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DAY.3
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ドアの前に立ち、服装を整える。
何度か迷い、ノックをする。
桜を待つ。
[ハルくん]
不安だった心を撫でるような彼女の微笑み。
[本当に申し訳ない。昨日は、いろいろ悪かった。僕自信も、何故かわからないくらいひどい事したと思う。謝る]
部屋に入ってからすぐ頭を下げた。
[いや、私の方こそごめんなさい]
彼女は僕をテーブルに誘う。
[ハルくんはね、もう散らかしに来なくていいのです]
[え…]
[ハルくんは悪くないから安心して]
桜は優しい笑顔を見せながら話を続けた。
[見てた通り、私はちょっと変わってるの。特にメンタルの方がね]
冗談っぽくにっこりと笑う。
[急に笑ったり、怒ったり、時には泣いたりもするの]
それは彼女自分のせいではない。少なくとも彼女は悪くないはずだ。
[完璧な人間はこの世にいないよ。そして桜は、とても耐えがたい試練を真に受け、今それを乗り越えているさなかだとおもうんだ]
[そう言ってくれると嬉しいな]
桜の顔が和らぐ。
こんな彼女に、あんなひどい事を言ってしまったのか。精神的に弱っているのは、僕の方かもしれない。
[ハルくん]
[うん]
[ハルくんは、これから私の専属カウンセラーになってくれますか?]
[専属カウンセラー?]
つい先まで、カウンセラーが必要なのは、僕の方だと思っていたところだ。
[難しい事をさせるつもりはないよ。私の話をきいてくれればいいだけ]
[それだけでいい?]
[もう悪ふざけはしないから安心して]
まっすぐな目線。
でも昨日のあれとはまた違う。
君はいったい、いくつの顔を持っているの?
[それって今日から?]
[そうだね。今日からだよ]
[そっか]
相談と言ってもまともにするのは初めてかもしれない。
そもそもカウンセラーって…。
[じゃ、何でも聞いて!全てをさらけだすから!]
勝手に始めた。
数秒悩む。
[あのさ。君は日頃なにしてんの?]
カウンセラーとは別に、気になっていたことを先に聞く。
[パス!]
まじか。
[ははは。冗談だよ]
無邪気に笑う彼女に一旦ほっとする。
[今は無職なの。一応妹が稼いだお金で何とか暮らせている感じかな]
以外にあっさりと言った。
ふと回りを見る。
[ここも妹の?]
[そうだね。私のちっちゃい給料では、とてもかなわないところね。変な話、妹が旅を決めてから、経済的には困らなくなって…]
これではまた、くらい話になっちまう。
[そうか。前は何の仕事をやってたの?]
[当ててみて]
組んだ腕をテーブルの上に載せ、桜は子供に戻ったような顔をしている。
[パチンコ?]
[違う!]
[冗談だよ。ま、コンビニとか?]
[うむ、違う!]
[なんだ。じゃ、本屋とか?]
[大正解!すごい!]
ぱちぱちと手を叩く。
[ハルすごいじゃん!]
[当たったね]
あんな書斎を目にしたら、それぐらいは浮かぶもんだ。しかし本当にこんなんで良いのだろうか。とりあえず楽しそうだからいいか。
[本屋以外は?]
[いや。私バイト向いてないんだよね。それ以外はなし!]
[妹がいて良かったよね]
[本当だね]
言ってから気づいた。もうちょっと言葉に気を付けないと。でも彼女は気にしない様子だ。
[ハルくんは?何をしてたの?]
[僕?]
いきなり返ってきた質問に戸惑う。
[普通に大学行って、やめて、今に至るよ]
[え。大学生ね。何を勉強したの?]
[心理学]
[そうなのね!]
桜はキラキラの目で興味を示す。
[趣味は?]
[読書]
[一番好きな作家さんは?]
[そうだね。えっと]
思い出せない。僕が好きな作家…
[…桜は?]
[え? 私が先に聞いたよ? まいっか。私は小説家とかじゃないけどいい?]
[いいよ]
それじゃ質問が変わっちゃうけどな。
[桜井和寿]
[それ、僕も言おうとした]
[そうなの? 今合わせただけでしょー]
[違う。違うんだ]
違う。
無意識のうち言葉が出てしまった。
桜井和寿。
この響きが、元々僕が言おうとしていた作家さんのお名前。好きな作家って訳だ。
既視感。
単なるデジャビュかもしれないが、偶然とは言いがたい。
[誰かに言ってもらったんだ。人の人生を変えるような歌を作る人は、間違えなく素晴らしい作家さんだとね。それで私も好きになっちゃって]
熱く語る彼女の全ての言葉。
胸の何処かが暑苦しい。
[ハルくんもそう思うでしょう?]
[ああ、もちろん]
僕の言葉に感心したよう、手を合わせる。
[そうだ!ハルくんに私の好きな歌を聴かせてあげる!]
[歌うの?]
[違う!待って]
桜は楽しそうにヘッドフォンを持ってきた。
[先言ったミスチルの歌だよ。聞いて!]
桜が僕にヘッドフォンを着けた瞬間、ひどいめまいがした。
[大丈夫?]
桜の手が僕の肩に触れる。
ヘッドフォンを脱がし、自分の手で顔を拭く。
気色わるいな。
ヘッドフォンから流れる音楽。
心配する顔。
白く細い手。
[ちょっと休む?]
