたら、私はおしまいだ。

 追い払うべく、掃き出し窓を開けて庭に出た。マシロが駆け寄ってくる。早く食べ物を寄越せと言わんばかりに、一層やかましく鳴きながら。
 マシロが鳴かなければ、空腹だからといって一々うるさく鳴かなければ、アパートの住人に見つかることも、大家に咎められることもなく、関係を維持できたのに。そう思うと頭に血が昇った。
 マシロに向かって一歩踏み出した私の足に、思いがけず何かが触れた。シャベルだ。大家が庭木の植え替えなどをする際に使用している道具だが、どうやら片付けるのを忘れているらしい。
 私はシャベルを拾い上げた。そしてマシロの小さな頭部を狙って――。



 気が付くと、私は足元を見下ろしている。
 顔を上げると、目の前に少年はいなかった。周囲を見回したが、人の姿は見当たらない。
 幻覚だったのだろうか?
 そんな疑いを抱いたが、それは即座に否定された。私は一匹の大きな鯛を胸に抱き締めていたのだ。
 溜息をつき、再び歩き始めた。

 数分歩くと、砂浜の果てが見えた。見覚えのある景色だった。歩調を緩めることなく歩き続け、やがて果てに辿り着いた。
 チョコレート色の岩壁が垂直にそそり立っている。シャベルが立てかけられ、その横に拳大の石が置かれている。石には黒く文字が記されていた。

『マシロ、この場所に永遠に眠る』

 深く息を吐き出し、鯛を足元に置く。シャベルを握り締め、地面に穴を掘り始める。マシロは砂の中にいるのだから、供物も砂に埋めてやるべきだと考えたのだ。

 知らず知らずのうちに作業にのめり込んでいたらしい。腕をこれ以上動かせなくなり、砂の上に両脚を投げ出した時には、穴は直径一・五メートル、深さ二メートルほどに達していた。
 砂地で掘りやすかったとはいえ、埋めようとしているものが小さくないとはいえ、いくらなんでも深すぎる。
 苦笑しながら額の汗を拭う。シャベルを岩壁に立てかけ、砂の上に横たわる鯛へと手を伸ばす。

 指先が鱗に触れた瞬間、何者かに背中を押された。

 出し抜けに加えられた強い力に、私は為す術もなく穴に転落し、穴底に俯せに倒れ込んだ。文字通りあっという間の出来事だった。
 砂がクッションの役割を果たしたお陰で、負傷は免れたが、運が悪ければ大怪我を負っていたかもしれない。誰の仕業なのか?

 顔を上に向けると、

 穴の縁。
 掘り返した砂から成る小山の真横。
 一匹の動物が座り込み、私を見下ろしている。

 全身から汗が噴き出した。

 その動物に向かって叫ぼうとした、次の瞬間、砂山が大きく崩れた。
 大量の白砂が私へと降り注ぐ。
 逃げ場はどこにもない。
 砂が、死が、私に迫り来る。
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