こんな裏設定があるなんて聞いてない!裏設定を知った悪役令嬢は婚約破棄を目指します。

雪野耳子

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午後は偽りの姿でティータイムを。

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 数日ぶりの休暇だった。
 妃教育も当主教育も今日はお休み。
 昼下がりの陽光が、屋敷の中庭を静かに照らしていた。
 風はなく、花々も石畳も、ただ光を受けて柔らかく佇んでいる。
 部屋の中にもまだ昼の残り香が漂い、窓越しに見える空は青さをわずかに残している。
 夜早く眠っているのに、身体の芯には鉛のような重さが残り、肩から背中へとじんわり広がっていた。
 怠さを引きずったまま、それでもレオノールは立ち上がる。
 今日の約束をすっぽかすわけにはいかなかった。
「……ちょっと寝不足なだけ。行ってくるよ」
 レオノールは男の姿に着替え、レオフィアとは違う調子で髪を整えながら、そっとアリーとシェラに告げた。
 いつもの裏口。
 見つからないようにこっそりと。
 貴族の服にマントを羽織っただけの簡素な装いだが、彼にとっては馴染んだ本来の自分の格好だった。
「レオノール様、本当に大丈夫ですか?顔色が……」
 アリーが眉をひそめて心配そうに覗き込む。
「……今日はお出かけをやめて、もう少しお休みになった方が……」
 シェラも、いつも以上に控えめな声で言葉を添えた。
「ありがとう。でも、心配ないよ。気分転換も兼ねてるし」
 軽く手を振って笑ってみせる。たぶんその笑顔は、あまり上手くなかった。
 レオノールはふたりの視線を背に受けながら、そっと裏口の扉を開けた。
 やや冷えた空気が頬に触れ、目が覚めるような気がした。
 外へ出て、人気の少ない裏路地を抜け、少しずつ賑わいの気配が近づいてくる。
 その流れに身を委ねるように歩みを進めた。
 街の喧騒が次第に耳に入ってくる。
 石畳の通りに出ると、急に光が強くなった気がした。
 雑踏が波のように押し寄せ、陽射しが肌をじわじわと焼く。
 見知った商人たちの声も、遠くから響く鐘の音も、どこか薄く感じる。
「おや、レオさん。今日はいい天気ですね!」
 果物売りの男の声に、条件反射のように手を上げる。
「うん、いい天気だね」
 声は笑顔だった。けれど、内心では胸の奥にじわりと沈殿するものがあった。
 体の奥にじんわりと疲労が染みついているようで、露店の賑わいが少し遠くに感じる。
「今日は何か買っていかれます?」
「今日はごめん!また今度、寄るから」
 手短に返して歩を進める。
 次々と顔なじみの商人たちが挨拶を交わしてくるたびに、笑顔を作り返す。
 だが、思ったより足取りが重い。雑踏と陽射しが熱を持ち、気がつけば肩が僅かに揺れていた。
 ──ふらり。
 視界の端が滲み、陽の光が白く反射して世界が一瞬ぼやける。
 ──ふらり。
 視界の端が揺れる。足元が少し沈むような錯覚。
(……まただ)
 眉をひそめた次の瞬間、誰かの手がそっと腕を支えた。
「大丈夫か?」
 低く、穏やかな声。
 驚いて顔を上げたレオノールの視線の先には、見慣れた金髪の青年が立っていた。
(……ヴァンツァー)
 けれど、レオフィアとして接していたときとは、どこか違う。
 堅苦しさのない、落ち着いた雰囲気の服装。
 無理に背筋を張ってもいない。
 けれど品のある立ち居振る舞い。
 彼のこんな姿を見るのは、初めてだった。
「……ありがとう。助かった」
 自然と出た言葉に、ヴァンツァーは軽く頷いた。
「顔色が良くない。少し休んだほうがいい」