頷く。
不眠症な訳でもない。
頭が少し痛いだけだ。
ベッドに寝る。
彼女の匂いがする。
おでこを触る桜の手。
目が閉じられる。
[はーむ]
あくびをしながら起きる。
スッキリした。
携帯を見ると、二時間ほど寝ていたらしい。他人のベッドで寝たことは初めてだ。以外に寝られちゃうもんだな。
寝ていた部屋を出る。桜は何処だろ。休ませてくれたお礼と、専属カウンセラーとして、全く不適合だったってことを謝りゃなきゃ。
リビングにはない。少し開けられた書斎を覗く。
桜は、本を読んでいる。随分厚くて、閃くページから見ると本ではなく何らかのアルバムのようだ。それに必死で顔を寄せている。真面目な横顔…
いや待って、泣いてる…?
[さく…]
言葉が喉に詰まってしまった。
[ハル?]
桜はアルバムを後ろに隠し、そのまま突っ立った。
[ごめん。驚かせるつもりじゃ]
[ノックぐらいはして!]
[悪い]
小さくお辞儀をして、そのまま退場する。すぐに出てきた桜の顔に、拭き余った涙の跡が見える。目が会うと顔に広がる微笑み。
[もう元気になったの?]
[ああ。おかげさまで]
[もっとゆっくりしていいよ]
[ありがとう]
介護までしてもらったうえ、桜は二人分のご飯を作った。丁寧に作られたオムライス。しかも相当美味しそうだった。
[遠慮せずいっぱい食べていいから]
今日の桜は、空から降りてきた天使に違いない。
波動の激しい三日間だったけど、今ので、相当プラスの方向に変わっている。僕って案外単純過ぎなのかもしれないな。
[ハルは元々耳が弱いの?]
[いや、そんな事ないと思うけど]
自分でもわからない。何故あんな酷いめまいがしたのだろ。
[美味しい?]
おかわりまで平らげた僕に桜が聞く。正確には、過去形で質問すべきだけどな。
[うん。うまかった]
[どのぐらい?]
[すごく]
[やっぱりね…! やった!]
子供のような笑いに誘われ、僕もつい笑いがはじける。
本当にこれでいいのか。
専属カウンセラーとしての意識は、もうとっくに飛んでいっちまった。ま、嬉しいそうだからいいか。
[ハルはどんな人が好き?]
[え?]
[好きなタイプよ!ハルが好きな女の子のタイプ]
随分イケメン俳優とかが聞かれそうな質問だな。
[考えたことない]
[え、じゃさ、私みたいなタイプはどう?]
[は?]
桜って、まずどんなタイプなんだろう。
散らかされた部屋中を整理したり、生理の時お風呂に入って人を驚かされたり、風呂上がりで外を走り回ったり、でも、心強くいろんな事を担ったり、優しく許しの手を伸ばしてくれたり、看護したり、美味しい手料理を作ったり、心の上下が激しくなったり、いろいろ考えさせたり、感じさせたり、たったのこの三日間でこの僕を、そんな君みたいにさせたり…
随分似かよわれた気がする。それとももともと僕らは…
だから君はきっとー
[君は…]
[じゃいいよ。見た目でいいから、見た目!]
深刻に考えて損した。
[見た目? 桜の見た目…そうだな。強いて言えば、桜はトカゲのようでありながらも…]
[え? どういう事?]
[トカゲ]
君は何年も知り合った人のようで、でも昨日と違う他の誰かのようで、こんな僕にはよくわからないけど。
でも、確かなこと一つは。
どんな事があっても、君の事は絶対忘れられない気がするってことだよ。
[もうふざけないで! 専属カウンセラー失格!]
[え。まだ続いてたんだ]
同情かも知れない。それとも、君の悲しみや怒りのどこかで、自分にも潜んでいる何かを感じていたかも知れない。
どっちにしたって僕は、波動の激しい彼女の生活にじっくりと巻き込まれている。もちろん自己意思で。
[でもさ、すごくない? 私たちの縁]
[何で?]
[私ずっと思ってたの。ハルとどっかで会った気がするとね]
[三日前のコンビニじゃなく?]
[違うの。ちゃんと思い出せないけど、いや絶対会ってるわ。覚えてないけど]
[どっちだよ]
もちろん僕は全く覚えていない。
[えっとね、確か何年前とか? 雨の日だったかな]
[おおざっぱすぎるぞ]
[でも、だって…。いや、もういいや]
途中で止まる桜。顔がニンジン色に染まっている。
[誰と間違ったのかはわからないが、ナンパみたいなことはしないぞ、僕は]
桜は、慌てながら苦笑いをする。
[そうだね。そうだったね。それでも運命って感じしない? 掃除を頼んだらハルがジャジャンって!]
[ジャジャン?]
ただの偶然ではない気はするが、運命ってこういうもんだろうか。
[ね。ハルのニートだった時って、どうだった?]
[どうだったって言われても、別に大したことなんてなかったから]
[そうか。そうだね]
何故かほっとした顔をした桜は、冷めたお茶を優しくつかんでいる。
結構の間を利用して、先から気になっていた事を桜に話してみる。
[あのさ。これって余計なお世話なのかもしれないけど、遠く旅立つ妹のことさ、どうかできないのかな]
言葉に語弊を感じてしまう。それは旅立ちではない。命を懸けた逃亡であり、この社会が持つ暗くて残酷な現実の欠片でもある。だからと言って、そのままの意味では言えるわけがない。
[どうって?]
