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異世を映す瞳は
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秋の満月は、澄んだ景色に光を落とす。雲は一つもなく、夜だというのにすべてを暴くかのように明るかった。人の寄り付かない崖で、道に迷った旭はそれを見た。淡くそれでいて力強い月光に照らされる、何者かの裸体を。
山草狩りの途中、山道に迷い月明かりを頼りに歩いていた。何度も通った慣れた山道のはずが、見慣れぬ景色が旭の周りに広がり、気づけば自分の立つそこがどこなのかもわからなくなった。
裸体の男はその身に淡い光を受けて、崖のこちら側に濃く影を落とす。白髪は銀色に輝き、冷たい風に揺れた。あらわになったうなじから、男らしく盛り上がった首に肩、引き締まった腰からは煽情的に伸びる長く逞しい脚が美しい曲線を描く。その白さがこの世の者でないことを物語っている。
「…出てきたらどうだ」
背筋がぞくっと震えた。冷えきった声は晩秋の風よりも体を冷やす。考える間もなく、恐怖と好奇心の赴くままに旭は彼の後ろに立った。
「あの、わざとじゃ…」
「人の子か?」
「え?」
「なぜここにいる?」
「えっと、道に迷ってしまって」
「帰り道がわからないと?」
「はい…」
ふっと鼻で笑われたのがわかった。その笑いが嘲笑に思えて、旭の中では怒りが芽生え、徐々に恐怖に勝っていく。旭は来年、成人する。子供っぽいと笑われるのは嫌だった。
忍んで山菜採り用の刃を握る。荒く呼吸を繰り返しながら距離を詰めていった。
「そんなもので俺が殺せると思っているのか?」
「…っ!」
音もなく目の前から男の姿が消えたかと思えば、背後をとられて自由を奪われる。刃を持つ手は手首を握られ、首には何か尖ったものがあてられた。
「…ん? お前…いい匂いだな」
「え…?」
「ここに迷い込んではもう元の場所には戻れまい。俺の花嫁になれ」
選択の余地もなく、男は旭の首をなめて濡らした。
「ね、待っ…いっ!」
がぶりと牙を穿たれ、一瞬の痛みに体をこわばらせる。死ぬ、と咄嗟に思った旭の頭の中には走馬灯のような、知らない記憶が流れ始めた。
優しげに笑うのは、果たして誰だろうか。
育ての親か、それとも恋人か。慈しむように頭を撫でられ、そのたびに胸には温かい何かがじんわりと広がっていく。彼には翼があって、空を飛び、どこまでも自由だった。飛ぶのはいつも夜で、昼は暗い部屋の中でぐっすりと眠った。
自分の自由は彼の用意した広すぎる庭だけだったけれど、それで十分だった。季節は巡り、植物はそれに合わせて咲き誇る。遊具は彼に言えば作ってくれた。彼との日々が楽しくて、そこを出ようとは思わなかった。
「外には恐ろしい生き物がいる。だからこの紐の外に出てはいけないよ」
彼にはそう言われていたけれど、その紐の前に立つ自分にはどうしても欲しいものがあった。昼間にしか咲かないという、昼顔の花である。広大な庭の植物はすべて彼が紐の外側から持ってきたもので、夜に咲いていたり、咲いていなくてもそれとわかるものだけを集めた。
世界中の植物が載っている書斎の植物図鑑の中に、庭にないものを見つけたのがきっかけだった。淡い赤い紫色の、たった一枚の花弁からなる昼顔の花を彼に見せてやりたかった。
自分の欲望にあらがえず、後ろ髪を引かれる気持ちのまま、紐を乗り越えて村へと下りてしまった。
「お、お前は…」
村の人々は、「生贄」だの、「山神の怒り」だのと繰り返し、逃げていった。ただ、昼顔の花をひと房もらいたいと言っただけなのに。
誰もいなくなった村に屈強な男だけが戻ってきたかと思えば、囲むように並んだ。
「あの…昼顔っていう花を、」
「…なぜ戻ってきた」
「え?」
「災いをもたらす忌み子め! お前は生贄として山神にささげたはずだ!」
「え…」
農具をもつ男らは、その手を震わせながらじりじりと迫ってきた。
「お前は五十年前に死んだはずだろ!」
「まさか、化け物に…?」
「いや、妖かもしれんぞ」
「殺すに限る」
「ああ、殺してしまえっ」
