わたしの流れ方

阿波野治

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白球の行方

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 二十四時間営業のホームセンターで、コロコロのスペアテープを買った帰り道。信号待ちをしていると、いきなり魔法使いのような恰好をした男性が近づいてきて、
「あなた、男だけど、今日から母乳出るよ」
 そうわたしに告げ、赤信号にもかかわらず、横断歩道を駆け足で渡り始めた。魔法使いは大型トラックに撥ね飛ばされ、八月の空に放物線を描いた。シャッターが下りた薬屋の店先に彼の体が叩きつけられた瞬間、信号が青に変わった。横断歩道を渡りながら、魔法使いの方を何度も振り返ったが、何度見ても彼は微動だにしなかった。
 帰宅後、シャワーで汗を流している最中に、魔法使いの言葉を思い出した。
『あなた、男だけど、今日から母乳出るよ』
 本当だろうか?
 半信半疑で右の乳首を指先でつまみ、強く押してみると、純白の乳汁が勢いよく迸り出た。乳汁は空中で一体となり、野球ボールほどの大きさの球体と化し、バスルームから出ていく。飼い主に呼ばれた子犬が駆け寄ってくる速度――要するに、結構速い。
 わたしは乳汁ボールを追いかけた。裸だったが、股間にぶら下がっているものを他人に見られたらどのような事態に発展するか、といったことは一切考えなかった。それほどまでに、乳汁ボールの行き先が気になったのだ。
 乳汁ボールは真っ直ぐにリビングへ向かった。無人だったはずのその空間に、木製バットを構えた男性がいた。小柄で、細身で、端正な目鼻立ち。プロ野球選手だ。
 乳汁ボールがストライクゾーンに達した瞬間、プロ野球選手はフルスイングした。白い塊はいとも簡単に弾き返された。プロ野球選手は、プロ野球選手としては恵まれた体格ではなく、守備や走塁を売りにしている選手に見えたが、長打力も兼ね備えたタイプだったのだろう。乳汁は易々とリビングの窓硝子を突き破り、ロケットのように力強く空を切り裂いて突き進む。
 わたしはベランダに飛び出し、手すりから身を乗り出して乳汁ボールの行方を目で追った。向かう先は、百メートルほど前方に建った県立病院。その屋上でグラブを構えている、十歳前後の少年のもとらしい。
「僕は昨日、あの少年にホームランボールを届けると約束したのさ」
 わたしの真横まで移動し、プロ野球選手は説明を述べる。
「彼は明日、難しい手術を控えているから、その成功を祈願して」
 持ち前の長打力ではなく、少年との約束を果たしたいという思いが、彼に長打を打たせたのだ。
 少年は無事にボールをキャッチできるのだろうか? 手に汗を握る思いで、乳白色の球体が病院の屋上に落ちて行くのを見守ったが、心配はどうやら杞憂に終わりそうだ。乳汁ボールは、まるで見えないレールの上を走るかのように、真っ直ぐにグラブへ向かっているのだ。
 予想通り、ボールは少年が構えたグラブに収まった。
 次の瞬間、少年の体が急激に膨張したかと思うと、風船が弾けるような音を立てて木端微塵に砕けた。
 少年がいた場所には、猿のように真っ赤な顔をした赤裸の赤ん坊が横たわっている。
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