[あいつらが騙したんだろう? どうかならないの?]
あの仕業に法律的の問題がなくても、道徳的に、仁義的に問題がある。よく考えるとその状況は殺人脅迫ともいえる。結局、あの状況を逃れるためには、逃亡以外法律的な手段はなかったのだ。逃亡が死、この二択しかない。
[…例えば?]
[例えば…こっちからもリベンジを仕掛けるとか。もちろん、他人の事のように言うつもりはないよ。できれば力になりたいと思ってるから]
[リベンジ…?]
[ま、例えばさ…]
口を開けたまま言葉が途切れる。
いつの間にか、桜の顔が真っ白になっていた。
[ごめん。その…]
[やめて]
睨み。
激怒の寸前。
心にたまっていた憎悪が漏れないよう、桜は必死で感情を抑えている。
[もう、関わろうとしちゃだめ]
静かな声に迫力がある。
[それが、私を助ける唯一の方法よ]
[唯一って…]
[どんな形だって良いから、私のそばにいて]
恋人に言われそうな、甘い感じではない。
少し厳しめの口調。
[それで…助かるなら]
[助かるよ]
本当に、これで助かるのか。
一緒にいるだけで、誰かのためになるなんて…もちろん経験はないけど、例え恋と言うものがこんなもんだとしたら、何とも言うようがない。桜が抱えている恨み。堰を切らず耐えてきた姉としての心構え。そして行く場のない濃密な怒り。彼女の中のあらゆる感情が、自分の中にも存在している。
短いこの間に移ったのか、元々だったのかはわからない。とにかくそこから生まれた同質感がある。僕らは普通ではない。変人同士ってわけだ。自分が変人だったとは…彼女と向き合って初めて知っちまった。人は自分の鏡って訳か。
[後は?]
[え?]
[もう終わったの? 進路相談!]
いきなり明るくなってきた彼女にぴくっとする。切り替え早いな。てか、相談内容が変わってる。
[進路? 君は高校生か]
[とにかく、いいから何でも聞いて!]
先から立場も変わったような気がするけど。
[さーな…]
[え? 私には好きなタイプとか聞かないの? ずるい!]
進路相談じゃなかったのかよ。
[で、何だ]
[私の好きな人はね…秘密だよ!]
[は…?]
[冗談だよ! 私はね、強いて言えば、よく忘れっぽい人がいいかな]
[よく忘れっぽい人?]
変な物を見るような目をすると、桜は腕を組んで、じろりと横目で睨み返す。
[だってさ、いちいち覚える人って面倒くさくない?]
[そうかな]
[悪い事は、頭の中からすぐなくせばいいから]
そうか。熱い息が喉に詰まる。悪いこと。忘れたいこと。いっぱいあるはずだ。特に桜には。
[納得した]
[で? ハルは当てはまるのかな?]
[それは誠に残念だ]
僕は記憶力が良すぎる。それもそうだ。人生、今まで何一つ大したことなかったのだ。だからこそ、ちっぽけなことも、全部頭の中に入ってしまう。今もそうだ。彼女の小さい身振り手振り、時々の震え、涙、全てを記憶している。感情と結びつけられた記憶は、大脳に長く保たれるらしい。だから忘れられないと思う。余計かな。
[なんでもかんでも覚えちゃうのね! それは大変!]
[見方にもよるけどな]
[じゃ、ハルは頭がいいのかな?]
[そののりはやめろ]
[ははは。頭いいのね!]
本当に高校生か。思春期特有の情緒不安定、思いっきりはしゃいで、いきなりわらっちゃったりする。それでも何故か、それでほっとしてしまう自分がいる。
その時、桜の携帯が鳴る。
[ちょっと。ごめん]
書斎で電話を済ませた桜は、唇を噛んでいる。
[今日はこれでいい? 用事ができちゃって]
[そっか。いいよ]
何も成し遂げてないけど。
[じゃまた明日ね]
[ああ]
機嫌が随時に変わる桜を後ろにし、家に戻る。
床にずっかと寝て思う。
僕はいったい何をしているんだ?
もし誰かが、今何をしていますかと聞いたら、僕は何て答えればいいのだろ。一応、何かをしているのは確実だけど、具体的な題名が思いつかない。
掃除代理人?
専属カウンセラー?
よくよく考えたら、題名って実はどうでもいいのだ。彼女が誰かを必要とするときに、たまたま都合よく、自分がその合間を埋めただけのことだ。それを誰かは‘運命’だというかもしれない。
大きく伸びをしてから、久々に机の前に座る。
カウンセラー。
一時期、なりたいと思っていた気がする。心理学を専攻している人の多くは、後にカウンセラーになることを目指している場合が多い。
久々に昔勉強していた心理学の本を取ってみる。
[うわっ]
まいあがる埃。
こんなに?
わずかの時間でたまるもんだな。埃を適当にうちはらってから、机の上におく。お腹空いてきた頃には、すでに何時間も建っていた。
[ふむ]
面白いな。やっぱり僕は、人の心に興味がある。桜に妙な魅力を感じてしまうのも、綺麗な顔立ちや、保護本能を擽る弱々しい雰囲気だけじゃない。そういう相性だと思う。
他のやつも読んでみようか。埃まみれの本棚を指で軽く摩る。勉強に夢中だったあの頃に戻ったようだ。
うん…?