耐え難い痛みを頭に感じ、目の前が真っ赤に染まる。怒りよりも恐怖に満ちた男たちの顔が脳裏に焼き付き、映像はそこで途絶えた。
「もう、黙って消えるな。…旭」
「あ…」
はたと思い出す。背中から抱き首に牙を立て血を啜った彼が、あの時の、旭を慈しみ育てた男であると。
楽しかった記憶、嬉しかった思い出、そして——後悔。それらの感情が一気に押し寄せて、涙となって流れ出ていった。
喉を引きつらせて嗚咽し、逞しくも細いその腕を抱きしめ濡らした。あれから何年経ったのだろう。少しも変わらぬ声色と温かさが胸にしみる。
「旭。そんなに泣かないでくれ。…ほら、もう旭の血は僕の中にある。三千年前と何も変わらない」
「…ごめ、ごめんなさい。俺が…言うこと…ひっく…聞かなかったから…っ」
「もういい。もう、いいんだ。…おかえり、僕の旭」
旭のしたことは紛れもない裏切り行為だろう。死んでしまったのは自業自得だ。だというのに彼は待っていた。三千年という長い時をたった独りで待っていたのだ。涙はあふれて止まらない。生を受けて二十年、もっと早くに思い出せたら。そう思わずにはいられなかった。
「旭…もも、お願いだ。僕の名前を呼んでくれ。前と同じように…」
彼は力任せに旭を抱きしめる。どこにも行かせない、行かせたくないと行動が語っていた。吸血鬼の力は人間の何十倍ともいわれる。体はみしみしと締め付けられて痛いが、これでもきっと我慢してくれているのだろう。
走馬灯のような記憶の中にも、なかった彼の名前。真名はその存在を縛ることができるものだから、記憶という危うい箱の中には入れられない。
「うん、いくらでも。…でもその前に、離して。体が痛いよ」
「あ…ごめん」
解放された体はやはり、腕のところに痛みが残ってしまっている。これは看病してもらわないと、と思いながら、袖で乱暴に涙をぬぐった。振り返ってみれば、彼もその頬を濡らしている。妙薬にもなる、吸血鬼の涙で。
手を伸ばし、親指でそっと拭く。
心配そうに眉を下げる彼に歯を見せて笑ってやった。
「ただいま。俺の…朔! 待っててくれてありがとう」
「ああ、ああ! おかえり、旭!」
淡い月光が、地面に重なった影を落とす。
鏡にすら映らない吸血鬼を、無垢なる瞳は静かに捉えていた。
山草狩りの途中、山道に迷い月明かりを頼りに歩いていた。何度も通った慣れた山道のはずが、見慣れぬ景色が旭の周りに広がり、気づけば自分の立つそこがどこなのかもわからなくなった。
裸体の男はその身に淡い光を受けて、崖のこちら側に濃く影を落とす。白髪は銀色に輝き、冷たい風に揺れた。あらわになったうなじから、男らしく盛り上がった首に肩、引き締まった腰からは煽情的に伸びる長く逞しい脚が美しい曲線を描く。その白さがこの世の者でないことを物語っている。
「…出てきたらどうだ」
背筋がぞくっと震えた。冷えきった声は晩秋の風よりも体を冷やす。考える間もなく、恐怖と好奇心の赴くままに旭は彼の後ろに立った。
「あの、わざとじゃ…」
「人の子か?」
「え?」
「なぜここにいる?」
「えっと、道に迷ってしまって」
「帰り道がわからないと?」
「はい…」
ふっと鼻で笑われたのがわかった。その笑いが嘲笑に思えて、旭の中では怒りが芽生え、徐々に恐怖に勝っていく。旭は来年、成人する。子供っぽいと笑われるのは嫌だった。
忍んで山菜採り用の刃を握る。荒く呼吸を繰り返しながら距離を詰めていった。
「そんなもので俺が殺せると思っているのか?」
「…っ!」
音もなく目の前から男の姿が消えたかと思えば、背後をとられて自由を奪われる。刃を持つ手は手首を握られ、首には何か尖ったものがあてられた。
「…ん? お前…いい匂いだな」
「え…?」
「ここに迷い込んではもう元の場所には戻れまい。俺の花嫁になれ」
選択の余地もなく、男は旭の首をなめて濡らした。
「ね、待っ…いっ!」
がぶりと牙を穿たれ、一瞬の痛みに体をこわばらせる。死ぬ、と咄嗟に思った旭の頭の中には走馬灯のような、知らない記憶が流れ始めた。
優しげに笑うのは、果たして誰だろうか。
