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相葉の話
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「邪悪な人間っていうのはね、みんなみんな、己の欲望を自力では制御できない、かわいそうな出来損ないなの。私が教えている世界史の人物もそう。チンギスハンも、織田信長も、ナポレオン・ボナパルトも。大事業を成し遂げた偉人って、業績を一つ一つ検分してみると、とても残酷なことをしているでしょう。そういう人たちってね、みんな結局、己の欲望に負けているの。結果的に大きな勝利を収められたから、革命家とか、王とか、支配者とか、そういう称号を与えられただけであってね。欲望をコントロールして、上手く付き合いながら平穏な暮らしを送っている人の方が、本当はうんと偉いの。歴史に名も残さないで死んでいった市井の人たちの方が、世界史の教科書に登場するどんな人物よりも。もちろん、みんながみんな悪人ではないし、善人でもないから、ちょっと乱暴な言い方だけどね」
唇を形だけ綻ばせ、わたしの顔を見つめる。反応を窺っているらしい。わたしは返事はしないし、首は動かさないし、表情を変化させもしない。先生は語を継いだ。
「でも、清く正しく慎ましく生きている側の人間――私もそうだし、等々力さんももちろん該当すると思うんだけど。そちら側の人間だって、溜まっているものを思う存分解き放ちたいときがたまにあるでしょう? 邪悪なものを吐き出したいときが。だけど、邪悪な感情をストレートに表白しても、周りからは眉をひそめられるだけ。最悪、警察に捕まって罪に問われてしまう。歴史上の人物みたいに、結果的に一番偉い人になれれば賞賛もされるけど、その確率って限りなくゼロに近い低さだし、そういう乾坤一擲の大博打みたいなのが通用する時代じゃないからね、今はもう。じゃあどうすればいいかというと、そういう気持ちも霞むようななにかを見つければいいの。むらむらしたらスポーツで発散とか、そういう仕方なくって感じじゃなくて――どう言えばいいのかな。趣味の凄いバージョン、みたいな? 生き甲斐、なんて言うと陳腐な感じもするけど、その言葉が一番真実に近いかもしれない。それは行為でもいいし、人物でもいいし、コンテンツでもいい。人間はね、黒い感情を誰かにぶつけるんじゃなくて、そんな欲望がどうでもよくなるようななにかを見つけていくべきだと思うな、先生は」
自らの言葉がわたしの心に浸透するのを待つかのような、少し長すぎるインターバル。
「邪悪な感情も霞むようななにか、等々力さんは持ってる?」
「わたしの場合は読書、でしょうか」
ああ、という口の形をして、相葉先生はリビングの隅を一瞥した。そこには本棚が置かれている。
「ただ、ストレス発散とか、そういうことはまったく意識していません。本を読むのが好きだから読んでいるだけで」
「いいのよ、そんな感じで。でも、よかった。どう言えばいいのかな。接してみた感じ、等々力さん、心の闇を処理するのが苦手なタイプに見えたから」
わたしはおそらく、わたしをそういう人間だと見なした理由を問い質すべきだったのだろう。しかしその義務は、意識的に怠慢した。先生の術中にはまっているようで、若干の抵抗感があったから。
それを受けての相葉先生の沈黙は、どう解釈すればいいのだろう?
ほどなく、先生は食事を再開した。わたしもフォークを動かす。
やがて皿が空になる。グラスの中身も大分少なくなった。相葉先生はフォークを置いた。
「蛇足を承知で付け加えると、同じものを愛する仲間と繋がれると、なおいいわね。等々力さんの場合だと、読書仲間とか。今はSNSなんていう便利なものがあるから、チャンスはたくさんあると思うし」
相葉先生はさり気なく下唇を舐め、腰を上げる。
「悪いけど、お手洗いを貸してくれる?」
わたしは首肯し、先生はドアの向こうに消える。
唇を形だけ綻ばせ、わたしの顔を見つめる。反応を窺っているらしい。わたしは返事はしないし、首は動かさないし、表情を変化させもしない。先生は語を継いだ。
「でも、清く正しく慎ましく生きている側の人間――私もそうだし、等々力さんももちろん該当すると思うんだけど。そちら側の人間だって、溜まっているものを思う存分解き放ちたいときがたまにあるでしょう? 邪悪なものを吐き出したいときが。だけど、邪悪な感情をストレートに表白しても、周りからは眉をひそめられるだけ。最悪、警察に捕まって罪に問われてしまう。歴史上の人物みたいに、結果的に一番偉い人になれれば賞賛もされるけど、その確率って限りなくゼロに近い低さだし、そういう乾坤一擲の大博打みたいなのが通用する時代じゃないからね、今はもう。じゃあどうすればいいかというと、そういう気持ちも霞むようななにかを見つければいいの。むらむらしたらスポーツで発散とか、そういう仕方なくって感じじゃなくて――どう言えばいいのかな。趣味の凄いバージョン、みたいな? 生き甲斐、なんて言うと陳腐な感じもするけど、その言葉が一番真実に近いかもしれない。それは行為でもいいし、人物でもいいし、コンテンツでもいい。人間はね、黒い感情を誰かにぶつけるんじゃなくて、そんな欲望がどうでもよくなるようななにかを見つけていくべきだと思うな、先生は」
自らの言葉がわたしの心に浸透するのを待つかのような、少し長すぎるインターバル。
「邪悪な感情も霞むようななにか、等々力さんは持ってる?」
「わたしの場合は読書、でしょうか」
ああ、という口の形をして、相葉先生はリビングの隅を一瞥した。そこには本棚が置かれている。
「ただ、ストレス発散とか、そういうことはまったく意識していません。本を読むのが好きだから読んでいるだけで」
「いいのよ、そんな感じで。でも、よかった。どう言えばいいのかな。接してみた感じ、等々力さん、心の闇を処理するのが苦手なタイプに見えたから」
わたしはおそらく、わたしをそういう人間だと見なした理由を問い質すべきだったのだろう。しかしその義務は、意識的に怠慢した。先生の術中にはまっているようで、若干の抵抗感があったから。
それを受けての相葉先生の沈黙は、どう解釈すればいいのだろう?
ほどなく、先生は食事を再開した。わたしもフォークを動かす。
やがて皿が空になる。グラスの中身も大分少なくなった。相葉先生はフォークを置いた。
「蛇足を承知で付け加えると、同じものを愛する仲間と繋がれると、なおいいわね。等々力さんの場合だと、読書仲間とか。今はSNSなんていう便利なものがあるから、チャンスはたくさんあると思うし」
相葉先生はさり気なく下唇を舐め、腰を上げる。
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わたしは首肯し、先生はドアの向こうに消える。
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