[あれ……?]
情けない声がそのまま漏れる。
一瞬回る。
僕、大学何でやめたっけ…
なんで…?
思い出せない。
相当好きだ。
読み終わった今の気持ちでわかる。
よっぽどの理由じゃないかぎり、やめるわけがないはずだ。大学時代の記憶が、ぼんやりしている。建物や背景がうす暗い。人の顔が見えない。友達はいたっけ。学科の先生は…?
[ああ…]
吐き気がする。
息苦しい…。
思い出せない。
そもそも、何を忘れたのかもわからない。自分は正常だとうったえる頭を抱え座り込む。
それで何時間が建った。部屋中を思い存分散らかし、手当次第目に焼き尽くすほど取り調べた。自分のものを調べること自体で何かが大きく間違っている。
そうだ。
あの人なら何かわかるかもしれない。そのまま守山掃除代理店に向かう。頭をどっか強くぶつかったのかもしれない。あんまりのショックで、それすら覚えてないとか。
[裕太!]
ちょうど事務所から出る裕太を見つける。友人で、僕に仕事を繋いでくれた恩人だ。
[よー。ハル、どうした?]
裕太の肩を強く握る。
[いや、ちょっと、痛いよ。どうしたんだお前!]
[裕太! お前は知ってるんだろう! 僕は誰だ!]
まいあがった自分の声に、眉間にシワを寄せる。
[何だよ。本読みすぎかよ。お前は…!]
[僕が本好きなのは知っているな…! 次は何だ! 思え出せないよ。自分がどんな人生を送っていたのか。すべてがぼんやりとなってさ。一番怖いのはよ。それに何の違和感も感じないところだよ。あまりにも自然過ぎて…]
[一旦放せ!]
道端で、何人かがジロジロと見ている。
そんなの気にしている場合ではないが、一旦裕太の肩を放した。
ロケーションを近くのカフェに移す。
[水飲め、そして深呼吸でもしろよ、お前]
一気に水を飲みこむ。
[今日、大学時代の本を取って読んだんだ。実際に何年振りかは知らない。でも面白かったんだよ]
[だろうな。お前、昔から人の心分析するの好きだったから]
[でもさ。本を読み終わって気付いたんだよ。なんでこんな面白い勉強をやめたとかね。でもこれが、しばらくしても思い付かないんだよ]
[…]
裕太の顔に一瞬戸惑いのようなものが写った。
[お前、仕事は平気か]
[話そらすなよ。平気かどうかは分からないけど、いろいろやってるよ。掃除以外にも]
逆に掃除は一度もしていない。
[初めての仕事だからさ。お前ずっとニートだったし。だから何て言うの。要するに脳がビリビリとなっちゃってるんだよ]
[ビリビリ…?]
[俺だってそうだよ。連休取って仕事に戻ると結構バタバタしちゃうし、結構前の約束とかプランなど忘れっぱなしだったりするぜ。だからビリビリあるあるってわけだな]
裕太は気にしないでと言わんばかりに、頼んだジュースを手に持つ。
何があるあるだ。ビリビリあるあるってなんだ。
[あのさ。もうちょっと聞きたいことがあるんだけど]
ジュースを手に持ったままのやつを攻める。
[僕の依頼人さ]
[依頼人関連質問は一切禁止、業務秘密ってことさ]
[そんな詳しいことは聞かないよ。ただ]
[だめだ。何も分からないし、答えられない]
頑固なやつだ。
[僕、このままだと仕事続けないよ。自分の事もちゃんと分かってないのに、他の人の世話なんてできやしない]
[世話?]
[だから、掃除とかさ]
専属カウンセラーなど言えやしない。
その時、何かを思い出したよう、裕太は携帯を取り出した。
[そっか。一応契約は、総7日、だから後4日ぐらい…それは知ってるよな]
[ああ。一週間毎日出勤。じゃ、一週間が過ぎたら終わりってことだろ?]
[ま、必要によって延長されることもあるけど。とにかく、初の依頼人だから、頼まれた事はしっかりやってよ]
[あのさ、じゃあの依頼人は、なぜ僕の事を知っているんだ…? 依頼人にも、必要以上の事は知らせてないはずだよな]
しまった顔の裕太。
裕太はワイングラスを回すよう、ジュースのコップでおしゃれな動きをしている。平常を装っている。
[三郷桜は、最初から僕の名前を知っていた]
僕の口から出た言葉に、裕太は大きく動揺し始めた。
[お前、知ってたのか。彼女のこと]
[ああ、まあな]
雪と桜のこと。
だからこそ、公は言えない。
[だから教えてくれよ。桜はなんで僕を選んだ…? これは偶然とは言い難い。どう繋がっているのかはわからないけど、私の記憶がぼんやりしているのと、僕が彼女の依頼人になったのは、ただの偶然ではない気がする。それが僕をお前のところに導いてくれた]
[そうか…]
[だから教えてよ。僕の記憶喪失と、依頼人の桜には、何の繋がりがあるんだ…?]
遂に口にしてしまった。
記憶喪失。
それ以外の言葉では、示すことが出来ない。
その時、信じがたい光景が目の前を走った。
裕太が泣き始めた。
ボロボロ。大粒の涙。
[おい…]
いきなりの涙で、僕は動揺するしかない。
何分かすぎた後、やつは急に僕を抱きついた。
[そういうことか…!]