育ての親か、それとも恋人か。慈しむように頭を撫でられ、そのたびに胸には温かい何かがじんわりと広がっていく。彼には翼があって、空を飛び、どこまでも自由だった。飛ぶのはいつも夜で、昼は暗い部屋の中でぐっすりと眠った。
自分の自由は彼の用意した広すぎる庭だけだったけれど、それで十分だった。季節は巡り、植物はそれに合わせて咲き誇る。遊具は彼に言えば作ってくれた。彼との日々が楽しくて、そこを出ようとは思わなかった。
「外には恐ろしい生き物がいる。だからこの紐の外に出てはいけないよ」
彼にはそう言われていたけれど、その紐の前に立つ自分にはどうしても欲しいものがあった。昼間にしか咲かないという、昼顔の花である。広大な庭の植物はすべて彼が紐の外側から持ってきたもので、夜に咲いていたり、咲いていなくてもそれとわかるものだけを集めた。
世界中の植物が載っている書斎の植物図鑑の中に、庭にないものを見つけたのがきっかけだった。淡い赤い紫色の、たった一枚の花弁からなる昼顔の花を彼に見せてやりたかった。
自分の欲望にあらがえず、後ろ髪を引かれる気持ちのまま、紐を乗り越えて村へと下りてしまった。
「お、お前は…」
村の人々は、「生贄」だの、「山神の怒り」だのと繰り返し、逃げていった。ただ、昼顔の花をひと房もらいたいと言っただけなのに。
誰もいなくなった村に屈強な男だけが戻ってきたかと思えば、囲むように並んだ。
「あの…昼顔っていう花を、」
「…なぜ戻ってきた」
「え?」
「災いをもたらす忌み子め! お前は生贄として山神にささげたはずだ!」
「え…」
農具をもつ男らは、その手を震わせながらじりじりと迫ってきた。
「お前は五十年前に死んだはずだろ!」
「まさか、化け物に…?」
「いや、妖かもしれんぞ」
「殺すに限る」
「ああ、殺してしまえっ」
耐え難い痛みを頭に感じ、目の前が真っ赤に染まる。怒りよりも恐怖に満ちた男たちの顔が脳裏に焼き付き、映像はそこで途絶えた。
「もう、黙って消えるな。…旭」
「あ…」
はたと思い出す。背中から抱き首に牙を立て血を啜った彼が、あの時の、旭を慈しみ育てた男であると。
楽しかった記憶、嬉しかった思い出、そして——後悔。それらの感情が一気に押し寄せて、涙となって流れ出ていった。
喉を引きつらせて嗚咽し、逞しくも細いその腕を抱きしめ濡らした。あれから何年経ったのだろう。少しも変わらぬ声色と温かさが胸にしみる。
「旭。そんなに泣かないでくれ。…ほら、もう旭の血は僕の中にある。三千年前と何も変わらない」
「…ごめ、ごめんなさい。俺が…言うこと…ひっく…聞かなかったから…っ」
「もういい。もう、いいんだ。…おかえり、僕の旭」
旭のしたことは紛れもない裏切り行為だろう。死んでしまったのは自業自得だ。だというのに彼は待っていた。三千年という長い時をたった独りで待っていたのだ。涙はあふれて止まらない。生を受けて二十年、もっと早くに思い出せたら。そう思わずにはいられなかった。
「旭…もも、お願いだ。僕の名前を呼んでくれ。前と同じように…」
彼は力任せに旭を抱きしめる。どこにも行かせない、行かせたくないと行動が語っていた。吸血鬼の力は人間の何十倍ともいわれる。体はみしみしと締め付けられて痛いが、これでもきっと我慢してくれているのだろう。
走馬灯のような記憶の中にも、なかった彼の名前。真名はその存在を縛ることができるものだから、記憶という危うい箱の中には入れられない。
「うん、いくらでも。…でもその前に、離して。体が痛いよ」
「あ…ごめん」
解放された体はやはり、腕のところに痛みが残ってしまっている。これは看病してもらわないと、と思いながら、袖で乱暴に涙をぬぐった。振り返ってみれば、彼もその頬を濡らしている。妙薬にもなる、吸血鬼の涙で。
手を伸ばし、親指でそっと拭く。
心配そうに眉を下げる彼に歯を見せて笑ってやった。
「ただいま。俺の…朔! 待っててくれてありがとう」
「ああ、ああ! おかえり、旭!」
淡い月光が、地面に重なった影を落とす。
鏡にすら映らない吸血鬼を、無垢なる瞳は静かに捉えていた。
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