憑代の柩

菱沼あゆ

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偽りの婚約者

霊が見えるのなら――

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 苦しい。
 苦しいな。

 なんでだろ?

 ああ、そう。

 誰かが私の首を絞めているからだ――。



 ふっと私は目を覚ました。

 女の顔が目の前にある。

「わっ」

 だが、それは声を上げる前に、掻き消えていた。

 長い髪の女だ。

 鋭角的な顎と鋭い眼がその髪の下から覗いていた。

 消えたあとも視界に焼きついている。

 溜息をつき、ベッドから下りた。

 さすがに、今、霊が出たばかりの場所に寝ていたくない。

 怖いというより、驚くからだ。

 かと言って、何処に行くといっても、この部屋自体、ちょっとなあ。

 廊下の隅に男はしゃがんでいるし。

 どの程度あづさに見えていたのか知らないが、普通の神経なら部屋を変わってる、と思った。

 そして、唯一まともそうな台所へ向かおうとして気づいた。

 洗面所に誰か居る。

 たぶん、霊だろうと思う。

 だから、霊に対して、こんな風にするのはおかしいと思いながらも、足音を忍ばせ、近づいていった。

 なんだかその霊が息を潜めている感じがしたからだ。

 下手な音を立てたら、逃げてしまうかもしれない。

 そうっと洗面所を覗き込んだ。

 軽くウェーブのついたセミロングの髪の女が洗面所の鏡の前に居る。

 白い洗面台の上に花柄の透けるようなポーチを開き、何かしているようだった。

 女はこちらにはまだ気づいていない。

 俯き、一生懸命、そのポーチの中だけを漁っている。

 彼女の前の鏡に映らない位置に身を置き、その姿を見つめていた。



 朝日の中、目が覚めた私は、自動的に朝ご飯の支度をしていた。

 じゃがいもと玉葱のお味噌汁に、納豆。

 お醤油をかけた海苔。

 それに炒めたウインナーご飯を食べ、支度をし、鏡を覗いた。

 今は自分以外の誰もそこに映らない。

 自分の歯ブラシを取る。

 人様の物を使うのも悪い気がしたので、昨日、食事のあと、衛を付き合わせてドラッグストアに行ってきたのだ。

 ブラシや歯ブラシ、タオルなんかを買い込んだ衛は滅多にそんなところに入らないのか、物珍しそうに見回したあと、カートを押したいと言ってきた。

「いやいやいや、どっかで見張っている護衛の人とやらに、無礼討ちにされても困りますから」

「なにを言ってるんだ。
 お前は一応、僕の婚約者だ」
と衛は、彼の手を払ったこちらの手を払う。

「いやいやいや、貴方、押してみたいだけでしょう?」

 そんな子どものような遣り取りを続けたあと、実は子どもではない衛に、全部買ってもらってしまった。

 なんというか。

 外見と違って、子どもっぽいよなあ、あの人。

 お坊ちゃんだからかな、と思いながら、ブラシを握り締める。

 梳かした髪が白い洗面台に落ち、拾った。

 自分のその髪を廊下側の窓から射し込む朝日にかざして見る。

 ひとつ、気になっていることがあった。

 鏡の前に置かれているあづさのブラシだ。

 綺麗だ。

 まるで使われていなかったかのように。

 それを手に取ろうとしたとき、無意識のうちに、手袋を探していた。

 いや、ないよな、と思ったとき、チャイムが鳴った。

 はいはいはーいと適当な返事をして開けると、衛が立っていた。

 朝っぱらから心臓に悪いほど、整った顔だ。

 間違って、ドアではなく、雑誌のページでも開いたかと思てしまう。

 なんですか?と言うと、

「いきなりドアを開けるな。
 犯人だったらどうする」

 開口一番怒鳴られた。

 肩をすくめたあとで、

「刺されてもとりあえず、腕は掴んでおきますよ」
と言うと、衛は視線を逸らし、

「……笑えないことを言うな」
と言った。

 一応、心配はしてくれているのだろうかと思い、無駄に高い位置にあるその顔を見上げてみたが、相変わらずの無表情だった。

「まだ呑気に朝食か」

 テーブルに載ったままのそれを見て言う。

「いやいやいや。
 食べましたよ。

 寝不足で食欲がないので、残してるだけです」

「寝不足?」

「どうでもいいけど、上がりませんか?
 心配しなくても、部屋に入ったから結婚してくれなんて言いませんから」
と言うと、少しの間の後、小さな声で、莫迦か、と吐き捨てる。

 おっと。
 この顔で言ってはいけなかったか、と気づいたが、遅かった。

 どうも私という人間は、少々無神経らしい、と思った。

 先に奥に入りながら、

「えーとですね。
 昨日、ちょっと夜中に首を絞められまして。

 他にも人気を感じたりしたので、寝そびれたんです」
と報告してみた。

「首を絞められた?
 誰に?」

「顔は長い髪の陰に隠れていたのでちょっと。
 ま、女でしたね」

「それは――
 生きてない人間か?」

「そうですよ。
 お茶、飲みますか?」
と言うと、それを先に言え、と怒っている。

「なんでですか。

 戸締まりしている部屋の中に、突然、人が現れて、首を絞めたり、うろうろしたりしていたりしたら、それは霊でしょう?」

「お前のルールで物を言うな」

 衛は少し迷うような素振りをしたあとで、朝食が載ったままのテーブルの前、

 ベッドを背に腰を下ろした。

 すぐそこにある台所にお茶淹れに行きながら言う。

「私の首を絞めたんですかね?」

 俯き、カーペットを見ていた衛は怪訝そうに顔を上げた。

「私の首を絞めたんですかね?

 佐野あづささんの首を絞めたつもりだったんですかね? あの霊」

「あづさの部屋で、あづさの顔だからか?

 いや、待て。

 霊が外見に騙されるものなのか?」

「知りませんよ。
 なったことないですから、霊」

 そこで気づいたように衛は言った。

「ちょっと待て。
 お前、霊が見えるのなら、あづさの霊も見えるんじゃないのか?」

 それなんですけど、と眉根を寄せる。

「そこの洗面所にずっと人が立ってるんですよ。

 俯き気味なので、顔はよく見えないんですが。

 あれ、あづささんなんですかね?

 今の私と、背格好と髪型が似てますが」

 衛は少し考え
「あづさは何をしている?」
と訊いてきた。

「ポーチの中を漁っています」

「ポーチの中?」




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