裕太は、それからも数分後、大量の息を吐き、信じがたい話を始めた。
何度か迷い、ノックをする。
桜を待つ。
[ハルくん]
不安だった心を撫でるような彼女の微笑み。
[本当に申し訳ない。昨日は、いろいろ悪かった。僕自信も、何故かわからないくらいひどい事したと思う。謝る]
部屋に入ってからすぐ頭を下げた。
[いや、私の方こそごめんなさい]
彼女は僕をテーブルに誘う。
[ハルくんはね、もう散らかしに来なくていいのです]
[え…]
[ハルくんは悪くないから安心して]
桜は優しい笑顔を見せながら話を続けた。
[見てた通り、私はちょっと変わってるの。特にメンタルの方がね]
冗談っぽくにっこりと笑う。
[急に笑ったり、怒ったり、時には泣いたりもするの]
それは彼女自分のせいではない。少なくとも彼女は悪くないはずだ。
[完璧な人間はこの世にいないよ。そして桜は、とても耐えがたい試練を真に受け、今それを乗り越えているさなかだとおもうんだ]
[そう言ってくれると嬉しいな]
桜の顔が和らぐ。
こんな彼女に、あんなひどい事を言ってしまったのか。精神的に弱っているのは、僕の方かもしれない。
[ハルくん]
[うん]
[ハルくんは、これから私の専属カウンセラーになってくれますか?]
[専属カウンセラー?]
つい先まで、カウンセラーが必要なのは、僕の方だと思っていたところだ。
[難しい事をさせるつもりはないよ。私の話をきいてくれればいいだけ]
[それだけでいい?]
[もう悪ふざけはしないから安心して]
まっすぐな目線。
でも昨日のあれとはまた違う。
君はいったい、いくつの顔を持っているの?
[それって今日から?]
[そうだね。今日からだよ]
[そっか]
相談と言ってもまともにするのは初めてかもしれない。
そもそもカウンセラーって…。
[じゃ、何でも聞いて!全てをさらけだすから!]
勝手に始めた。
数秒悩む。
[あのさ。君は日頃なにしてんの?]
カウンセラーとは別に、気になっていたことを先に聞く。
[パス!]
まじか。
[ははは。冗談だよ]
無邪気に笑う彼女に一旦ほっとする。
[今は無職なの。一応妹が稼いだお金で何とか暮らせている感じかな]
以外にあっさりと言った。
ふと回りを見る。
[ここも妹の?]
[そうだね。私のちっちゃい給料では、とてもかなわないところね。変な話、妹が旅を決めてから、経済的には困らなくなって…]
これではまた、くらい話になっちまう。
[そうか。前は何の仕事をやってたの?]
[当ててみて]
組んだ腕をテーブルの上に載せ、桜は子供に戻ったような顔をしている。
[パチンコ?]
[違う!]
[冗談だよ。ま、コンビニとか?]
[うむ、違う!]
[なんだ。じゃ、本屋とか?]
[大正解!すごい!]
ぱちぱちと手を叩く。
[ハルすごいじゃん!]
[当たったね]
あんな書斎を目にしたら、それぐらいは浮かぶもんだ。しかし本当にこんなんで良いのだろうか。とりあえず楽しそうだからいいか。
[本屋以外は?]
[いや。私バイト向いてないんだよね。それ以外はなし!]
[妹がいて良かったよね]
[本当だね]
言ってから気づいた。もうちょっと言葉に気を付けないと。でも彼女は気にしない様子だ。
[ハルくんは?何をしてたの?]
[僕?]
いきなり返ってきた質問に戸惑う。
[普通に大学行って、やめて、今に至るよ]
[え。大学生ね。何を勉強したの?]
[心理学]
[そうなのね!]
桜はキラキラの目で興味を示す。
[趣味は?]
[読書]
[一番好きな作家さんは?]
[そうだね。えっと]
思い出せない。僕が好きな作家…
[…桜は?]
[え? 私が先に聞いたよ? まいっか。私は小説家とかじゃないけどいい?]
[いいよ]
それじゃ質問が変わっちゃうけどな。
[桜井和寿]
[それ、僕も言おうとした]
[そうなの? 今合わせただけでしょー]
[違う。違うんだ]
違う。
無意識のうち言葉が出てしまった。
桜井和寿。
この響きが、元々僕が言おうとしていた作家さんのお名前。好きな作家って訳だ。
既視感。
単なるデジャビュかもしれないが、偶然とは言いがたい。
[誰かに言ってもらったんだ。人の人生を変えるような歌を作る人は、間違えなく素晴らしい作家さんだとね。それで私も好きになっちゃって]
熱く語る彼女の全ての言葉。
胸の何処かが暑苦しい。
[ハルくんもそう思うでしょう?]
[ああ、もちろん]
僕の言葉に感心したよう、手を合わせる。
[そうだ!ハルくんに私の好きな歌を聴かせてあげる!]
[歌うの?]
[違う!待って]
桜は楽しそうにヘッドフォンを持ってきた。
[先言ったミスチルの歌だよ。聞いて!]
桜が僕にヘッドフォンを着けた瞬間、ひどいめまいがした。
[大丈夫?]
桜の手が僕の肩に触れる。
ヘッドフォンを脱がし、自分の手で顔を拭く。
気色わるいな。
ヘッドフォンから流れる音楽。
心配する顔。
白く細い手。
[ちょっと休む?]