 断る間もなく、レオノールは近くの路地裏のカフェへと連れて行かれる。
 通されたのは、通りから少し外れた木陰のテラス席。
 視線を巡らせると、少し離れた席に見覚えのある護衛の姿。
(……なるほど。お忍びってやつか)
 納得しつつ、差し出された冷たい果実水を受け取る。
 ひんやりとしたグラスの感触が、火照った指先に心地よかった。
 そのグラスを一気に呷った。
 喉を冷たい果実水が流れる。
「ふぅ」
 ぼんやりとしていた思考がはっきりした。
「大丈夫そうだな。もう一杯頼もう」
 ヴァンツァーは軽く首を傾げながら、気遣わしげに笑った。
「ありがとう。……気を遣わせてごめん」
 レオノールが礼を言うと、ヴァンツァーは店員を呼び、同じ果実水を頼んだ。
「気にするな」
 ヴァンツァーも自分のグラスを取り、果実水を一口飲んだ。
「少し休んだら、送ろうか」
(それはまずい)
 内心で焦る。
 ヴァンツァーの目の前でラフィーナやカッシュと合流するなんて、最悪の事態だ。
「大丈夫。友人と会う予定なんだ」
「……そうか。なら、無理はするなよ」
 その言葉に、レオノールはわずかに目を見開いた。
 いつもの押しつけがましさのない、素直な気遣い。
 それが、かえって胸に引っかかる。
(……なんだ、これ)
 けれど、表情には出さない。
 そんな沈黙の間を破るように、ヴァンツァーが言った。
「そういえば、名乗ってなかったな。俺はヴァン……いや、ヴァッツと呼んでくれ」
 ほんの一瞬、言葉を飲み込んだ間があった。
(まあ、お忍びなら本名は名乗れないよな……この国に住んでて王子の名前知らないヤツなんて、いないだろうし)
「ヴァッツね、オレはレオ」
「レオか、なかなか勇ましい名だな」
 それ以上は訊かれず、互いに他愛のない会話を交わした。
 そこへ店員が新しい果実水を持ってきてくれた。
 果物の話、季節の話、人の波の多さなど、本当に些細な会話。
 だが、それだけで少し気が紛れた。
 さっきまでの眩暈も、気づけば遠のき、ヴァンツァーとの会話を楽しいと感じていた。
(あれ?コイツと居て、楽しいなんて……)
 疑問が浮かぶが、確かに今自分は楽しいと感じている。
 レオフィアのときとは全然態度が違う。
 カッシュから聞いているヴァンツァーとも違う。
 初めて見るヴァンツァーの姿に内心戸惑っていた。
 なんだか、これ以上一緒にいると拙い気がしてレオノールは話を切り上げることにした。
「そろそろ行かないと。待たせてるから」
 レオノールは立ち上がり、礼を述べてグラスをテーブルに置いた。
「今日は本当にありがとう、ヴァッツさん」
「さんはいらない。ヴァッツでいい」
「了解。じゃあね、ヴァッツ」
「気をつけてな」
 ヴァンツァーの言葉に軽く頷き、レオノールはその場を後にする。
 店を出て、人混みに紛れて歩きながら、まだ心の奥でうっすらと不思議な気持ちが渦巻いていた。
 彼のあの態度が、レオフィアに向けられるそれとはまるで違っていたから。
 ──数分後。
 カフェの席でひとり残ったヴァンツァーは、静かに水の入ったグラスを揺らしながら、ふと呟いた。
「また……会えるだろうか」
 グラスの中の果実水が陽を受けて淡く輝いていた。
 ヴァンツァーはその揺らめきをぼんやりと眺めながら、静かに瞳を細める。
 去っていった背中が、ふと脳裏に蘇った。
 どこか懐かしいような、けれど知らないものを見るような、不思議な感覚。
 この胸のざわつきが何なのか、彼自身もまだ答えを持たないまま、グラスをひと口、傾けた。
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