瞞着の夜会

碓氷雅

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「私と駆け落ちしていただきたいのです」

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 そのパーティーでは、場違いすぎていずれ笑い者になるのではと、気が気でなかった。眩しいほどにドレスアップされた姿で堂々とカーペットを歩く人々はみな、背筋が伸びている。自分に自信があると言葉でなく、身体に、行動に表れていた。
 
 僕にはそんなことはできない。
 
 侯爵家の二番目に生まれ、下はおらず、家督を継ぐのは三つ上の兄であったから、成人した後は家を出て商売を始めて生計を立てるつもりでいた。実際その話はお父様にもしていたし、金銭的援助は受ける手はずとなっていた。けれどある日、兄が僕の部屋にやってくるなり「今後は俺の補佐をしてくれ」と言い、僕の人生はその一言で決まってしまった。別に恨みはない。商売を始めたかったのは家に残ってニートになりたくなかったからで、本気でしたいとは思ってはいなかった。ただ、こんなにも次期当主の言葉は強いのかと驚いた。
 
 それでも、こんなパーティーに出席しなければならないのは兄だし、僕は家の中で領地の運営と経理の計算をしていればよかった。
 
 今から半年前、兄は突然亡くなった。
 
 事故だった。傍若無人な兄だったけれど、家族として愛してくれていたし僕もそれなりに信頼を寄せていたから、悲しみもそれなりで涙も流れた。葬儀はあわただしく行われ、お父様は始終、仏頂面だった。たぶん、お父様なりの意地だったに違いない。
 
 火葬が終われば、新たな次期当主のお披露目である。タキシードで髪はオールバック、背筋はきちんと伸ばしておくようにと言われ、約三時間のそれが終わった頃には身体がきしきしと悲鳴を上げていた。もう二度とごめんだという思いとは裏腹に、僕の人生はその時にはもう、レールが敷かれ終わっていた。
 
 そして、この次期当主としては初めてのパーティである。気はどんどん重たくなっていった。

「そうです。こちらが次期当主です。以後お見知りおきを」
 
 ロボットか何かになったかのように、お父様はその言葉を何回も繰り返している。疲れるだろうにと同情するが、それが当たり前の人間には無意味でしかないのだろう。ただただ、通過儀礼を淡々とこなしていく。
 
 何か非日常があればいいのに。
 
 唐突に頭にそんなことが浮かんだ。じっとりとした、品定めをするかのような視線にほとほと疲れていたからだろう。今この瞬間は、家に籠りっきりだった僕にとっては『非日常』だけれど、きっとあと数時間もすれば日常に成り下がってしまうのだろう。なんの驚きも色めきもない、白黒の世界。僕は生まれて初めて、人を恨んだ。
 
 兄さえ死ななければ、こんな家に生まれなければ、苦しい格好をして張り付けた笑顔を振りまかずに済んだのに。毎日毎日違うことをして、毎日『非日常』を味わっていられたのに。
 
 使用人や、お母様には飽き性な子と言われていたが、僕はただ、何事も一日で慣れてしまい、面白くなくなるから次から次へと手を伸ばしていただけなのだ。それが人とは違う才能であることには気づいていた。お父様も既知だった。
 
 だが、そんな才能があっても退屈は減らず、逆にどんどん増えていく。
 
 酔いが回ったからと、バルコニーに出て、夜風に当たった。晩夏の風は、夏の暑さを名残惜しそうに運んでくる。ふう、とため息をついてぬるくなったワインを喉に流せば、張り詰められた緊張の糸が、少し緩んだ。

「小侯爵様でいらっしゃいますか?」

「いかにも」
 
 せっかく息抜きをしていたのにと、声をかけてきた女を恨んだ。振り返って見てみれば、真っ赤なドレスに重そうなダイヤのアクセサリーで飾り付けた女が浅く頭を下げていた。

「わたくしアール公爵家が次女、リリーと申します」

 アール公爵家と言えば、王家とのつながりも深く実質この国で二番目の権力者の家だ。よっぽどのことがなければ、侯爵家の僕に話しかけてくることはないような高貴な身分である。

「これはこれは。失礼しました。ブリアント侯爵家が次期当主、ルークでございます。以後お見知りおきを」

 片手を胸に当てて、少し深めに頭を下げる。リリー嬢も再び頭を下げた。

「して、何用でございますか?」

「はい…。私と、駆け落ちしていただきたいのです」

「…は?」

 思わず間抜けな声が出てしまった。リリー嬢の口から出た、駆け落ちという言葉を反芻する。彼女の目は必死さを物語っていて、冗談や遊びで言っているのではないことは分かった。だが——

「そう簡単にその言葉を言うべきではありませんよ。聞かなかったことに致しますので、パーティーにお戻りください」

「わたくし、本気ですの。軽々しく言ってもいい言葉なんて思っていません」

 背筋は伸びていて自信に満ちた眼差しは、なぜ私の頼みを聞いてくれないのかと威圧的に感じさせた。

 この国で女性には政治的発言権はもとより、人権さえもないに等しい。爵位のある家に生まれれば政治の駒となり、身分のない家に生まれれば令嬢よりは自由があるものの、結婚するまでは一人前ではないという風潮のせいで結婚を強いられる。

 留学で行った、隣国のリスタン王国は女王が統べる国なだけあって男女ともに等しく権利を持っていた。そしてそれが当然だった。それを知ってようやく、僕はこの国が遅れているのだと知った。