頷く。
不眠症な訳でもない。
頭が少し痛いだけだ。
ベッドに寝る。
彼女の匂いがする。
おでこを触る桜の手。
目が閉じられる。
[はーむ]
あくびをしながら起きる。
スッキリした。
携帯を見ると、二時間ほど寝ていたらしい。他人のベッドで寝たことは初めてだ。以外に寝られちゃうもんだな。
寝ていた部屋を出る。桜は何処だろ。休ませてくれたお礼と、専属カウンセラーとして、全く不適合だったってことを謝りゃなきゃ。
リビングにはない。少し開けられた書斎を覗く。
桜は、本を読んでいる。随分厚くて、閃くページから見ると本ではなく何らかのアルバムのようだ。それに必死で顔を寄せている。真面目な横顔…
いや待って、泣いてる…?
[さく…]
言葉が喉に詰まってしまった。
[ハル?]
桜はアルバムを後ろに隠し、そのまま突っ立った。
[ごめん。驚かせるつもりじゃ]
[ノックぐらいはして!]
[悪い]
小さくお辞儀をして、そのまま退場する。すぐに出てきた桜の顔に、拭き余った涙の跡が見える。目が会うと顔に広がる微笑み。
[もう元気になったの?]
[ああ。おかげさまで]
[もっとゆっくりしていいよ]
[ありがとう]
介護までしてもらったうえ、桜は二人分のご飯を作った。丁寧に作られたオムライス。しかも相当美味しそうだった。
[遠慮せずいっぱい食べていいから]
今日の桜は、空から降りてきた天使に違いない。
波動の激しい三日間だったけど、今ので、相当プラスの方向に変わっている。僕って案外単純過ぎなのかもしれないな。
[ハルは元々耳が弱いの?]
[いや、そんな事ないと思うけど]
自分でもわからない。何故あんな酷いめまいがしたのだろ。
[美味しい?]
おかわりまで平らげた僕に桜が聞く。正確には、過去形で質問すべきだけどな。
[うん。うまかった]
[どのぐらい?]
[すごく]
[やっぱりね…! やった!]
子供のような笑いに誘われ、僕もつい笑いがはじける。
本当にこれでいいのか。
専属カウンセラーとしての意識は、もうとっくに飛んでいっちまった。ま、嬉しいそうだからいいか。
[ハルはどんな人が好き?]
[え?]
[好きなタイプよ!ハルが好きな女の子のタイプ]
随分イケメン俳優とかが聞かれそうな質問だな。
[考えたことない]
[え、じゃさ、私みたいなタイプはどう?]
[は?]
桜って、まずどんなタイプなんだろう。
散らかされた部屋中を整理したり、生理の時お風呂に入って人を驚かされたり、風呂上がりで外を走り回ったり、でも、心強くいろんな事を担ったり、優しく許しの手を伸ばしてくれたり、看護したり、美味しい手料理を作ったり、心の上下が激しくなったり、いろいろ考えさせたり、感じさせたり、たったのこの三日間でこの僕を、そんな君みたいにさせたり…
随分似かよわれた気がする。それとももともと僕らは…
だから君はきっとー
[君は…]
[じゃいいよ。見た目でいいから、見た目!]
深刻に考えて損した。
[見た目? 桜の見た目…そうだな。強いて言えば、桜はトカゲのようでありながらも…]
[え? どういう事?]
[トカゲ]
君は何年も知り合った人のようで、でも昨日と違う他の誰かのようで、こんな僕にはよくわからないけど。
でも、確かなこと一つは。
どんな事があっても、君の事は絶対忘れられない気がするってことだよ。
[もうふざけないで! 専属カウンセラー失格!]
[え。まだ続いてたんだ]
同情かも知れない。それとも、君の悲しみや怒りのどこかで、自分にも潜んでいる何かを感じていたかも知れない。
どっちにしたって僕は、波動の激しい彼女の生活にじっくりと巻き込まれている。もちろん自己意思で。
[でもさ、すごくない? 私たちの縁]
[何で?]
[私ずっと思ってたの。ハルとどっかで会った気がするとね]
[三日前のコンビニじゃなく?]
[違うの。ちゃんと思い出せないけど、いや絶対会ってるわ。覚えてないけど]
[どっちだよ]
もちろん僕は全く覚えていない。
[えっとね、確か何年前とか? 雨の日だったかな]
[おおざっぱすぎるぞ]
[でも、だって…。いや、もういいや]
途中で止まる桜。顔がニンジン色に染まっている。
[誰と間違ったのかはわからないが、ナンパみたいなことはしないぞ、僕は]
桜は、慌てながら苦笑いをする。
[そうだね。そうだったね。それでも運命って感じしない? 掃除を頼んだらハルがジャジャンって!]
[ジャジャン?]
ただの偶然ではない気はするが、運命ってこういうもんだろうか。
[ね。ハルのニートだった時って、どうだった?]
[どうだったって言われても、別に大したことなんてなかったから]
[そうか。そうだね]
何故かほっとした顔をした桜は、冷めたお茶を優しくつかんでいる。
結構の間を利用して、先から気になっていた事を桜に話してみる。
[あのさ。これって余計なお世話なのかもしれないけど、遠く旅立つ妹のことさ、どうかできないのかな]
言葉に語弊を感じてしまう。それは旅立ちではない。命を懸けた逃亡であり、この社会が持つ暗くて残酷な現実の欠片でもある。だからと言って、そのままの意味では言えるわけがない。
[どうって?]
