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しおりを挟む転がるように走るって経験を、私は今、してる。
こういうのって、ドラマの中で、ピンチになったヒロインをヒーローが助けに行くときしかやらないやつだと思ってたんだけどなー。
休みだから当然閉まっているだろうと思っていた会社の門扉は押したら、開いた。休日なのに。(誰か来てる)と思ったら、勝手に足が動いていた。ウチの会社は化学系の薬品を扱う。もしもの火災や事故に備えて敷地に余裕持たせているとか。いざという時、消防車や救急車が入れるように。防火林もどきの樹木が立ち並び、ちょっとした公園気分を味わえるから、昼時にはお弁当持参の社員が木陰でくつろぐ光景が見られる。セミがうるさいのが玉にキズだけど。今はその広さがもどかしい。
とにかく研究棟に向かってずんずん歩いていくと、
「……意思は変わらない?」
と、声が聞こえてきた。私がビクッと足を止めたのはそれが氷雨先輩の声だったから。
「すみません。僕は、今のままの会社が好きだったので……」
こっちの声は千賀氏だ。胸がドキドキしてきた。出ていける雰囲気じゃないよ……つい、太い木の幹の後ろに隠れてしまった。
「買収されて会社が変わってしまう、と?」
「そうです。それが怖い」
「世界的企業の一員になれる。あなたの研究もあなた自身も、もっと有名になれる」
「……そういうのは、ちょっと」
拒絶を滲ませる千賀氏の声があんまり弱々しいから(先輩と、どっちが年上なのよ?)って突っ込みたくなる。そしたら急に、
「リチャードはタダシの研究が欲しいだけ。彼の才能をしゃぶり尽くしたら、ハイ、さよならってするに決まってる。私がタダシを守ります」
と、ピンと張ったレンの声が聴こえて、私はひっくり返りそうになった。
だから思わず、
「辞めるって、本当ですか」
って、飛び出してしまった。
そんな私に、話をしていた三人はひどく驚いた様子だったけれど。
さすが、すぐにレンが、
「そうよ。彼と彼の才能を守るためよ」
と言いはなった。
レンが千賀氏の腕を掴む。千賀氏はそれを振り解かない。ただ、悲しそうに私を見た。
「さようなら、伊豆川さん」
二人の背中を追いかけようとしたのに、先輩が私の肩に手を乗せてきて。
それだけで動けなくなってしまった。
急に気づいたんだ。私の仕事は千賀氏をウチの会社に引き留めることだったのに、たった今、その任務を失敗しちゃったってこと。
頭が真っ白になった私が立ち尽くしていると、
「……なぁ、イズっちゃん」
と、背後から氷雨先輩が言った。めずらしく遠慮がちに聞こえた。
「失敗しちゃった。私、リーダーだったのに。千賀さん、辞めたって課長に報告しなきゃ、ですね」
「いや……、報告はいらない」
「最近、課長ともほとんどっていうより全然会ってないし。なんだろ? マジ放置ってゆーか。……ホント信じられない。私みたいなペーペーにリーダー押し付けて、フォロゥ無しって。何それ? そりゃ、失敗するわ……」
「……」
「報連相は仕事のマナーでしょ。報告・連絡・相談は些細なことでもちゃんとやれ、って研修で耳にタコができるくらい言われましたもん」
スマホを取り出して課長の連絡先をタップしようとしたら、背中から抱きしめられる体勢でスマホを取り上げられてしまった。
「ちょっ……何、するんですか!」
「もう、課長は知ってる」
その言葉を理解するまで数秒かかった。
かぁっとなった私は、先輩の腕の中身体を反転して彼を見上げた。
氷雨先輩は、今日はジャケットを着てないけれど、社長の貌をしてた。オールバックなんて似合ってないよ。黒縁メガネってまさか真面目チャンになったつもり? このクソ暑いのにきっちりボタンして首にはネクタイぶら下げてさ。私のよく知っている先輩とはまるで別人。
「知ってる……知ってた?」
聞き返すとメガネの奥の榛色の瞳が泳いだ。
「ごめん。忙しくてなかなか連絡できないうちに」
「サイテー!」
(リーダーの私を差し置いて!)って思うのは私の思い上がりじゃないよねっ?!
「俺も課長も忙しかったんだって!」
それ以上、言わせてやるもんかって思った。何言われたって腹が立つものは立つのだ。えいっと伸び上がって先輩の顔を引っ叩くと、わざとらしい黒縁メガネがどこかへ飛んでいった。同時に先輩の腕がほどけ、スマホを取り返した。「待てよ!」と追いすがってくる先輩の脛を、パッと振り向きざま思い切り蹴ってやった。
「痛っ」としゃがんだ先輩に背を向け私は走った。息が切れて立ち止まらなきゃいけなくなるまで走った。
氷雨先輩は、追いかけてこない。
足が止まって。手を両膝に背中を丸めると、額から顎に伝った汗がアスファルトに滴り落ちた。
(なーんだ。追いかけて来ないのかよ)鼠色の地面に汗で描いていると、すごく惨めだなーって、悲しくなって。
疲れた。
手の甲で汗を拭い、体を起こして前を向くと、以前千賀氏と入った喫茶店が私の目に飛び込んできた。
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