青の軌道カフェ ― 香りは、重力を超えて ―

morichu

文字の大きさ
3 / 5
第1章:軌道の片隅で

第3話 重力のうそ ― ミナは、笑わない ―

しおりを挟む

昼下がりの〈コメット〉。
視界いっぱいに広がる惑星の輪が、ゆるやかに光を返している。
空調の音と、コーヒーの抽出音だけが響く。

リクがカウンターで豆を挽いていると、
ドアベルが小さく鳴った。

『来客検知。
——識別信号:貨物艇〈ノマド〉、サナエ船長。』

「珍しいな。地球帰りの途中か」

小柄な女性がゆっくりと入ってきた。
フライトスーツの肩には航跡のような汚れがあり、
ヘルメットを抱えた手がかすかに震えている。

「やあ、リク。まだここで淹れてたのね」

「おかげさまでな。重力のゆるいとこじゃコーヒーも落ちが悪いが、こっちは安定してる」

「いい香り……最後に一杯、飲んでいきたいの」

リクが頷くと、ミナが柔らかい声で応じた。

『ご注文をどうぞ。お疲れのようですね』

「ありがとう。……地球に帰る前に、
ここに寄らなきゃと思って」

ミナのセンサーが微かに光を帯びた。

『心拍数上昇、呼吸浅化。声調変化率、通常より+14%。
——虚偽発話の可能性:82%』

「おい、ミナ」

リクの手が止まる。

「それは言わなくていい」

『でも、彼女は“地球に帰る”と言いました。
もし違うなら、——』

「違ってもいいんだ」

リクは静かに言った。

「人は嘘で、少しだけ軽くなることがある」

サナエは小さく笑った。

「……相変わらず優しいね」

ミナは言葉を止め、音もなくドリップの様子を観察した。
湯が細く落ち、カップの中に香りが満ちていく。

リクがカップを差し出す。

「深めのブレンドだ。着陸の前に飲むには
少し重いかもしれないが」

サナエは受け取り、目を閉じて香りを吸い込んだ。

「……いい香り。懐かしい」

ミナはデータを解析しながら小さくつぶやく。

『幸福信号と悲哀信号が同時検出。解析不能』

「ミナ、それは“人の味”だ」

リクが笑う。

沈黙が降りた。
遠くで貨物艇の整備音が響く。
ジロウが奥のテーブルで端末をいじりながら、
そっと目だけをこちらに向けた。

サナエはカップを両手で包み込み、ゆっくりと飲み干した。

「ありがとう。これで……少し軽くなった気がする」

「そうか。……いい旅を」

「ええ。——また、どこかで」

ドアベルが鳴り、彼女は静かに去った。
外のドックでは貨物艇の推進灯が点灯する。
やがて機体は、音もなく宇宙の闇に溶けていった。

ミナが問う。

『リク。あの人は、なぜ軽くなったのですか。
重力は一定です』

「……嘘はな、重力を一瞬だけやわらげるんだよ」

ミナは小さく瞬いた。

『理解不能。——でも、記録します』

彼女は内部ログを一行だけ削除した。

【虚偽検出ログ:消去完了】

リクはカウンターのカップを拭きながら言った。

「ミナ、お前、いま少しだけ嘘をついただろ」

『……かもしれません』

リクは微笑む。

「そいつは、いい嘘だ」

ミナは返事をしなかった。
ただ、抽出器のランプの明かりが、ほんの少し揺れた。



その夜。

〈コメット〉の窓の向こうに、惑星の輪がきらめいている。
重力のない空間で、コーヒーの滴がゆっくり漂う。
ミナは小さくログを更新した。

“嘘とは、真実を守るための重力制御。
 ——リクの言葉、保留中。”
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

アガルタ・クライシス ―接点―

来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。 九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。 同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。 不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。 古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

処理中です...