[あいつらが騙したんだろう? どうかならないの?]
あの仕業に法律的の問題がなくても、道徳的に、仁義的に問題がある。よく考えるとその状況は殺人脅迫ともいえる。結局、あの状況を逃れるためには、逃亡以外法律的な手段はなかったのだ。逃亡が死、この二択しかない。
[…例えば?]
[例えば…こっちからもリベンジを仕掛けるとか。もちろん、他人の事のように言うつもりはないよ。できれば力になりたいと思ってるから]
[リベンジ…?]
[ま、例えばさ…]
口を開けたまま言葉が途切れる。
いつの間にか、桜の顔が真っ白になっていた。
[ごめん。その…]
[やめて]
睨み。
激怒の寸前。
心にたまっていた憎悪が漏れないよう、桜は必死で感情を抑えている。
[もう、関わろうとしちゃだめ]
静かな声に迫力がある。
[それが、私を助ける唯一の方法よ]
[唯一って…]
[どんな形だって良いから、私のそばにいて]
恋人に言われそうな、甘い感じではない。
少し厳しめの口調。
[それで…助かるなら]
[助かるよ]
本当に、これで助かるのか。
一緒にいるだけで、誰かのためになるなんて…もちろん経験はないけど、例え恋と言うものがこんなもんだとしたら、何とも言うようがない。桜が抱えている恨み。堰を切らず耐えてきた姉としての心構え。そして行く場のない濃密な怒り。彼女の中のあらゆる感情が、自分の中にも存在している。
短いこの間に移ったのか、元々だったのかはわからない。とにかくそこから生まれた同質感がある。僕らは普通ではない。変人同士ってわけだ。自分が変人だったとは…彼女と向き合って初めて知っちまった。人は自分の鏡って訳か。
[後は?]
[え?]
[もう終わったの? 進路相談!]
いきなり明るくなってきた彼女にぴくっとする。切り替え早いな。てか、相談内容が変わってる。
[進路? 君は高校生か]
[とにかく、いいから何でも聞いて!]
先から立場も変わったような気がするけど。
[さーな…]
[え? 私には好きなタイプとか聞かないの? ずるい!]
進路相談じゃなかったのかよ。
[で、何だ]
[私の好きな人はね…秘密だよ!]
[は…?]
[冗談だよ! 私はね、強いて言えば、よく忘れっぽい人がいいかな]
[よく忘れっぽい人?]
変な物を見るような目をすると、桜は腕を組んで、じろりと横目で睨み返す。
[だってさ、いちいち覚える人って面倒くさくない?]
[そうかな]
[悪い事は、頭の中からすぐなくせばいいから]
そうか。熱い息が喉に詰まる。悪いこと。忘れたいこと。いっぱいあるはずだ。特に桜には。
[納得した]
[で? ハルは当てはまるのかな?]
[それは誠に残念だ]
僕は記憶力が良すぎる。それもそうだ。人生、今まで何一つ大したことなかったのだ。だからこそ、ちっぽけなことも、全部頭の中に入ってしまう。今もそうだ。彼女の小さい身振り手振り、時々の震え、涙、全てを記憶している。感情と結びつけられた記憶は、大脳に長く保たれるらしい。だから忘れられないと思う。余計かな。
[なんでもかんでも覚えちゃうのね! それは大変!]
[見方にもよるけどな]
[じゃ、ハルは頭がいいのかな?]
[そののりはやめろ]
[ははは。頭いいのね!]
本当に高校生か。思春期特有の情緒不安定、思いっきりはしゃいで、いきなりわらっちゃったりする。それでも何故か、それでほっとしてしまう自分がいる。
その時、桜の携帯が鳴る。
[ちょっと。ごめん]
書斎で電話を済ませた桜は、唇を噛んでいる。
[今日はこれでいい? 用事ができちゃって]
[そっか。いいよ]
何も成し遂げてないけど。
[じゃまた明日ね]
[ああ]
機嫌が随時に変わる桜を後ろにし、家に戻る。
床にずっかと寝て思う。
僕はいったい何をしているんだ?
もし誰かが、今何をしていますかと聞いたら、僕は何て答えればいいのだろ。一応、何かをしているのは確実だけど、具体的な題名が思いつかない。
掃除代理人?
専属カウンセラー?
よくよく考えたら、題名って実はどうでもいいのだ。彼女が誰かを必要とするときに、たまたま都合よく、自分がその合間を埋めただけのことだ。それを誰かは‘運命’だというかもしれない。
大きく伸びをしてから、久々に机の前に座る。
カウンセラー。
一時期、なりたいと思っていた気がする。心理学を専攻している人の多くは、後にカウンセラーになることを目指している場合が多い。
久々に昔勉強していた心理学の本を取ってみる。
[うわっ]
まいあがる埃。
こんなに?
わずかの時間でたまるもんだな。埃を適当にうちはらってから、机の上におく。お腹空いてきた頃には、すでに何時間も建っていた。
[ふむ]
面白いな。やっぱり僕は、人の心に興味がある。桜に妙な魅力を感じてしまうのも、綺麗な顔立ちや、保護本能を擽る弱々しい雰囲気だけじゃない。そういう相性だと思う。
他のやつも読んでみようか。埃まみれの本棚を指で軽く摩る。勉強に夢中だったあの頃に戻ったようだ。
うん…?
[あれ……?]