 だから、リリー嬢が「駆け落ちしてほしい」と言うのもわからない話ではない。だが、それを実行するには彼女の世界は狭すぎる。

「冗談だとは思っていません。では、少し質問に答えていただけますか?」

「ええ。よろしくてよ」

「なぜ、僕だったんですか? 失礼ながら、僕はリリー嬢を存じ上げておりませんでしたし、僕はずっと家に閉じこもっていましたからリリー嬢も僕をご存じではなかったですよね?」

「わたくしに、ひいては女性に興味がなさそうでしたから」

「…それだけですか?」

「十分な理由ですわ。この国の男どもは女を自分たちと同じ人間とは思っておりませんもの。そういう人にお願いしたところで、一蹴されて終わりですわ」

「では、後のことは考えておられるのですか?」

「ええ、もちろん」
 
 リリー嬢はにこりと笑いながら言う。受け入れてくれたと思い込んでしまっているのかもしれない。

「リスタン王国に行って、静かに暮らす計画ですの」

 具体的には? の言葉をぐっとこらえて飲み込む。自ら望んだわけではないとはいえ、苦労を知らない生活を二十年近くしてきた彼女にとって、生活するということがどんなに大変なことなのかは、想像すらできないことだろう。

 ならばとアプローチを変えてみることにした。

「いえ、残された家族のことをお聞きしたのです」

「え…?」

「リリー嬢、あなたは皇太子殿下と婚約なさっていらっしゃいますね?」

「…」

 まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。ぽかんとしてしまっている。

「もし、あなたが僕と駆け落ちしたとして、それは残された側からしてみれば、婚約を無視して逃げたことになり、王家との約束を反故にしたことになります。いくら王家とのつながりが深い家だとはいえ、断罪は避けられないでしょうね。それでもいいのですか?」

「あ…」

「逃げたい気持ちは、分からないでもありません。初対面の僕を選ぶくらいですから。ですが、代償が大きすぎるのではありませんか?」

「…」

 唇を噛んで、悔しそうに下を向くリリー嬢は、その眼に涙を見せた。

「…では、どうすればいいのです? 経済や政治について学べない、気軽に街に出ることもできない。自由がないわたくしにはもう、この方法しかないと思っておりましたのに…」

 どうせ理解できないから花嫁修業だけをやっていればいいと言われ、弟の授業を盗み聞き、その先生に質問すれば女が調子に乗るなと罵倒される。そんな生活がもう嫌なのだと、リリー嬢は嘆いた。

「立場を利用してはいかがですか?」

「立場を…?」

「はい」

 皇太子殿下はリスタン王国に留学している。この国をさらに発展させようとするならば、女性の力が必要になることを殿下は知っているに違いない。

「いずれ、あなたは皇妃殿下になられます。この国で唯一、議会に出席できる女性ではありませんか。議会の人たちはリリー嬢の言葉を無視出来ませんし、記録に残されます。加えて、私見ではありますが、皇太子殿下は女性が自由になることに関して、理解のある方と思います」

「え…?」

「一度でも、今私におっしゃったことを殿下にお話になりましたか?」

「いいえ…」

「では、いい機会ですね」

「はい?」

 数分前から感じる視線。バルコニーは広いが、パーティー会場からは少し離れた場所であり、人通りは少ない。その視線はリリー嬢が話しかけてきたときから感じていた。

「リリー嬢。人に知られては困る話をするときは、お一人で来られるのがいいですよ」

「え…?」

 コツコツと足音をわざとたてて、彼は柱の後ろから現れた。

「殿下…!」

「王国の太陽、皇太子殿下にあいさつ申し上げます」

 驚き唇を震わせるリリー嬢の横で優しげな笑顔を浮かべる殿下に、頭を下げる。

「ああ。苦しゅうない」

「あ、あの、殿下。これは…」

 未婚の男性と婚約者のいる女性がふたりっきりなのは、言わずとも外聞が悪い。あわあわと口を動かしながら、何とか説明しようとリリー嬢は顔を青白くしていた。

「説明せずともよい。全て聞いていたからな」

 二人の時間を邪魔してはいけないと、会釈してその場を抜けようとすると、待て、と止められた。やましいことは何もないとはいえ、止められると冷汗が流れる。

「ブリアント小侯爵。お前はここで、一人で酔いをさましていた。そうだな?」

「はい。おっしゃる通りです」

「ではパーティーに戻るがよい。を脅すのは私の美学に反するからな」

「…失礼いたします」

 心臓が悲鳴を上げるほどに、バクバクと鼓動が早くなっていた。パーティー真っ只中のホールに戻る気は起きず、バラが散り垣根だけになった庭のベンチに腰を下ろした。

 殿下は気づいていた。家族と死んだ乳母しか知らない僕の秘密を。

 それにしても、「レディを脅すのは美学に反する」などと言いながら、その言葉で脅してくるとは…。しかも、リリー嬢は突然殿下が表れたことでパニックになっていたせいで、不思議の思うどころか、覚えてもいないだろう。殿下だけは敵に回さない方がよさそうだと胸に刻んだ。

 宵も更けて、風も冷たさを感じるようになった。あまりこの場にとどまるのはよくない。酒に飲まれた男女の逢瀬の場になるのだ。

 深呼吸をし、呼吸を落ち着かせてからホールに足を向けた。

 一陣の風が強く吹く。

 この国の行く先が明るいように思えて、パーティーに向かう足は少しだけ軽くなったような気がした。
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