情けない声がそのまま漏れる。
一瞬回る。
僕、大学何でやめたっけ…
なんで…?
思い出せない。
相当好きだ。
読み終わった今の気持ちでわかる。
よっぽどの理由じゃないかぎり、やめるわけがないはずだ。大学時代の記憶が、ぼんやりしている。建物や背景がうす暗い。人の顔が見えない。友達はいたっけ。学科の先生は…?
[ああ…]
吐き気がする。
息苦しい…。
思い出せない。
そもそも、何を忘れたのかもわからない。自分は正常だとうったえる頭を抱え座り込む。
それで何時間が建った。部屋中を思い存分散らかし、手当次第目に焼き尽くすほど取り調べた。自分のものを調べること自体で何かが大きく間違っている。
そうだ。
あの人なら何かわかるかもしれない。そのまま守山掃除代理店に向かう。頭をどっか強くぶつかったのかもしれない。あんまりのショックで、それすら覚えてないとか。
[裕太!]
ちょうど事務所から出る裕太を見つける。友人で、僕に仕事を繋いでくれた恩人だ。
[よー。ハル、どうした?]
裕太の肩を強く握る。
[いや、ちょっと、痛いよ。どうしたんだお前!]
[裕太! お前は知ってるんだろう! 僕は誰だ!]
まいあがった自分の声に、眉間にシワを寄せる。
[何だよ。本読みすぎかよ。お前は…!]
[僕が本好きなのは知っているな…! 次は何だ! 思え出せないよ。自分がどんな人生を送っていたのか。すべてがぼんやりとなってさ。一番怖いのはよ。それに何の違和感も感じないところだよ。あまりにも自然過ぎて…]
[一旦放せ!]
道端で、何人かがジロジロと見ている。
そんなの気にしている場合ではないが、一旦裕太の肩を放した。
ロケーションを近くのカフェに移す。
[水飲め、そして深呼吸でもしろよ、お前]
一気に水を飲みこむ。
[今日、大学時代の本を取って読んだんだ。実際に何年振りかは知らない。でも面白かったんだよ]
[だろうな。お前、昔から人の心分析するの好きだったから]
[でもさ。本を読み終わって気付いたんだよ。なんでこんな面白い勉強をやめたとかね。でもこれが、しばらくしても思い付かないんだよ]
[…]
裕太の顔に一瞬戸惑いのようなものが写った。
[お前、仕事は平気か]
[話そらすなよ。平気かどうかは分からないけど、いろいろやってるよ。掃除以外にも]
逆に掃除は一度もしていない。
[初めての仕事だからさ。お前ずっとニートだったし。だから何て言うの。要するに脳がビリビリとなっちゃってるんだよ]
[ビリビリ…?]
[俺だってそうだよ。連休取って仕事に戻ると結構バタバタしちゃうし、結構前の約束とかプランなど忘れっぱなしだったりするぜ。だからビリビリあるあるってわけだな]
裕太は気にしないでと言わんばかりに、頼んだジュースを手に持つ。
何があるあるだ。ビリビリあるあるってなんだ。
[あのさ。もうちょっと聞きたいことがあるんだけど]
ジュースを手に持ったままのやつを攻める。
[僕の依頼人さ]
[依頼人関連質問は一切禁止、業務秘密ってことさ]
[そんな詳しいことは聞かないよ。ただ]
[だめだ。何も分からないし、答えられない]
頑固なやつだ。
[僕、このままだと仕事続けないよ。自分の事もちゃんと分かってないのに、他の人の世話なんてできやしない]
[世話?]
[だから、掃除とかさ]
専属カウンセラーなど言えやしない。
その時、何かを思い出したよう、裕太は携帯を取り出した。
[そっか。一応契約は、総7日、だから後4日ぐらい…それは知ってるよな]
[ああ。一週間毎日出勤。じゃ、一週間が過ぎたら終わりってことだろ?]
[ま、必要によって延長されることもあるけど。とにかく、初の依頼人だから、頼まれた事はしっかりやってよ]
[あのさ、じゃあの依頼人は、なぜ僕の事を知っているんだ…? 依頼人にも、必要以上の事は知らせてないはずだよな]
しまった顔の裕太。
裕太はワイングラスを回すよう、ジュースのコップでおしゃれな動きをしている。平常を装っている。
[三郷桜は、最初から僕の名前を知っていた]
僕の口から出た言葉に、裕太は大きく動揺し始めた。
[お前、知ってたのか。彼女のこと]
[ああ、まあな]
雪と桜のこと。
だからこそ、公は言えない。
[だから教えてくれよ。桜はなんで僕を選んだ…? これは偶然とは言い難い。どう繋がっているのかはわからないけど、私の記憶がぼんやりしているのと、僕が彼女の依頼人になったのは、ただの偶然ではない気がする。それが僕をお前のところに導いてくれた]
[そうか…]
[だから教えてよ。僕の記憶喪失と、依頼人の桜には、何の繋がりがあるんだ…?]
遂に口にしてしまった。
記憶喪失。
それ以外の言葉では、示すことが出来ない。
その時、信じがたい光景が目の前を走った。
裕太が泣き始めた。
ボロボロ。大粒の涙。
[おい…]
いきなりの涙で、僕は動揺するしかない。
何分かすぎた後、やつは急に僕を抱きついた。
[そういうことか…!]
裕太は、それからも数分後、大量の息を吐き、信じがたい話を始めた。
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